納涼歌舞伎第一部に続いて、第二部も観劇。相変わらず入りも満員に近い盛況で、気温に負けず劇場内も熱気に溢れていた。一部は通し狂言であったので一狂言のみであったが、この二部は二狂言の上演。落語を元にした笑劇と長く上演が途絶えていた"悪婆"ものの復活狂言と云う対照的な演目が並ぶ狂言立て。殊に『らくだ』は筆者の席の側で観劇していた女性の見物衆が「こんなドタバタ、歌舞伎で初めて観た」と会話していたくらいなので、新しい観客を獲得するには、いい演目選定であったのかもしれない。
幕開きはその『らくだ』。歌舞伎に数多い落語ネタ。落語の歌舞伎化には人情噺系統が多い。芝居と云う性質上まぁそれも当然ではあるのだが、これは珍しい落とし噺の歌舞伎化。落語の噺の中でも大ネタとされ、(最近ではそうでもないかもしれないが)大真打しか掛けられない噺とされている。八代目可楽を始め志ん生や圓生、五代目小さんなどこの噺を十八番にしていた噺家には、ずらりと名人が並んでいる。オチまで口演すると四十分くらいはかかる噺だが、近年はその前で切る事が多い。もっとも可楽はオチ迄やって二十五分くらいでまとめると云う離れ業を見せてはいたが。歌舞伎でも焼き場に行く前で切っている。
今回の配役は勘九郎の久六、幸四郎の半次、梅花のおぎん、長太郎の三太、玉朗のおやす、市蔵の馬太郎、彌十郎の佐兵衛。それに今回歌舞伎座初出演の笹野高史が家主女房おいくを演じる。亡き勘三郎の盟友であった笹野なので、その関係で勘九郎が声をかけたのではないだろうか。この芝居は亡き片岡亀蔵を偲んでと銘打たれている。そして亀蔵が当り役とした馬太郎を、兄の市蔵が演じている。胸中、どんな思いが去来していたであろうか。その市蔵を始めとして、全員が初役の様である。
亀蔵追悼狂言なので、随所に亀蔵ネタが出て来る。笹野が「鶴亀鶴亀」と云ったり、からくり人形の話題が出てきたりで、都度見物衆からは惜しみない拍手が送られていた。改めて脇の名役者を亡くした穴は大きいと思うし、役者仲間からも一目置かれていた存在であったのだと思う。まさか弟の追善狂言に出るなどとは夢にも思っていなかったであろう兄市蔵の胸中を想うと居たたまれない気持ちになるが、見物衆からの拍手の大きさに、弟が本当に愛された役者であったのだと、しみじみと感じていたのではないかと思う。一代の名優片岡亀蔵の御霊の安らかならん事を、祈るのみである。
芝居としては芸達者の二人が主演なので、つまらない訳はない。久六を呼び止めた半次が、「いい話しがあるんだ」と云うと「じゃ伺います」と間を摘んで返す辺りの勘九郎の呼吸なぞは流石の芝居である。ただどうした事か今回の幸四郎は科白が入っていないところがあった。大家にらくだが死んだ事を知らせて酒と煮しめを届ける様久六に命じるところで、科白廻しがグダグダになってしまい、勘九郎がフォローして何とかしのいではいたものの、何度もこの狂言を観ている人間にはミスがすぐバレてしまう。そして肝心の酒と煮しめを届けさせろと云う科白を飛ばしてしまっていた。人間なのでミスはつきものだ。しかし初日や二日目ではなくもう楽も近い公演日としては、幸四郎ほどの役者には少し考えられないトチリである。体調などに問題がなければ良いのだが。
市蔵のらくだは亀蔵の愛嬌とは違った持ち味で、淡々と演じているところに面白味がある。多分にアドリブも多いと思うが、「佐兵衛内の場」におけるかんかんのう踊りや、大詰「元の駱駝内の場」などでは完全に主役であり、見物衆にも大いに受けていた。最後はらくだの死骸が半次を操りながら踊る始末で、見物衆が沸きに沸く中、幕となった。笹野の女形ぶりはやはり歌舞伎的ではなく違和感はあったものの、亭主の彌十郎とのやり取りでは、流石の年季を感じさせていたし、板付で出て来るおぎんの梅花なども世話の味わいをしっかり滲ませており、芝居巧者ぶりを遺憾なく発揮してくれていた。幸四郎のミスは残念ではあったが、笑劇として、しっかり笑わせて貰えた芝居であった。
