fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

四月大歌舞伎 第三部 松嶋屋・大和屋による『桜姫東文章 上の巻』

歌舞伎座第三部を観劇。コロナ以降、三部になってからの公演では筆者の知る限りにおいて一番の入りだったのではないだろうか。勿論入場規制がかかってはいるが、であればこそ猶更と云った感じで、場内の熱気が凄かった。その感想を綴りたい。

 

大南北作『桜姫東文章 上の巻』。六月に下の巻を上演するらしい。今回は「稚児ケ淵」から「三囲」迄の上演。大和屋の桜姫、松嶋屋の清玄/権助二役、鴈治郎の悪五郎、錦之助の七郎、福之助の軍助、吉弥の長浦、歌六の残月と云う配役。この狂言での玉孝の共演は三十六年ぶりだと云う。正に歴史的な公演だ。しかも六月と分けての上演とは松竹さんも商売が上手い(笑)。まぁ冗談はさておき、松嶋屋・大和屋の体力的な事を考えての上演の様だ。

 

何せ三十六年ぶりなので、筆者は前回の共演は観ていない。しかしこの演目は、特に大和屋にとっては自分の運命を変える事になった大きな役だった。有名な話しだが、昭和四十二年国立劇場で上演されたこの狂言で、桜姫は先代京屋だったが、白菊丸に当時十七歳だった大和屋が起用されたのだ。この公演を観た三島由紀夫が大和屋に惚れ込み、後に自ら脚本を書いた「椿説弓張月」の白縫姫に抜擢。大和屋ブレイクのきっかけとなった。晩年の三島は至るところで大和屋を絶賛し、「三島最愛の女優」の座を歌右衛門から奪った形になった。それもあってか、その後かなりの長きに渡って歌右衛門は大和屋を冷遇する事になるのだが。

 

しかし松嶋屋と大和屋の共演はいつも特別なものだが、それが『桜姫東文章』となればまた格別である。筆者ごときがこれにとやかく云えるものではない。とにかく必見の舞台であったとしか云い様がないのだ。大南北の原作はいかにもグロテスクで、高貴なお姫様がゴロツキに強姦されて子供迄産んだあげく、その男の事が忘れられず身を持ち崩していく。商家の出だった南北は、余程高貴な身分の人間に怨みでもあったのだろうか、とにかく桜姫を徹底的にいたぶる内容である。対して権助は悪人ではあるが、色気と鯔背な雰囲気のある実にいい男なのだ。それを松嶋屋が演じている。これはもう鉄板であろう。

 

二人の発する濃厚な味わいに圧倒され続けた二時間だったので、あまり細かく書き記すとどこまで長くなるか分からない。以下簡単に印象的な部分を記す。三島が強い印象を受けたと云う発端の白菊丸花道の出は、やはり鮮烈。花道で転んで清玄を見上げた時の白菊丸の美しさ、儚さ、もうこの世の者とは思われない。「桜谷草庵の場」の濡れ場における二人の艶っぽさ。桜姫がお姫様から女に変わって行くところの妖艶な色気は、当代の女形では大和屋以外には出せないだろう。そしてその相手が色悪を演じさせたら当代一の松嶋屋ときては、最早云うべき言葉もない。

 

「稲瀬川の場」のカットは残念だったが、ここでもお姫様を縛めて苛め抜くと云う南北の嗜好を受けて、大和屋演じる桜姫の被虐美が凄絶。そして最後の「三囲の場」。桜姫がかつて自分が愛した白菊丸の生まれ変わりと知った清玄が、姫の片袖に赤子をくるんでさ迷い歩く。雨を拾った傘でよけ、そぼ降る雨の中それと判らぬ桜姫から、袱紗に入った薬を貰う。ふっとこの袱紗は自分が桜姫に与えたものだと気づく。その時起こした火が消えて辺りは暗闇になる。この辺りの世話の呼吸が流石松嶋屋、抜群に上手い。そしてすれ違って行く二人の切なさが舞台一杯にさざ波の様に広がって、幕となる。実に余韻の残るいい終幕。正にTo Be Continuedと云ったところで、これは六月も観ざるを得ませんな(苦笑)。

