fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

歌舞伎座 八月納涼歌舞伎 第二部 勘九郎・幸四郎の『らくだ』、七之助の『鬼神のお松』

納涼歌舞伎第一部に続いて、第二部も観劇。相変わらず入りも満員に近い盛況で、気温に負けず劇場内も熱気に溢れていた。一部は通し狂言であったので一狂言のみであったが、この二部は二狂言の上演。落語を元にした笑劇と長く上演が途絶えていた"悪婆"ものの復活狂言と云う対照的な演目が並ぶ狂言立て。殊に『らくだ』は筆者の席の側で観劇していた女性の見物衆が「こんなドタバタ、歌舞伎で初めて観た」と会話していたくらいなので、新しい観客を獲得するには、いい演目選定であったのかもしれない。

 

幕開きはその『らくだ』。歌舞伎に数多い落語ネタ。落語の歌舞伎化には人情噺系統が多い。芝居と云う性質上まぁそれも当然ではあるのだが、これは珍しい落とし噺の歌舞伎化。落語の噺の中でも大ネタとされ、(最近ではそうでもないかもしれないが)大真打しか掛けられない噺とされている。八代目可楽を始め志ん生や圓生、五代目小さんなどこの噺を十八番にしていた噺家には、ずらりと名人が並んでいる。オチまで口演すると四十分くらいはかかる噺だが、近年はその前で切る事が多い。もっとも可楽はオチ迄やって二十五分くらいでまとめると云う離れ業を見せてはいたが。歌舞伎でも焼き場に行く前で切っている。

 

今回の配役は勘九郎の久六、幸四郎の半次、梅花のおぎん、長太郎の三太、玉朗のおやす、市蔵の馬太郎、彌十郎の佐兵衛。それに今回歌舞伎座初出演の笹野高史が家主女房おいくを演じる。亡き勘三郎の盟友であった笹野なので、その関係で勘九郎が声をかけたのではないだろうか。この芝居は亡き片岡亀蔵を偲んでと銘打たれている。そして亀蔵が当り役とした馬太郎を、兄の市蔵が演じている。胸中、どんな思いが去来していたであろうか。その市蔵を始めとして、全員が初役の様である。

 

亀蔵追悼狂言なので、随所に亀蔵ネタが出て来る。笹野が「鶴亀鶴亀」と云ったり、からくり人形の話題が出てきたりで、都度見物衆からは惜しみない拍手が送られていた。改めて脇の名役者を亡くした穴は大きいと思うし、役者仲間からも一目置かれていた存在であったのだと思う。まさか弟の追善狂言に出るなどとは夢にも思っていなかったであろう兄市蔵の胸中を想うと居たたまれない気持ちになるが、見物衆からの拍手の大きさに、弟が本当に愛された役者であったのだと、しみじみと感じていたのではないかと思う。一代の名優片岡亀蔵の御霊の安らかならん事を、祈るのみである。

 

芝居としては芸達者の二人が主演なので、つまらない訳はない。久六を呼び止めた半次が、「いい話しがあるんだ」と云うと「じゃ伺います」と間を摘んで返す辺りの勘九郎の呼吸なぞは流石の芝居である。ただどうした事か今回の幸四郎は科白が入っていないところがあった。大家にらくだが死んだ事を知らせて酒と煮しめを届ける様久六に命じるところで、科白廻しがグダグダになってしまい、勘九郎がフォローして何とかしのいではいたものの、何度もこの狂言を観ている人間にはミスがすぐバレてしまう。そして肝心の酒と煮しめを届けさせろと云う科白を飛ばしてしまっていた。人間なのでミスはつきものだ。しかし初日や二日目ではなくもう楽も近い公演日としては、幸四郎ほどの役者には少し考えられないトチリである。体調などに問題がなければ良いのだが。

 

市蔵のらくだは亀蔵の愛嬌とは違った持ち味で、淡々と演じているところに面白味がある。多分にアドリブも多いと思うが、「佐兵衛内の場」におけるかんかんのう踊りや、大詰「元の駱駝内の場」などでは完全に主役であり、見物衆にも大いに受けていた。最後はらくだの死骸が半次を操りながら踊る始末で、見物衆が沸きに沸く中、幕となった。笹野の女形ぶりはやはり歌舞伎的ではなく違和感はあったものの、亭主の彌十郎とのやり取りでは、流石の年季を感じさせていたし、板付で出て来るおぎんの梅花なども世話の味わいをしっかり滲ませており、芝居巧者ぶりを遺憾なく発揮してくれていた。幸四郎のミスは残念ではあったが、笑劇として、しっかり笑わせて貰えた芝居であった。

 

打ち出しは『鬼神のお松』。『百千鳥沖津白浪』と云う外題が付いており、元は江戸時代に三世桜田治助が書いたと云う古い狂言らしい。それを田圃の太夫と称され、"悪婆"ものを得意とした四世澤村源之助が何度も演じて評判を取ったと云う。平成になって、早逝した九世澤村宗十郎が紀伊國屋の当り狂言として復活させた芝居である。何せ本公演では六十二年ぶりの上演との事なので、筆者も初めて観る狂言である。配役は七之助のお松、右近の四郎次郎、米吉の藤浪、虎之助の芝平、歌女之丞のお福、歌之助の小助実は木鼠、福之助の一学歌昇四郎太郎、扇雀の主水。復活狂言なので、当然乍ら全員初役である。