打ち出しは『鬼神のお松』。『百千鳥沖津白浪』と云う外題が付いており、元は江戸時代に三世桜田治助が書いたと云う古い狂言らしい。それを田圃の太夫と称され、"悪婆"ものを得意とした四世澤村源之助が何度も演じて評判を取ったと云う。平成になって、早逝した九世澤村宗十郎が紀伊國屋の当り狂言として復活させた芝居である。何せ本公演では六十二年ぶりの上演との事なので、筆者も初めて観る狂言である。配役は七之助のお松、右近の四郎次郎、米吉の藤浪、虎之助の芝平、歌女之丞のお福、歌之助の小助実は木鼠、福之助の一学歌昇四郎太郎、扇雀の主水。復活狂言なので、当然乍ら全員初役である。
大筋としては、お家の重宝暁丸を奪われて父を殺された目の見えない夫四郎次郎の為に、女房(正式に結婚はしていないが)お松が盗賊となり刀を盗んだ悪人を探す。その中でそれと知らず四郎次郎の兄四郎太郎を殺してしまうなど悪事を重ねる事となる。一方四郎次郎には許婚の藤浪がおり、お松はそれを知らずに四郎次郎と仮の夫婦になっていると云う背景がある。最後は暁丸を取り戻し目が見える様になった四郎次郎は目出度く帰参が叶うが、お松は盗みと殺人の咎でお縄になる。四郎次郎との間に出来た赤子を夫と藤浪に託し、縄付きの姿でお松が花道を引き揚げて幕になると云う芝居である。
しかしどうしてこれ程の狂言が長く上演されずに埋もれていたのであろう。実に面白い芝居で、筆者は大いに楽しめたし、今年観た数々の狂言の中でも最高の物の一つであると云って良いと思う。藤浪が盗賊に追われて逃げ込んで来た家が四郎次郎の家であったりとか、稽古場の師匠であるお松がどうして子分を何人も従える盗賊になれるのか等々、歌舞伎あるあるのご都合主義的なまるで漫画「キャッツアイ」を思わせる荒唐無稽な展開ではあるが、お松の夫や子供に対する情愛がいじらしく健気で泣かせる場もあり、実にいい狂言である。確かにこのお松と云う役は、亡き宗十郎にぴたりと嵌まった事であろう。
悪婆役とは云えこのお松、出の最初はならず者に追われる娘であり、次の場では四郎次郎との間に子まで生している妻であり母であり、はたまたその裏で盗賊であると云う顔を持っている複雑な役柄である。この狂言が長くお蔵入りしていた背景には宗十郎以降、この役をしっかりこなせる女形が出現しなかったと云う事情もあったのであろうか。その難役に挑んだ七之助であるが、実に見事な成果をあげた。夫への一途な想い、赤子に見せる情愛溢れる母の顔、そして女盗賊としての凛とした表情。当然の事乍らそれぞれしっかり声色も変えた科白廻しで、何れも見事に演じ分けて見せ、圧巻の出来であった。確かに女形が演じる役柄としては振れ幅が大きく、並の女形役者ではこなせないであろう。三役演じ分けの様な芝居であるからだ。
殊に素晴らしかったのは大詰である。縄付きで曳かれて行くお松に、赤子を抱えた藤浪が「この子がお乳を」と声をかける。「天下の罪人鬼神のお松に、血の繋がる子があろうや」と返す七之助お松の、凛とした科白廻しがかえって泣かせる。乳を欲しがる子の泣き声を背に「やあやあとよく泣くガキだ。その泣き声が、夜道の障り」と捨て科白を吐き、まだ泣き止まない赤子に「泣くんじゃあねぇよ。えぇ見っともねぇ、ガキだなぁ」と云う涙交じりの科白廻しは、正に圧巻の出来であった。畳にのの字を書いているお姫様より、こう云う凛とした役柄が、七之助には実によく映える。本当に素晴らしいお松であったと思う。これは何としてもまた再演して貰わねばなるまい。
他の役者にこれと云った見せ場がなく、強いてあげれば四郎次郎にそれらしい気品と艶が求められると云うくらい。兎に角お松役者の独壇場とも云える芝居で、それも上演が途絶えていた一つの理由かもしれない。しかし本当に泣かせるいい狂言で、埋もれさせるのは勿体ない。今回四郎次郎を演じた右近あたりにも、ぜひ挑戦して貰いたい役柄である。近い内の再演を期待したいと思う。本当に良い芝居を見せて貰えて、大満足の納涼歌舞伎第二部であった。