 

兎に角古希を過ぎた二人とは思えない若々しさと艶っぽさに、圧倒され続けた「東文章」。脇では鴈治郎の悪五郎が、ニンにない役乍ら手強い出来で、印象的だった。今月残るは高麗屋の弁慶。これも多分凄い公演になる事だろう。

四月大歌舞伎 第二部 芝翫・菊之助の「太十」、梅玉・孝太郎の『団子売』

のっけから今月の歌舞伎観劇からは話しが逸れるが、先月播磨屋倒るの報は、満天下の歌舞伎愛好家を震撼させた。その後詳報がなく、現在もICUに入ったままの様だ。先月の手術以降「俊寛」、「一力」、「楼門」と播磨屋の芝居を観たが、明らかにいつもの播磨屋ではなかった。その事はご当人が一番よくわかっていたと思うのだが、周囲は気づかなかったのだろうか。批評も全て絶賛に近い評で、それが油断を生んだ遠因でもあるのかとも思う。声が腹から出ておらず、力も入っていなかったのは芝居を観ている人なら判りそうなもの。このブログで無理はしないで欲しいと書いても、播磨屋に届くはずもなく、歯がゆい限りだ。一日も早い回復を祈りたい。

 

閑話休題。四月大歌舞伎を観劇。その二部の感想を綴りたい。幕開きは『絵本大功記 十段目』、所謂「太十」だ。芝翫の光秀、菊之助の十次郎、梅枝の初菊、彌十郎の正清、扇雀の久吉、東蔵の皐月、魁春の操と云う配役。これが実に素晴らしい出来だった。

 

何度かブログでも書いているが、丸本は筆者が最も好きな歌舞伎ジャンルだ。しかしその中にあって、この「太十」は少し苦手な狂言だった。最近では芝翫でも観ているし、播磨屋でも観た。浅草の歌昇はまだ手も足も出ない印象だった。すべからく筆者の心に響くものがなかったのだ。お前がこの狂言を理解出来ていないのだろうと云われればそれまでだが、文楽では随分面白く観れたのだ。しかし今回初めて歌舞伎で、この狂言が素晴らしい物であると再認識させられた。

 

まず何と云っても素晴らしいのは芝翫の光秀だ。元々義太夫味のある優だが、今回は今までよりも更に濃密な味わいで、先年同じ狂言を観た時とは雲泥の違いだ。まず藪畳から現れて笠を取ったところ、古格な役者顔がこの役にぴたりと嵌る。明らかに以前より芸容が大きくなっている。竹を切って槍を作るところから、障子の向こうの久吉(実は母皐月)を刺すところ迄、竹本に乗ったこれぞ義太夫狂言とも云うべき泰然たる所作で、この武将が天下を狙う程の人間である事が自ずと現れる。

 

芝翫はこの役を亡き團十郎に教わったと云う。その時に「この役は色々考えず、とにかく大きさを出しなさい」と云われたらしい。主役としては科白も多くはなく、兎に角肚で押して行き、團十郎に教わったであろう大きさがしっかり出ている。母と倅十次郎の死を嘆く所謂「大落とし」の古怪さは、その最大の発露。科白も全くなく、所作のみで光秀の嘆き・哀しみを表現する難しい場だが、これほど古怪な味わいのある大落としが出来る芝翫の時代物役者としての力量には、改めて瞠目させられた。

 

系図正しき我が家を」と主殺しを母皐月に責められての「神社仏閣を破却し」や「討ち取ったるは我が器量」の科白廻しも、甲の声と呂の声を屈指して実に見事な丸本物の科白術。久吉と正清が登場して屋台上の久吉、揚幕前の正清を向こうに回して花道七三で決まった姿も、惚れ惚れする様な役者ぶり。当代最高の光秀役者は、間違いなくこの中村芝翫であると、断言したい。実に見事な光秀だった。

 

