fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

六月大歌舞伎 夜の部 松嶋屋の権太、松緑の狐忠信

歌舞伎座夜の部を観劇。超満員ではないが、ほぼ満席の入り。流石松嶋屋松緑と揃う座組だけの事はある。しかも狂言が『義経千本桜』の「すし屋」と「四の切」ときている。久しぶりに丸本をたっぷり堪能出来た。コロナ過では中々出来なかった狂言立て。これが二部制の良いところだ。お金と時間にゆとりがあれば、何度でも観たい芝居だった。

 

幕開きは「木の実・小金吾討死・すし屋」。「すし屋」のみの単独上演が多い昨今だが、これはやはり「木の実・小金吾討死」から出した方が断然良い。松嶋屋が演じる際にはこの場を出してくれる事が多い。七年程前に高麗屋がやはり同様に演じて絶品とも云うべき出来であったが、今回の松嶋屋もそれに劣らない。配役は松嶋屋の権太、錦之助の弥助実は維盛、孝太郎の内侍、壱太郎のお里、千之助の小金吾、梅花のお米、吉弥の小せん、彌十郎の景時、歌六の弥左衛門。中では梅花が初役の様だ。

 

松嶋屋の権太、かなり独特なものである。上方の型と音羽屋型を折衷した上に、自らの工夫が施されている。齢八十に近くなっても研鑽を怠らない松嶋屋、本当に凄い事だと思う。まず最初の「木の実」で舞台上手から出て来るその出の軽さ。腰が浮いた軽さではない。芸を積み上げた果てに出せる軽さだ。いかにも小悪党を感じさせるリアルさ、簡単に出せるものではないだろう。音羽屋も高麗屋も体調が万全でないと伝えられる昨今、一ケ月興行でこれをやり通せるのは、松嶋屋だけかもしれない。

 

荷物をわざと間違えて小金吾にあったはずの金がないと凄むところも、それまでの愛嬌から一転、悪の本性を見せる。ここいらの芝居も実に上手い。うまうま金をせしめた後に、再転して倅善太郎に見せる優しさ。ここが後段に効いてくる。善太郎の秀之介が実に愛らしい。続く「小金吾討死」は千之助が大立ち回りで大奮闘。若いだけに身体もよく動くし、一つ一つの所作がピリッと締まっていて、好感が持てる良い小金吾。歌六の弥左衛門が小金吾の死骸を見つけて刀を振り上げたところで一度幕が下りる。

 

そして「すし屋」。ここではまず錦之助の弥助が実にぴったりのニンで素晴らしい出来。すし桶を担いで花道を出て来るところの柔らかさ、お里とのやり取りで見せる優男ぶりもまずもって文句のつけ様のないもの。弥左衛門に「まず、まず」と云われて維盛として舞台に直るところもキッバリとして気品もあり、これは当代無双と云っていいだろう。対する壱太郎のお里も良い。いかにも上方のじゃらじゃらした娘の感じがよく出ており、自ら床入りをせがむところのおきゃんな芝居に客席も沸いていた。

 

弥助とお里がじゃらついているところに、舞台下手から権太が出て来る。音羽屋型にある人相書きと弥助を見比べるところはカット。そして母親を呼び出して甘える芝居も度々年齢を出して恐縮だが、とても八十近い大名題には見えない。愛嬌溢れる実にいい権太だ。受ける梅花のお米も初役乍ら流石の上手さ。菊池寛じゃないが、父帰ると聞いて母からせしめた金をすし桶に入れて奥に引っ込む。弥左衛門が戻り小金吾の首をこれまたすし桶に入れるが、桶を並べて置く際に一つずつずらしてから置く。これがすし桶を取り違える伏線になっており、実に芝居が細かい。これは他の役者では見られない工夫だ。

 