 

大筋としては、お家の重宝暁丸を奪われて父を殺された目の見えない夫四郎次郎の為に、女房(正式に結婚はしていないが)お松が盗賊となり刀を盗んだ悪人を探す。その中でそれと知らず四郎次郎の兄四郎太郎を殺してしまうなど悪事を重ねる事となる。一方四郎次郎には許婚の藤浪がおり、お松はそれを知らずに四郎次郎と仮の夫婦になっていると云う背景がある。最後は暁丸を取り戻し目が見える様になった四郎次郎は目出度く帰参が叶うが、お松は盗みと殺人の咎でお縄になる。四郎次郎との間に出来た赤子を夫と藤浪に託し、縄付きの姿でお松が花道を引き揚げて幕になると云う芝居である。

 

しかしどうしてこれ程の狂言が長く上演されずに埋もれていたのであろう。実に面白い芝居で、筆者は大いに楽しめたし、今年観た数々の狂言の中でも最高の物の一つであると云って良いと思う。藤浪が盗賊に追われて逃げ込んで来た家が四郎次郎の家であったりとか、稽古場の師匠であるお松がどうして子分を何人も従える盗賊になれるのか等々、歌舞伎あるあるのご都合主義的なまるで漫画「キャッツアイ」を思わせる荒唐無稽な展開ではあるが、お松の夫や子供に対する情愛がいじらしく健気で泣かせる場もあり、実にいい狂言である。確かにこのお松と云う役は、亡き宗十郎にぴたりと嵌まった事であろう。

 

悪婆役とは云えこのお松、出の最初はならず者に追われる娘であり、次の場では四郎次郎との間に子まで生している妻であり母であり、はたまたその裏で盗賊であると云う顔を持っている複雑な役柄である。この狂言が長くお蔵入りしていた背景には宗十郎以降、この役をしっかりこなせる女形が出現しなかったと云う事情もあったのであろうか。その難役に挑んだ七之助であるが、実に見事な成果をあげた。夫への一途な想い、赤子に見せる情愛溢れる母の顔、そして女盗賊としての凛とした表情。当然の事乍らそれぞれしっかり声色も変えた科白廻しで、何れも見事に演じ分けて見せ、圧巻の出来であった。確かに女形が演じる役柄としては振れ幅が大きく、並の女形役者ではこなせないであろう。三役演じ分けの様な芝居であるからだ。

 

殊に素晴らしかったのは大詰である。縄付きで曳かれて行くお松に、赤子を抱えた藤浪が「この子がお乳を」と声をかける。「天下の罪人鬼神のお松に、血の繋がる子があろうや」と返す七之助お松の、凛とした科白廻しがかえって泣かせる。乳を欲しがる子の泣き声を背に「やあやあとよく泣くガキだ。その泣き声が、夜道の障り」と捨て科白を吐き、まだ泣き止まない赤子に「泣くんじゃあねぇよ。えぇ見っともねぇ、ガキだなぁ」と云う涙交じりの科白廻しは、正に圧巻の出来であった。畳にのの字を書いているお姫様より、こう云う凛とした役柄が、七之助には実によく映える。本当に素晴らしいお松であったと思う。これは何としてもまた再演して貰わねばなるまい。

 

他の役者にこれと云った見せ場がなく、強いてあげれば四郎次郎にそれらしい気品と艶が求められると云うくらい。兎に角お松役者の独壇場とも云える芝居で、それも上演が途絶えていた一つの理由かもしれない。しかし本当に泣かせるいい狂言で、埋もれさせるのは勿体ない。今回四郎次郎を演じた右近あたりにも、ぜひ挑戦して貰いたい役柄である。近い内の再演を期待したいと思う。本当に良い芝居を見せて貰えて、大満足の納涼歌舞伎第二部であった。

 

 

歌舞伎座 八月納涼歌舞伎 第一部 巳之助・右近・幸四郎の『牡丹燈籠』

一年の歌舞伎座興行で、唯一「大」の冠が付かない八月の納涼歌舞伎。平成と改元されたばかりの頃に、亡き勘三郎と三津五郎が始めて大入り。それが毎年の恒例公演となって現在迄時の花形役者を中心とした興行として受け継がれて来ている。芝翫の世代が卒業した後は幸四郎と猿之助が中心となって上演して来たが、猿之助がああ云う事となり、幸四郎は去年あたりから脇に廻る機会が増えていて、そろそろ卒業かもと思わせる。巳之助や右近を始めとして、染五郎や團子・辰之助などの若手花形も育って来ており、今後はその世代が中心となって上演されて行くのであろう。入りも満員に近い感じで、頼もしい限りである。ただ今年は大和屋が参加しているので、大歌舞伎となってもおかしくはないのであるが。

 