対する菊之助の十次郎も素晴らしい。屋台奥から出て来たところ、討ち死にの覚悟がその眉宇にしっかりと表れている。役が肚に入っている証拠だ。障子に手をついての「母様にも、婆様にも」や「盃せぬが身の仕合せ」の科白も、正統な丸本物の二枚目の科白廻しになっている。戦で手負いになり、合戦の模様を語る物語でも、終始手傷を負っている事を忘れず、しかし乍ら科白の内容はしっかり伝えなければならない難しいところを実に上手く仕おおせている。「もう目が見えぬ」の哀れさも一入で、今まで菊之助の弱点は丸本にあると思っていたが、どうしてどうして今回は大手柄。今後のこの優の丸本物に注目したい。

 

東蔵の皐月、魁春の操は完全に手の内に入っている。梅枝の初菊も「二世も三世も」のくどきが見事にイトに乗っており、若いながらも素晴らしい丸本の御姫様。扇雀彌十郎も何れもニンで、役者が揃って難しいこの丸本の大作をたっぷり堪能させて貰った。襲名公演でも演じた「熊谷」や「盛綱」も、今の芝翫で改めて観てみたいものだ。

 

打ち出しは『団子売』。梅玉の杵造、孝太郎のお臼のコンビ。こう云う舞踊で、孝太郎が父松嶋屋以外の役者と組むのは珍しい。度々云っている様に、最後を踊りで〆る狂言立ては、筆者好み。いい気分で劇場を後に出来る。梅玉がこの役を勤めるのは五十五年ぶりだと云うから凄い。その芸風から愛嬌には乏しく、松嶋屋の様な浮き浮きとした味は薄いが、軽さを出していて、こう云う踊りはこの軽みが大事。孝太郎のお臼も世話女房らしさが自然に出ており、この優はお姫様よりこう云う女房役の方がニンであると思う。実に気持ちの良い舞踊だった。

 

丸本と舞踊。いい二本立てで、楽しめた第二部。一部は高麗屋の『勧進帳』、三部は玉孝三十六年ぶりの『桜姫東文章』と、物凄い狂言が並ぶ今月の歌舞伎座で、つい忘れられがちな二部だが、実に充実していた。その他の部の感想は、また改めて綴りたい。

四月大歌舞伎(写真)

f:id:fabufuji:20210406081907j:plain

四月大歌舞伎を観劇。ポスターです。

 

f:id:fabufuji:20210406081919j:plain

一部の絵看板です。

 

f:id:fabufuji:20210406081931j:plain

同じく二部・三部。

 

f:id:fabufuji:20210406081942j:plain

弁慶の2ショット。凄すぎる。

 

f:id:fabufuji:20210406081955j:plain

こちらの2ショットも凄い。古希を超えている二人とは思えない。

 

緊急事態宣言が解除されたせいか、先月よりも入りが良かったですね。しかし気になるのは播磨屋の容態。何とか無事回復されるのを心から願っています。。。

 

三月大歌舞伎 第二部松嶋屋の「熊谷陣屋」、音羽屋の「直侍」

今月の最後、当代の大看板が二人揃った大一座、二部の感想を綴りたい。

 

前の記事でも書いたが、一部・三部に比べて突出した手応えのある狂言が並んだ第二部。全ての部がこんなだったら、それはもう大変な事になるが、ともあれ非常にこの二部は充実していた。まず幕開きは「熊谷陣屋」。松嶋屋の熊谷、錦之助義経、孝太郎の相模、坂東亀蔵の軍次、門之助の藤の方、松之助の景高、歌六の弥陀六と云う配役。藤の方と軍次以外は、昨年師走の南座の顔見世をそのまま持ってきた座組。

 

歌舞伎座松嶋屋が熊谷を演じるのは十六年ぶりの様だ。正に幕切れの科白ではないが、「十六年は一昔」の感。その間に高麗屋播磨屋はそれぞれ四回ずつ演じている。確かに当代の熊谷と云うとこの二人と云う印象が強い。だがそこは松嶋屋、前記二人とはまた肌触りの異なる熊谷を造形して見せてくれた。

 

