fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

国立劇場 歌舞伎のみかた 扇雀・虎之介の『日本振袖始』

国立劇場の歌舞伎鑑賞教室を観劇。今年の正月の音羽屋公演には行けなかったので、国立劇場での今年初歌舞伎観劇。高校生の団体が来ていたが、その他の一般客はかなり少なく、入りは寂しい感じであった。名題役者は殆ど扇雀親子のみの手薄さだったので、それも致し方ないか。中村屋から鶴松が出ていて、鶴松が単独で中村屋以外の公演に付き合うのは珍しいのではないだろうか。

 

幕開きは虎之介と祥馬による「歌舞伎のみかた」。写真で紹介した様に幕は引かれておらず、回り舞台に乗って虎之介が登場。GジャンにGパンと云うラフな姿にまずびっくり。続いて祥馬が登場して、こちらは袴姿。花道の説明などを祥馬がしている間に虎之介が一旦引っ込み、袴姿で再登場。見得や鳴り物などの解説をした後、モニターを使って『日本振袖始』の説明をクイズ形式で行う。高校生対象なので、分かり易くを念頭に丁寧で好感が持てる。舞台から降りて高校生に話しかける場面もあり、学生たちには良い思い出になったのではないだろうか。

 

休憩を挟んで『日本振袖始』。扇雀の岩長姫実ハ八岐大蛇、虎之介の素戔嗚尊、鶴松の稲田姫と云う配役。三人とも初役だと云う。八岐大蛇退治の神話に基づいた近松門左衛門の作品。山城屋は演じた事はなかったそうだが、近松作品を生涯かけて演じ続けた父の遺志を継ぎ、扇雀自ら選んだ演目だと云う。美しい姫が大蛇に変わる趣向はいかにも歌舞伎的で、視覚的にも面白く、鑑賞教室にはうってつけの作品であろう。

 

この作品はここ数年観る機会が結構あり、筆者は菊之助と大和屋で観た。何れも見事なものであったが、この二人と扇雀では作品の捉え方に相違がある。大和屋と菊之助はひたすら歌舞伎的な趣向を重んじ、美しい姫が大蛇に変わる妙味と、大蛇と素戔嗚尊の大立ち回りを華々しく見せる事に主眼を置いている。これはこの狂言の王道的な往き方だろう。しかし近松作品を愛した父の遺志を継ぐ扇雀は、この作品に独自のテイストを加えている。それが岩長姫実ハ八岐大蛇の「心」を表現する事である。

 

花道から赤姫姿でせり上がり、被衣を取った姿は美しく、還暦を過ぎた扇雀だがまだまだ赤姫に違和感はない。舞台に廻って大甕の酒を次々飲んで行く酔態も見事な技巧。そしてここが独特なのだが、その表情が実に哀しげなのだ。大和屋や菊之助も実に美しい酔態を見せてくれるが、ここでの表情に哀愁はない。しかし扇雀はここに短調的な調べを入れて来ている。稲田姫を一飲みして屋体に入り、大薩摩の後に大蛇となって現れるが、素戔嗚尊稲田姫に託した剣で背中を切り裂かれ姫は脱出。そして十握の宝剣も奪還される。ここで大蛇が「姫も宝剣も奪われた」と大音声で恨みの科白を云うのだが、そこにこうとしか生きようのなかった岩長姫ひいては八岐大蛇の哀しみが表出されているのだ。

 

扇雀はこの狂言をただのスペクタクル要素で見せる芝居とは思っておらず、勧善懲悪だけに終わらない、討たれる者の悲哀、その心を演じたいと思っていたのだと筆者には感じられた。それが(良い悪いではなく)、大和屋や菊之助との大きな相違であったと思う。初役乍ら流石扇雀とも云うべき出来であった。虎之介もキリっと引き締まった立派な素戔嗚尊女形もやる優なので、父の様な立派な兼ねる役者になって貰いたい。鶴松は正に時分の花の美しさ。どことなく儚げなところもニンで、こちらも初役とは思えない結構な出来であった。

 

高校生の団体がいなかったらと思うとぞっとする入りではあったが、にも関わらず成駒家親子大熱演の見事な『日本振袖始』であったと思う。