この納涼歌舞伎の特徴は三部制である点。筆者がまず観劇したのは第一部で、普段の月と比べて上演時間も短いので、出し物は『牡丹灯籠』の一狂言のみ。「文七元結」や「芝浜」同様、落語中興の祖と云われる三遊亭圓朝の作である。それを戦後になって大西信行が文学座の為に書き下ろしたものを、平成になって松嶋屋と大和屋、所謂孝玉主演で歌舞伎化された狂言である。脚本の大西信行は、TVシリーズ「水戸黄門」の脚本家として知られているが、この狂言の脚本も流石の出来。余談だが大西氏は落語評論でも知られた存在であり、中でも「落語無頼語録」はその抜群の文章力と相まって、筆者が今まで読んだ落語(家)評論の中でも最高のものである。今は多分絶版になっていると思われるので、入手困難本かもしれないのであるが。

 

今回の配役は巳之助の伴蔵、右近のお峰、新吾のお国、橋之助の源次郎、染五郎の新三郎、辰之助のお露、緑のお米、精四郎の志丈、玉太郎がお竹とお梅の二役、宗之助のお絹、権十郎の平左衛門、幸四郎が圓朝と久蔵の二役。納涼歌舞伎らしく、全員が初役。まぁあまり上演される機会も多くはない狂言なので、それも当然であろうか。それぞれ誰の教えを受けたのかは筋書に記載されていないので不明だが、唯一橋之助だけは父芝翫からの直伝の様である。

 

お露の幽霊が恋しい新三郎に逢いに来る時の「カラン、コロン」と云う下駄の音で名高い作品であるが、大西脚本の面白いところは、場と場の繋ぎにこの噺の口演者である圓朝を登場させ、口座で噺を掛けていると云う体裁で狂言回し的な役割を担わせているところである。その圓朝を今回は幸四郎が演じている。亡き古今亭志ん朝が出囃子に使っていた「老松」が流れて幸四郎圓朝が登場する辺り、落語好きには堪らない演出である。そしてその幸四郎の圓朝が実に上手い。芝居と云うより落語を語っている体なのであるが、その話ぶりが本職顔負けの上手さなのだ。芝居を観る様に人物が活写されており、この優は噺家を志していても、大成したのではないかと思わせるものがある。

 

そして主役の巳之助の伴蔵が、金に目がくらんで破滅していく小心な男を、この優らしく真っすぐに演じて、実に見事な出来。本来女房の尻に敷かれている様な男なのだが、幽霊に頼まれて恩ある新三郎殺しに手を貸して大金を手に入れ、それを元にして荒物屋を始めて繁盛し、増上慢となって女房迄手にかけるに至る。最後の「幸手堤の殺し」の場では、本水を遣って凄惨な女房殺しを歌舞伎的な所作でしっかりと見せてくれており、迫力満点。この伴蔵と云う役は亡き父三津五郎も演じた事があり、それはそれは見事なものであったが、恐らく直接教えを受けてはいないだろうけれど、父の芝居をしっかり写して初役らしからぬ結構な伴蔵であったと思う。

 

女房お峰を演じた右近もまた見事。本来美貌の若女形であるが、嫉妬に狂う年増女の狂気と哀しい性(さが)をきっちりと表出しており、こちらも初役とは思えない立派な出来。狂言序盤の世話な味わいも年齢に似ぬ上手さだ。この二人がいいので、芝居が盛り上がる。紀尾井町家初の兼ねる役者辰之助も、多少作り込んだ感はあるものの、幽霊になってまでも新三郎を想うお露の妄念に加えて、儚さまでも感じさせる。初役としては、まず文句のない出来であった。幸四郎のもう一役久蔵も、調子のいい田舎者を見事な技巧で演じてみせ、これがあの弁慶を演じる英雄役者かと疑うくらいの出来。

 

その他脇では染五郎の新三郎がこの優らしい気品と色気があり、浪人とは云え出自の良さを感じさせる立派な新三郎。新吾のお国も夫に殺しをそそのかす悪性な部分と、不具になってもその夫に尽くそうとする世話女房ぶりをきっちり演じて悪くない出来。ただその夫源次郎を演じた橋之助が科白廻しが現代調で、色気にも欠けていてやや残念な出来。今の橋之助には、新三郎の方がニンであったかもしれない。最後になったが、抜擢人事の緑お米が、幽霊になっても主人に尽くす実直な乳母をきっちりと演じて、見事抜擢に応えていた事を付け加えておきたい。初役揃いの配役ではあったが、若手花形手一杯の芝居が如何にも納涼歌舞伎で、総じて実に結構な怪談『牡丹灯籠』になっていたと思う。これなら脚本の大西氏も、天国でさぞ喜んでいる事であろう。

 

先にも記したが今月は三部制。残る二つの部の感想は観劇の後、また改めて綴る事とする。

歌舞伎座 八月納涼歌舞伎(写真)

納涼歌舞伎に行って来ました。ポスターです。

 

一部・二部の絵看板です。

 

同じく三部。

 

出し物のポスター三枚綴りです。

 

納涼歌舞伎恒例の、出演役者団扇の寄せ書きです。

 