何と云っても松嶋屋の熊谷の特徴は「情の人」であると云う事だ。人間熊谷と云い替えても良い。花道の出から相模と藤の方を前に敦盛の最期を語る「軍物語」迄、高麗屋播磨屋の様な大きさはない。この二人だとその骨太な描線と、濃厚な義太夫味で大きな云わばスーパーマンの様な熊谷を造形してみせる。例えば花道の出。ここは普通墓参帰りの熊谷が、我知らず数珠をすっと取り出してそれが僅かに刀に当たり、ハッと我に返って数珠を袂に入れて決まる。しかし松嶋屋は違う。花道で決まる前に、数珠を握りしめて天に向かって亡き我が子を偲び拝む。微かに震える姿には父としての情愛と、人間らしさが滲む。

 

舞台での相模と藤の方を前にした物語でも、扇子をかざして「おーい、おーい」が手強さよりも二人に対する気遣いの様なテイストがあり、非常に情深い味わい。この場は、例えば播磨屋だと地鳴りのこどき底響きのする様な調子で、手強さが全面に出る。しかし今回の松嶋屋は相模や藤の方に気遣いながら敦盛(実は小次郎)最期の模様を語る、と云った調子になっている。そこに「情の人」たる今回の熊谷の特色が出る。そしてまた独特だったのは義経を前にした首実検。首を見た相模が驚き、藤の方が駆け寄って来るのを制札で抑えての「お騒ぎあるな」。ここで騒がれては全てが水泡に帰すと云う思いは誰がやっても同じだが、松嶋屋は相模と義経を交互に見乍ら制札で相模を制する。熊谷にとってはここが切所で、義経を非常に気にしているのが強く表現されており、他の誰とも違う独特の行き方だ。

 

首桶から首を取り出して義経に見せる所も、他の人の様にグッと差し出す様な事はせず、膝の上に置いて義経から若干距離を置いた形で見せる。主人に首をグッと押し付ける様にして見せるのは非礼と考えているかの様だ。そう、情の人熊谷は主の義経に対しても満腔たる思いを持っているのだ。松嶋屋も筋書きで「見逃してならないのは大将(義経)への思い」と語っている。

 

義経に「敦盛の首に相違ない」と云われて、相模に首を渡す。ここも首を抱きしめて万感の思いを見せた後、他の人の様に首を舞台上に置くのではなく、直接相模に手渡す。ここにも父として、夫としての熊谷の情が滲み、涙を誘う場になっている。最後は髷を切り落として僧形になった熊谷が、墨染めの姿で陣屋を去る。花道で「夢であったなぁ」と崩れ落ちるが、陣太鼓を聞いてハッとなる。武将としての血が騒ぐ一瞬だ。しかしフッと我に返り、そう自分は世を捨てた身なのだと思い返して花道を引っ込む。ここも実に上手い。最後迄松嶋屋ならではの工夫が随所に見られた素晴らしい熊谷だった。

 

孝太郎の相模も、襖が開いての出から、我が子を案じる母の思いが滲みながら、女が来るべき場所でない陣屋に来てしまった心細さ、後ろめたさが見事に表現されている。我が子の首を抱きしめての嘆きも、その哀しみが舞台一杯に広がる熱演で、父松嶋屋を向こうに回しておさおさ見劣りのしない見事な相模。錦之助義経歌六の弥陀六も共にニンで、とりわけ歌六左團次と並ぶ当代の逸品。役者が揃った最高の「陣屋」だった。

 

続いて打ち出しは「直侍」。音羽屋の直次郎、時蔵の三千歳、團蔵の丑松、東蔵の丈賀、橘太郎の仁八と云う配役。劇団お馴染みの役者が揃った、当代の「直侍」。直次郎花道の出では、流石に八十近い音羽屋。脂気が若干落ちて往年の色気はないものの、雪で覚束ない足元を気にするその足取り、追われる身である事をさり気なく見せる辺りを見回す素振り、する事に間違いがあろうはずもない。

 

蕎麦屋に入っての芝居も微に入り細に入り、実に細かい。猪口に浮かんだ塵を箸で取るところ、丈賀の話しを聞こうとして衝立に隠れるところ、手紙を書くからと蕎麦屋の女将に筆と紙を無心し、使い古した筆を舐めて筆先を整えるところ、こう云う細かな芝居が世話物の味だ。