梶原が詮議に現れ、問い詰められた弥左衛門が維盛の首だと云ってすし桶を開けようとするところに維盛を討ち取った権太が、内侍と六代の君を引き連れて花道から登場。舞台に廻って「ツラ上げろぃ」で足ではなく手で内侍と六代の顔を上げさせるのが上方流。首実験となる。引き連れた女・子供は実は自分の女房・倅を身替りに立てているので、権太の表情はいかにも苦渋に満ちており、この後梶原一行を見送った花道のツケで手をついて慟哭するところと併せて底割の感もあり、ここは評価の分れるところかもしれない。しかし権太の心情がリアルに客席に響いてくるのも事実だ。「三位中将維盛の首に、相違ない」と云われ、片袖を落とすのではなく両手を滑らす様に膝前に置くのが松島屋流。ここの緊迫感溢れる芝居は実に上手い。

 

そして梶原一行が花道から下がり、見送った権太が泣き伏したところから立ち上がり、笑顔で「お父っあん」と走り寄るのを弥左衛門が怒りに任せて刺してしまう。ここがまた松島屋の工夫で、父に今の首と内侍・六代は身替りであり、俺はあんたの望む通り維盛卿を守ったのだと報告しようとしたのが先の「お父っあん」なのだ。しかし勿論不良の倅がまたしても裏切ったと思っている弥左衛門には通じず、権太を刺してしまうと云う演出になっている。この後の刺され乍らのモドリの述懐もリアルで、全体に義太夫味は奥に下げられ、現代に通じるリアルな家族悲劇の芝居として再生されている。筆者的には一つの往き方として鮮烈で印象的な素晴らしい「すし屋」であったと思う。最後に歌六の弥左衛門が、手強さがあり乍ら最後に父親の情愛もしっかりと見せる傑作とも云うべき出来であったのを付言しておきたい。

 

打ち出しは「川連法眼館の場」通称「四の切」。松緑の忠信実は源九郎狐、時蔵義経坂東亀蔵の次郎、左近の六郎、門之助の飛鳥、東蔵の法眼、魁春静御前と云う配役。中では左近が初役だが、他は何度も演じた手練れが揃っている。松緑にとっては襲名興行でも演じた役。音羽屋の役者として、満を持しての芝居であろう。事実その通り、実に見事な狐忠信であった。

 

音羽屋型なので、宙乗りの様な澤瀉屋型のケレンはない。丸本として、松緑は真正面からこの狂言に挑んでいる。筆者が何より感心したのは、踊り上手な自らの武器を生かした形の良さ、所作の見事さだ。兎に角動きの多い役なので、所作に渋滞があると全てが台無しになってしまう狂言。その点松緑の狐忠信は他の役者と比べても抜けて所作が上手い。殊に静御前に「さてはそなたは狐じゃな」と正体を見顕されてからのクドキは、その動き一つで狐の心情を表現し尽くす絶品とも云うべき出来。器用な役者ではないので、科白回しには無骨な感じがあるものの、これほど表情豊かな狐忠信の所作が出来る役者は、他にいないのではないだろうか。少なくとも筆者は見た事がない。これは松緑の傑作であったと思う。

 

脇では魁春の静、時蔵義経共にもう手の内の役。最後に余談乍ら、今回は幕開きで既に法眼と飛鳥が舞台にいる形ではく、飛鳥が舞台で法眼が花道から出て来る型。舞台に廻って二重に上がる際も東蔵の足が辛そうで、傘寿を幾つも超えている東蔵にそこまでやらせるかと、少し気の毒に思った次第。勿論芝居はニンでない役乍らしっかりしたものであったが。前述の通り松緑が本当に見事で、各役揃った素晴らしい「四の切」を堪能させて貰った。

 

久々に手応えのある『義経千本桜』の半通し。客の入りも良く、チャリ場での受けも上々で、満足感たっぷりの歌舞伎座夜の部であった。来月は歌舞伎座に加えて大阪松竹の開場100周年記念公演も観劇予定。松島屋・成駒家の上方系の役者に加え、幸四郎菊之助も出る。今から実に楽しみだ。