今年の暑さは去年よりはマシに感じますが、それでもやはり暑い(苦笑)。そんな中で芝居見物。暑さを忘れさせる熱演が観られました。感想は、また別項にて綴ります。

歌舞伎座七月大歌舞伎 昼の部 隼人・染五郎の『末広がり』、幸四郎・團十郎の『時今也桔梗旗揚』、松嶋屋・幸四郎、松也・隼人の「御浜御殿綱豊卿」

七月歌舞伎座昼の部を観劇。昼の部もAプロ・Bプロがあり筆者はどちらも観劇したが、どちらも入場券完売の看板が出る大盛況。松嶋屋・幸四郎・團十郎・松也・隼人・染五郎と大名題から若手花形の人気者迄勢揃いとなれば、それもまた当然であろう。そしてその内容も、充実したものであった。松竹の決算は大阪松竹座の建て替え費用を計上した関係で赤字であった様であるが、演劇部門は堅調と聞く。今後も充実した座組で、素晴らしい芝居を見せて貰いたいものである。

 

幕開きは『末広がり』。松羽目物ではあるが、今回の上演が二度目で、令和になってから作られた新作狂言である。今回の配役は隼人の太郎冠者、染五郎の大名。二度目の上演なので、当然の様に二人共初役である。名家の御曹司二人なので気品もあり、ドタバタ喜劇に堕していないのは好感が持てる。隼人の所作が若干柔らかみに欠ける部分もあったが、その分太神楽では器用なところを見せ、見物衆から驚きの声と大きな喝采を浴びていた。染五郎は流石の位取りで、大名らしさをしっかりと感じさせる所作が見事。二人のイキもぴったりで、まずは結構な松羽目物であったと云えるであろう。

 

中幕は『時今也桔梗旗揚』から、「馬盥」と「連歌」。大南北作の珍しい時代物狂言。しかし今回は「饗応」が出ていないのが残念である。配役は幸四郎の光秀、團十郎の但馬守、松也の春永、米吉の桔梗、染五郎の蘭丸、錦吾の丈巴、吉之丞の弥太郎、廣太郎の多惣、高麗蔵の圓生の局、錦之助の作兵衛、扇雀の皐月。錦吾と吉之丞は不明だが、その他の役者では錦之助と高麗蔵以外は初役の様だ。筆者は白鸚の光秀を観た事はないのであるが、亡き播磨屋とは少し異なる部分もあったので、幸四郎は父白鸚の教えを受けたものであろうかと推測するが、果たしてどうであったろうか。

 

先にも記したが、今回は「饗応」がない。なので光秀は花道から登場した時点で眉間を割られている。花道で手をついた時に春永から近こうと云われ、僅かに顔を上げて思い入れてから、舞台へ歩み寄る。筆者は幸いこの時の幸四郎の表情が確認出来る席から観劇していたのだが、この僅かな思い入れの表情が、既に春永への反逆を心に秘めている様に思えるのだ。播磨屋の場合は、花道での思い入れはもう少し大きく、上体を起こしての思い入れにしており、その時の表情からもまだ固い反逆の心が肚にある様には思えなかった。播磨屋はこの後に妻の切り髪を見せられるなど散々な仕打ちに会い、謀反の肚を固めて行く芝居であった様に思う。そこが今回の幸四郎は元が違っている。これは「饗応」がない為にその様にした可能性もなくはないのだか、筆者的には幸四郎がこの狂言をその様な肚で演じる選択をしたのではないかと考える。

 

舞台に廻って春永から散々な恥辱を味わわされる成り行きは、当然播磨屋と同じであるが、幸四郎光秀は既にこの様な目に合うのは覚悟の上の伺候であり、元からあった謀反への肚を一層強く固めさせるエピソードとしての芝居であると、筆者には感じられた。初役乍ら幸四郎光秀の造形は一つの見識であり、ただ先人の型をなぞるたけに終わらせていないのは、流石は幸四郎であると思わされた。であるから、「連歌」で春永の使者として弥太郎と多惣が来着して、領地召し上げの上意を聞かされて二人を切り捨てる芝居に唐突感が全くない。花道の出からここまでの流れに、一本芯の通っている見事な芝居と云うべきであろう。

 

そして團十郎但馬が登場し、光秀の覚悟の後押しをする。この團十郎が如何にも荒事役者らしい描線の太さで、出は僅かだが鮮烈な印象を残す。やはりこの優は、生まれながらの千両役者だ。その他脇では米吉の桔梗が、マイナートーンの芝居に兄を思いやる気持ちがしっかりと表出されており、ニンにも適って結構な桔梗。扇雀皐月も、光秀夫人としての格と気品を併せ持つ立派な芝居。ただ松也春永は、憎体な芝居で光秀を虐めぬくところが、ただのぼんぼんの我儘風に見えてしまうのは、まだ貫禄不足の故であろう。これは團十郎で観て見たかったと云うのは贅沢であろうか。しかし幸四郎の光秀が素晴らしい出来で、天晴れ見事な「馬盥」と「連歌」であったと思う。

 

打ち出しは「御浜御殿綱豊卿」。真山青果の代表作である『元禄忠臣蔵』の一場面であり、「大石最後の一日」と並んで、傑作とされている狂言である。こちらはAプロ・BプロのWキャストでの上演で、配役はAプロが松嶋屋の綱豊卿、幸四郎の助右衛門、Bプロが松也の綱豊卿、隼人の助右衛門。その他の配役はAB共通で、莟玉のお喜世、松之助の甚内、由次郎の九太夫、萬次郎の浦尾、孝太郎の江島、歌六の勘解由、それに獅童の愛息陽喜が父が同座していない中で、健気に巡礼を勤めていた。中ではBプロの隼人が初役との事である。