 

雪道での丑松にかける「達者でいろよ」の科白も情のあるところが滲む。「大口屋の寮」での音羽屋糟糠の妻時蔵の三千歳との浄瑠璃に乗った見事な所作事。する事はいつも同じだが、そこに積み重ねた芸の年輪が自然と出てくる。捕手に追われて花道に駆け込んでの「もうこの世では逢わねえぞ」の幕切れ迄、名人芸をたっぷり堪能させて貰った。劇団の世話物は、正に歌舞伎観劇の醍醐味と云っていいだろう。時蔵東蔵共間然とするところのない見事な出来で、こい云う芝居こそ次代に継承して行くのが難しいのではないかと思ってしまう。芝翫幸四郎松緑菊之助あたりには、音羽屋の元気な内にしっかりこの芸を受け継いで行って欲しいものだ。

 

来月は久々に歌舞伎座高麗屋の『勧進帳』がかかる。きっと素晴らしい舞台になるだろう。今から楽しみでならない。しかしこの二部が清寿太夫がコロナに感染して二日間程中止になったりしている。清寿太夫の無事と、来月は何事もなく舞台の幕が開く様にと、祈るばかりだ。

歌舞伎座 三月大歌舞伎 第一部中村屋の『猿若江戸の初櫓』、松緑・愛之助の『戻駕色相肩』、第三部播磨屋・幸四郎の『楼門五三桐』、大和屋・鴈治郎の『隅田川』

歌舞伎座三月大歌舞伎を観劇。写真を投稿した時にも書いたが、二部が当代の大看板が揃う大作狂言二演目で二時間半の上演時間。一部・三部は舞踊劇中心でどちらも正味一時間。どうしてこう云うアンバランスな座組になったのか。四部制の時の松嶋屋の「石切梶原」が70分あった事を考えると、チケット代が上がっている分、割高感は否めない。文句あるなら行かなければいい様なものだが、やはりそうも行かない。ぶつぶつ云いながらも感想を綴る。

 

まず一部。幕開きは中村屋の『猿若江戸の初櫓』。勘九郎の猿若、七之助阿国彌十郎の万兵衛、扇雀の勝重と云う配役。四年程前にも上演された狂言で、その時勝重だった彌十郎が今回は福富屋に回った。内容はさしたる事もなく、役者の賑やかな舞踊を見せる狂言。立往生している福富屋の荷車を曳くべく、猿若が音頭を取って舞いを披露する。これが軽く爽やかな踊りで、流石は勘三郎のDNAを受け継ぐ勘九郎。実に気持ちの良い舞踊を見せてくれる。

 

奉行の板倉勝重から興行を許可して貰った返礼として、猿若・阿国が連れ舞いを披露。いつもコンビを組んでいる中村屋兄弟の二人舞。イキもピッタリで、毎度の事乍ら見事なもの。奉行の扇雀が「お前たちの勢いで、流行り病を退散させてくれ」と、コロナネタを盛り込む。それを受けて最後は若手花形揃っての総踊りで幕。僅か三十分程の出し物だが、気持ちの良い舞踊狂言だった。

 

続いて『戻駕色相肩』。松緑の次郎作、愛之助の与四郎、莟玉の禿たよりと云う配役。常磐津舞踊で、五右衛門と秀吉が駕籠かきをしていると云う、いかにも元が天明歌舞伎らしい大らかな狂言だ。これも筋と云う程のものはない。舞踊の腕と役者の風情を見せる狂言。今回は松緑愛之助と云う藤間流楳茂都流舞踊家元対決(?)。流石に両者共上手い。

 

松緑は次郎作を愛嬌たっぷりに、しかしこの優らしくきっちり踊る。愛之助の与四郎は二枚目らしい色気があり、和かな舞踊。そして禿の莟玉は、先年浅草で観た時より艶やかさが出て来ている。花形三人がうち揃った春到来を思わせる華やかな舞踊劇で、観ている間はコロナを憂さを忘れさせてくれた。やはり私は舞踊が好きなのだなぁと改めて思ったが、こちらも三十分程の狂言。愚痴を云う様だがやはり短いな、と云うのが正直なところだ。

 

続いて三部。幕開きは『楼門五三桐』。播磨屋の五右衛門、幸四郎の久吉、歌昇の右忠太、種之助左忠太と云う配役。これは更に短く十五分程の出し物だ。昨年の手術以来、その体調が心配される播磨屋。浅葱幕が落とされて出て来たところの大きさ、押し出しの立派さ、動く錦絵の様で流石は当代最高の五右衛門役者だと思わせる。しかし声は・・・やはりいけない。「春の眺めは価千金」の科白がいかにもか細く、肚から出せていない。本来の播磨屋には程遠い印象だ。今年に入って三ケ月の内二ケ月に出ている播磨屋。本来なら大歓迎だが、今の播磨屋にこれ程の無理をさせるのは如何なものかと思う。九月の秀山祭迄はゆっくり静養して、体調を取り戻して欲しいものだ。

 

幸四郎の久吉は初役の様だが、楼門下からせり上がって来たところの風情が実にいい。剛直な五右衛門と対になる優美な久吉は幸四郎のニンでもあり、叔父さんに充分対抗出来ている。今度はぜひ海老蔵の五右衛門と組んだ花形同士の「楼門」を見てみたいものだ。

 

そして打ち出しは『隅田川』。大和屋の班女の前、鴈治郎の舟長と云う配役。清元舞踊劇で、云わずと知れた亡き歌右衛門の当たり芸。行方知れずの息子の消息を求めて彷徨い歩く班女の前の心情にスポットライトを当てた、劇的要素の強かった歌右衛門に比べ、大和屋はより舞踊の要素が全面出た演出。情緒溢れる清元にのって、幽玄な世界が歌舞伎座の大舞台に現出する。

 

我が子が亡くなったと舟長から聞かされた班女の前の狂乱ぶりが、実にドラマチックだった歌右衛門に対し、より内向的で内に籠った表現に終始する大和屋。歌右衛門より動きが少なく、その分より古風な味わいさえある。どちらが良い悪いと云う事ではなく、同じ狂言でも二人の名人が違った解釈を見せてくれるところが、歌舞伎の面白味でもある。対する舟長の鴈治郎も、大和屋の作り出した幽玄な雰囲気を損ねる事なく、その上で情味のあるところを見せる実にいい舟長。役者が揃った見事な令和の『隅田川』となった。

 

色々文句を云う様なものの、出し物としてはそれぞれ見事なものではあった。手応えのある長時間の狂言は、二部を観なさいと云う事なのだろうか。その二部についてはまた別項にて改めて綴りたい。

歌舞伎座 三月大歌舞伎(写真)

f:id:fabufuji:20210319091737j:plain

歌舞伎座、行って来ました。ポスターです。

 

f:id:fabufuji:20210319091749j:plain

一部・二部の絵看板です。

 

f:id:fabufuji:20210319091801j:plain

同じく三部。

 

f:id:fabufuji:20210319091813j:plain

東銀座の地下から地上に上がるエスカレーター脇に掲示。必見ドラマですな。

 

今月も引き続き入場規制の三部制が採られている歌舞伎座。二部が長くて、一部・三部は正味一時間前後の狂言建て。どうしてこんなアンバランスな事になったのか。まぁ歌舞伎の良し悪しは、狂言の長さに比例する訳ではありませんが。感想はまた別項にて。

 

市川海老蔵 「古典への誘い」 児太郎の『舞妓の花宴』、海老蔵の『弁天娘女男白浪』

海老蔵が足掛け九年間続けている「古典への誘い」。聞くところによると、石川県公演で、コロナ以降初めて人数制限を撤廃して公演を行ったと云う。筆者は神奈川県民ホールにて観劇。本当はシビックセンター公演の方が便が良かったのだが、チケットが入手出来なかった。流石は当代一の人気役者海老蔵である。その感想を綴る。

 