 

松嶋屋の綱豊卿、云わずと知れた名人芸である。数多い松嶋屋の当り狂言の中でも最上位に位置するものであろう。その気品、位取り、聞き惚れるばかりの名調子、どこを取っても一分の隙もないものであり、今更筆者ごときが云々するべきものではない。近年相手役の助右衛門には殆ど幸四郎を起用しており、この二人芝居は正に息を飲む素晴らしさだ。特に今回幸四郎の芝居が、今までの中でも一番優れている。幸四郎も齢五十を過ぎ、従来の若さ故の跳ね返りと云う人間像から一歩踏み込んでいる。酒色に自らを韜晦させている綱豊卿に対し、将軍職を狙う野心がある故の放蕩であろうと鋭く詰め寄る芝居が、その裏に同じく色街で放蕩を続けている大石が念頭にある事迄感じさせるのだ。

 

「上つがたのお考えは、私には分かりません」と叫び、及ばず乍ら綱豊卿に盾突くと云うより、挑みかかって行くと云う気迫を感じさせるところが実に上手い。この気迫があればこそ綱豊卿は、助右衛門に対して立場も忘れて激高するのだ。ここの二人芝居は迫真の迫力で、今まで数多く観たこの狂言の中でも最高と云えるものであった。ただ最後の能の「望月」の扮装をした松嶋屋が幸四郎助右衛門を取り押さえての長科白が、年齢のせいか、それとも体調のせいか、数年前の上演時よりブレスが浅くなり、以前の名調子に比べて若干の陰りを感じさせるものとなっていた。Wキャストとは云えこの膨大な科白量がある綱豊卿を齢傘寿を越えた身体でひと月演じるのは、大変な負担であると思う。無理だけはして欲しくないと願うばかりである。

 

対してBプロの松也・隼人のコンビは、当然の事乍らかなり遜色がある。松也は初演時に松嶋屋の教えを仰いでおり、その口跡には松嶋屋のトーンが残っている。顔良し・声良し・姿良しの松也なので、その押し出しは実に立派なものだ。しかしやはり全体として、松嶋屋をスケールダウンさせたものであると感じさせてしまう。対する隼人の助右衛門も、行儀が良すぎて幸四郎の様な突っ込みの気迫を感じさせず、踏み込みが足りない印象である。ではこの二人の芝居がつまらなかったのかと云うと、そうとばかりは云えないのが面白いところ。実際の綱豊卿と助右衛門の年齢を考えると、今の松也と隼人の年齢にほぼ合致するのだ。そう思うとAプロの松嶋屋・幸四郎の二人は、余りに人物像が大き過ぎるとも云えるのだ。

 

勿論芝居としてはAプロの二人の方が断然優れている。上演回数も比較にならないのだから、それは当然である。人物像が大き過ぎると云ってもそれは芝居の上の嘘なので、演じる二人の名演技を何ら毀損するものではない。しかしBプロの若手花形二人の芝居は、実際の年齢に沿ったリアリティを感じさせるものであり、二人の芸格の釣り合いも取れていて、芝居としての真実味がそこにある様に感じさせるものはあった。この狂言は勿論フィクションなので、実際陪臣に過ぎない助右衛門が、将軍家連枝の綱豊卿に夢の中でも会うえるはずもなかろう。しかしもし会っていたら、このBプロの様であったのかもしれないと、ふと考えさせるだけのものはあった様に思う。これから松也・隼人で上演を重ね、それに自己の工夫も加えて行けば、いずれこの二人ならではの「御浜御殿綱豊卿」を見せてくれる様になると、筆者は期待している。

 

脇では、やはり歌六の勘解由が何度も演じて自家薬籠中の物。将軍家の甥である綱豊卿から家臣乍らも先生と尊崇されるだけの大きさを感じさせ、正に当代の勘解由。孝太郎の江島も、甲府十五万石の奥祐筆らしい格と気品のある立派な江島。莟玉のお喜世も、綱豊卿に無礼な態度を変えない助右衛門に対し「お手討ちを待つまでもございません」と斬りかかろうとするところの気持ちの籠った芝居に好感が持てる。序盤に出て来る浦尾の萬次郎の芝居もこの優らしい上手さで、まず完璧な布陣であったと云えよう。加えて由次郎の元気な姿を久々に見れたことが、筆者的には大変嬉しかった。松嶋屋より年下の由次郎、まだまだ老け込む歳ではない。これからも元気に脇でキラリと光る芝居を見せて貰いたいと願っている。

 

来月は八月恒例の納涼歌舞伎。夏の暑さなど吹き飛ばす、若手花形手一杯の芝居を見せて貰えると、今から楽しみである。

公文協 松竹大歌舞伎 サンシティ越谷市民ホール 愛之助の『雨の五郎』、菊五郎の『藤娘』、菊五郎・愛之助の「魚屋宗五郎」

公文協の音羽屋襲名巡業を観劇しに、越谷までプチ遠征。先に写真で紹介した通り、大入り満員の大盛況。流石は音羽屋の襲名公演である。映画「国宝」で話題となった『藤娘』をさり気なく入れて来るところも抜け目がない(笑)。愛之助も加わった座組で、しかも八代目の出し物が二演目あると云うのも、本公演と比べリーズナブルな料金と相まってお得感たっぷり。これは見ないと損と云うものであろう。

 

幕開きは『雨の五郎』。天保時代の古い作で、所謂「曽我物」の舞踊である。配役は愛之助の五郎、やゑ亮と愛治郎の若い者。まぁとは云っても、殆ど愛之助の独り舞台である。巡業なので、せり上がる舞台がなく、定式幕が開くと、舞台中央に朱の幕が張ってあり、それが落ちると愛之助の五郎が現れると云う趣向。この辺りも巡業ならではある。この舞踊に於けるの五郎は、恋人に逢いに向かう途中と云う設定なので、「対面」の五郎の様な荒事一辺倒ではなく、色気も求められる。その点愛之助にびたりと嵌まる役柄。傘を持ってのくどきが実に艶っぽい。そして立ち回りで見せるきっぱりとした所作も見事なもの。舞踊楳茂都流家元の実力を改めて見せつけた舞踊であった。

 

休憩を挟まず、続けて『藤娘』がかかる。云う迄もない女形舞踊の超人気作である。元々「潮来」であったものを、六代目が「藤音頭」に手直ししたもので、当然菊五郎は「藤音頭」で踊っている。今年の正月に莟玉で「潮来」を観ているので、半年程の間に今度は「藤音頭」で観れるのは嬉しい限り。父の七代目の藤娘は若い頃はともかく、近年ではあまりイメージにはないが、八代目は何度も踊って当り役としている。そして今回もまた見事であった。普段はあまり思わないのだが、女形の化粧をすると八代目は祖父の七代目梅幸に面差しが似ている。

 

そしてその舞踊も祖父を想起させるこってりとした味わいがあり、年齢的な事もあるが生娘と云うより、より成熟した女性を思わせる。酒に酔って行き、〽可愛がろとて酒買うて飲ませたら、の長唄に乗った所作の艶っぽさはどうだ。この味わいは若手花形には到底出せないものであろう。有馬節に合わせて男女の仲を物語るところなども夢の様な美しさで、浮世のうさなどすっかり忘れて見入ってしまう素晴らしさ。近年亡き播磨屋の遺志を継いで立役に情熱を傾注している八代目だが、幾つになってもこの素晴らしい女形ぶりを忘れずに、見せ続けて欲しいものだと願っている。

 

休憩を挟んで、『口上』となる。舞台中央に八代目、そして上手と下手に雀右衛門・愛之助・彦三郎・橘太郎が居並び、後ろに劇団の役者が頭を下げている。博多座の時と同様、ご披露役は雀右衛門。八代目の左隣に橘太郎がいるのが嬉しい。橘太郎は根つきの役者ではないので、この席に並ぶのは晴れがましい気持ちではなかったろうか。梅幸や七代目の事を「旦那」と呼ぶのも、代々の役者でない優の作法。その口上もウィットに溢れており、「どうして八代目は女形も立役もあんなに素晴らしく出来るのか。その秘訣が知りたいと思い、楽屋のオカモチを開けたら龍角散が入っていました。」「私、先日出演していた博多座公演の最中、息子の菊之助さんに身長を抜かれました。」などとやって、見物衆を大いに沸かしていた。

 

打ち出しは『新皿屋舗月雨暈』から二幕目に当たる「魚屋宗五郎」。黙阿弥作の傑作狂言で、五代目菊五郎の依頼で書かれた芝居なので、音羽屋代々の家の芸とも呼ぶべき狂言である。今回の配役は菊五郎の宗五郎、愛之助の主計之助、橘太郎の太兵衛、菊太郎の三吉、彦三郎の十左衛門、雀右衛門のおはま。中では愛之助と菊太郎が初役で、菊太郎は名題昇進による抜擢人事。八代目を相手に三吉を勤めると云うのは重圧もあるかとは思うが、さぞ嬉しかろうと推察する。今後もしっかり劇団を支えて行って貰いたいものである。

 

八代目の世話物と云うのは、独特の色気がある「髪結新三」以外、筆者には今までもう一つピンとこなかった。容姿も所作も美しい八代目には、七代目が醸し出している様なあの空気感が手についていないと云うか、そぐわない感じがしていたものであった。しかし今回、この宗五郎を観て印象が変わった。世話物に於ける八代目の芸が、一段上がった様に感じられたのだ。御屋敷にご奉公に上がっていた妹が死んで沈んだ調子の花道の出から、舞台に廻って怒り心頭の周囲を諫める芝居が、役が肚に落ちていてぐっと我慢が効いている。科白廻しも三吉を叱るあたりの調子が親分調ではなく、市井の魚屋らしさがある。この調子が菊之助時代とは明らかに違っていて、襲名公演を通じてこの優の芸が深まりを見せている事を感じさせてくれる。

 