幕開きは『舞妓の花宴』。児太郎が白拍子に扮した一人舞踊で、三十分以上舞い続ける。長唄舞踊だが、筆者寡聞にして初めて観た出し物。これが実に良かった。烏帽子に水干を着け、太刀を佩いた男姿で白拍子の児太郎が現れる。男舞だが、男装の麗人といった体なので、柔らかく武張ったところはない。しかし格調高い舞いで、この優の進境著しいところが見える。

 

そこから一転、烏帽子・水干をとって打掛を脱ぎ、紅い振袖の娘姿になって女舞になる。ここは若手花形らしい清楚な色気があり、指先迄しっかり気持ちの行き届いた見事な所作で魅せてくれる。最後はこの世の弥栄を祈りつつ舞い終る。何と云っても三十分以上の一人舞踊だ。これはもう大作である。これをここまで踊れるとは。近年大和屋の薫陶を受けている児太郎。その成果がしっかり見て取れた見事な舞踊だった。

 

そしてメインの『弁天娘女男白浪』。海老蔵の弁天、男女蔵の駄右衛門、右團次の力丸、児太郎の十三郎、九團次の利平の五人男に、市蔵の幸兵衛、廣松の宗之助と云う配役。この狂言は、近年ではかなり難しい(特に浜松屋)出し物になっている感があるが、これが中々見応えがあった。

 

海老蔵の父團十郎以来、成田屋は駄右衛門がニンである。先年音羽屋の弁天を相手に駄右衛門を勤めていた海老蔵。技術的にはともかく、ニンで押していてそれはそれで見事な駄右衛門だった。しかし今度は自分の座頭公演。当然の事乍ら主役の弁天に回った。海老蔵は器用な役者ではないと筆者は思っている。そして技巧で見せるタイプでもない。特に女形をやるとその不器用な所が剥き出しになり、所作もとても女性には見えない。例えば『春興鏡獅子』の弥生がそうだった。その欠点が今回も出ており、「浜松屋見世先の場」での振袖姿の娘の間は厳しい。力丸の右團次が小柄で損をしている部分もあったが、身体を殺せていないから娘に見えないのだ。

 

しかし玉島逸当に正体を見顕されて弁天になってからは一転。海老蔵の最大の長所である持って生まれた華が全開になり、舞台が実に華やかになるのだ。そしてお決まり「知らざぁ云って聞かせやしょう」からの長科白。口調としては現代口調が所々顔を出し、正調の黙阿弥調とは云えない。しかし近年の役者では中々出来ない謡い調子を出せているのだ。この謡い調子を出せる花形は、今はいない。近年観た幸四郎猿之助より、ここはたっぷり聴かせてくれた。煙管の扱いも堂に入っており、悪の華が舞台一面に広がる。海老蔵が演じるのは五年ぶりとの事だが、見事な弁天だった。

 

そして最後は「稲瀬川」。五人男勢揃いでの花道のつらねは、写真でも紹介した通り花道がない会場。視覚的にはせせこましい感は否めなかったが、科白は各人それぞれのキャラクターを出していて、聴かせる。中では男女蔵の駄右衛門が、玉島逸当の時は今一つぱっとしなかったが、ここでは賊徒の頭領らしい貫禄を出している。右團次の力丸は技術的にはこの五人の中では一番。しっかりとした黙阿弥調を聴かせてくれた。「浜松屋」の時は、もう少しこの役らしい愛嬌が欲しいと思う場面もあったが、全体としては手堅い力丸。児太郎と九團次も手一杯の芝居で、重厚さはないが、花形らしい華やかな「稲瀬川」となった。

 

色々欠点もあり、完璧であったとは云えない弁天ではあったが、音羽屋の名人芸を求めて観劇に来た訳ではない。今の年齢でこそ出せる華やかさがあり、謡い調子を出そうとする明確な意思が感じられる弁天。花道のない会場で「坊主待ち」の場や上記「稲瀬川」のつらねなど、どうしてもせせこましい感じになってしまうのは否めなかったが、正月の粂寺弾正に続き、海老蔵好調を思わせる巡業公演であった。終演後暫く拍手が鳴りやまず、歌舞伎座では見られないカーテンコール。定式幕をめくって笑顔の海老蔵が登場、愛嬌のあるところを見せてくれた。