そして妹が無実の罪で手討ちにあったと知り、断っていた酒を飲んで酔って行くお約束の場も、周囲とのイキも合っており、この優としては珍しい位の愛嬌味もあって、見応え充分。この味わいを出せるなら他の世話物、例えば「芝浜」や「お祭り佐七」なども観て見たくなる。先の我慢の芝居から一転するこの調子が、上手い。そして酔った勢いで花道を駆けだし、酒樽を持って極まった形は、舞踊の名手らしいこの優の良さが生きている。酔った挙句にお屋敷で家老の十左衛門相手にくだを巻く長科白も、この優らしい調子の良さがあり、酔っている事を忘れてはいないが、実に結構なトーンの黙阿弥調を聴かせてくれている。家族が笑い合って暮らした往時を涙乍らに語る科白廻しには、こちらも思わずホロリとさせられた。

 

縛り上げられて酔いが醒めたところに愛之助の主計之助が登場。殿様の前で只管恐縮する姿に、小市民の哀れさが漂っており、この辺りも以前より確実に上手さを増している。見舞金を下賜されてそれを受け取るくだりは、父七代目とは違う往き方にしており、ここは八代目なりの考えがあっての事であろう。脇ではやはり雀右衛門のおはまが、実に結構な世話女房の味わいを出していて抜群の出来。橘太郎の太兵衛も、「俺がもう二十も若けれりゃ」と云いつつ、愛娘に先立たれて何をする気力も失っている老父役を好演。愛之助・彦三郎もそれぞれしっかりとした位取りを見せてくれており、音羽屋家の芸「魚屋宗五郎」が、しっかり八代目に継承された事を実感させてくれる、素晴らしい出来の狂言であった。

 

もしかしたら、来年四月の金丸座公演が音羽屋襲名公演になるのではないかと、筆者は別に根拠もなく考えている。もしそうなったら何としても駆け付けたいと、公演内容の発表を今から心待ちにしている。まぁそう期待通りには行かないかもしれないのだが。

公文協 松竹大歌舞伎 サンシティ越谷市民ホール(写真)

音羽屋の襲名巡業公演を観に、越谷に行って来ました。ポスターです。

 

「完売御礼」の立看板が。

 

定式幕が下りた舞台写真です。

 

花道です。巡業公演の花道としては、比較的長い方だったと思います。

 

音羽屋襲名の巡業公演。暑いさ中ですが、見物衆で溢れていました。舞踊に世話物に、八代目が大奮闘。素晴らしい公演でしたね。会場も比較的駅に近い場所で、アクセスも良かったです。感想はまた別項にて。

歌舞伎座七月大歌舞伎 夜の部Aプロ 福之助の『鎌髭』、團十郎・幸四郎の「め組の喧嘩」、成田屋親子の『春興鏡獅子』

七月大歌舞伎を観劇。大入りと迄は行かないものの、満席に近い入り。この七月は去年から幸四郎と團十郎の責任興行となっており、今年はそれに松嶋屋や高砂屋も加わった大一座である。夜の部は團十郎を中心とした座組で、三狂言の内一つは歌舞伎十八番、もう一つは新歌舞伎十八番である。改めて、團十郎の家の芸に対する深い思い入れを感じさせる狂言立てとなっている。

 

幕開き狂言は歌舞伎十八番の内『鎌髭』。歌舞伎十八番ではあるのだが、ずっと上演が途絶えていたものを海老蔵時代の團十郎が復活させた狂言である。それを今回初めて自分以外の役者に演じさせた。このAプロの配役は福之助の快鉄実は景清、虎之介の入道、男寅の太郎作実は源太、市川右近の次郎作実は次郎、九團次の有右衛門、廣松のお蓮、右團次の四郎兵衛実は四郎。全員が初役である。福之助は当然乍ら團十郎直伝で、正月の鳴神に続いての抜擢である。

 

この『鎌髭』は平家の勇将悪七兵衛景清の伝説に基づいた狂言である。「悪」と云うのは文字通りの悪人と云う意味ではなく、武士にとっては強いと云うその武勇を称賛する意味合いがあり、源義朝の長男義平が悪源太と称されたのと同じである。そこで福之助初役の景清であるが、荒事に必要なおおらかさがあり、科白回しもたっぷりとしていて、悪くない出来。まだ大きさや力感に欠ける部分はあるものの、抜擢した團十郎の期待には充分応えていた様に思う。

 

その他脇では、虎之介の入道が結構な出来。よく通る実に良い声で、この優はこんな素晴らしい声の持ち主だったのかと、改めて見直す思いであった。これから大役にどんどん挑んで欲しいものだ。男っぽい狂言の中で、お蓮を勤めた廣松も美しさの中に可笑しみも同居しており、この優の心境著しいところを見せてくれている。そしてこの座組では抜けた貫禄を示す右團次が、流石の存在感で舞台を締めており、初役揃いの座組乍ら、立派な出来の『鎌髭』であったと思う。これからも歌舞伎十八番に挑む若手役者が出てきて欲しいと願っている。

 

中幕は『神明恵和合取組』、通称「め組の喧嘩」。江戸時代に実際にあった鳶と力士の喧嘩を素材にして、明治時代に作られた世話狂言である。作者の竹柴其水は、江戸時代の空気感や風情を懐かしんで作ったのではないだろうか。團十郎の辰五郎、扇雀のお仲、芝翫の大八、歌昇の藤松、廣松がおさきと竹の二役、右團次の亀衛門、種之助の文次、市蔵の八右衛門、萬次郎のおくら、秀乃介の又八、男女蔵の九竜山、幸四郎の喜三郎、高砂屋の喜太郎。中では種之助は不明だが、秀乃介は当然として歌昇・市蔵・幸四郎・高砂屋が初役の様である。

 

團十郎の辰五郎はもう何度も演じており、役が手に入ってきている。以前は貫禄はあるものの、見ようによっては幡随院長兵衛の様に見えてしまう部分もあった。そこが今回一層芸が進化しており、江戸の鳶頭らしい気っ風の良さが前面に出ている。比べるのは気の毒だが、まだ音羽屋の様な世話の味には欠ける。しかし科白廻しも所作もきっぱりとしていて、観ていて実に気持ちの良い鳶頭っぷりである。ニンにも適っており、これは團十郎の世話物としては最上の部類に入る出来であったと思う。ただ当代の役者でこの辰五郎を本公演で演じた経験があるのは、音羽屋と團十郎しかいない。ぜひ松緑あたりにも取り組んで貰いたい役どころである。

 

脇ではやはり芝翫の四ツ車が傑出している。描線の太さといい、押し出しの見事さといい、流石の出来である。今回は「喜三郎内」が出ていないので、幸四郎演じる喜三郎の見どころが少ないのが残念ではあるが、最後喧嘩を止めに入るところはいい兄ぃの貫禄で、初役乍ら結構な喜三郎。高砂屋の喜太郎は、芝居小屋の前で出入りは困ると止めに入るところなぞは格が備わっていなければこなせない。そこはやはり天晴れ高砂屋の感がある。扇雀のお仲も、ふて寝する亭主を焚きつけるところの、鳶頭の女房らしい気の強さに加え、夫への情愛の深さも充分感じさせる結構な女房ぶり。各役手揃いで、見応えのある「め組」であったと思う。

 

打ち出しは新歌舞伎十八番から『春鏡鏡獅子』。所謂「石橋物」の一つであり、九代目が制定した新歌舞伎十八番の中でも筆頭に位置づけられる狂言である。初演時には、九代目の実の娘二人が胡蝶を勤めた故事に則り、今回は團十郎の弥生後に獅子の精、新之助とぼたんの胡蝶の精、九團次の十太夫、家橘の五左衛門と云う配役である。筆者は予定が合わず観れなかったのだが、正月に新橋演舞場でやはり成田屋親子が勤めており、それが好評であったので、間を置かずに再演となったらしい。

 

しかしこの「鏡獅子」は難曲である。それは前シテの弥生と、後シテの獅子の性根が全く違っているからだ。平成時代は亡き勘三郎専売特許の感があり、それは結構なものであったが、中々他の役者では前・後シテが揃う実演に出くわさない。あの大和屋ですら、前シテの弥生は完璧だが、後シテの獅子では線の細さを感じさせた。筆者が観た当代の役者では唯一幸四郎だけが、見事に前後を揃えた素晴らしい「鏡獅子」を見せてくれたものであった。筋書で本人がコメントしている通り、女形を苦手とする團十郎は、どうしても弥生が形にならなかった。しかし、今回は今までの上演に比べて長足の進歩を見せてくれている。

 

骨格的にも女形に不向きな團十郎だが、今回は今までに比べて格段に柔らかさが出てきている。加えて過不足ない気品と艶もあり、荒事役者團十郎らしからぬと云う云い方も如何かとは思うが、立派に鑑賞に堪える弥生であったように思う。ただ気になった点がある。舞踊に於ける腰高は、この優の宿痾とも云えるものであり、今回の弥生でもそれは充分に解消されたとは云えない。しかしそれが團十郎の弥生なのだと思えばそれを殊更ここであげつらう気はない。だがその腰高が、倅の新之助に伝播している様に思えるのだ。二人の胡蝶を比べてみれば一目瞭然で、背の高さはあまり変わらない様に見える新之助とぼたんだが、所作の時の腰の位置が全く違う。筆者は三階席から観ていたのだが、遠目からでもどちらが新之助で、どちらがぼたんか、一目で判った程の違いであった。

 

これから数々の舞踊を身に付けていかなければならない新之助。この腰高は今の内から直しておいて欲しいものだと思う。これから増々身長も伸びて行くだろうし、今腰を落とせなければ、将来的により厳しくなって行く様に思う。老婆(爺?)心乍ら、一言申し述べさせていただいた次第である。後シテになってからは、もうこれは團十郎の独壇場。力みかえってはいないのに、しっかりと力感があり、勇壮な事この上ない。しっかりと余裕を持った毛振りはその所作を大きく見せており、これぞ市川宗家成田屋の獅子である。しかし今回筆者的に一番印象に残ったのは、先に記した前シテの弥生の進歩であった。苦手な女形であっても日々の研鑽を怠らない團十郎。その役者魂を見た思いである。遠くない将来に、歌舞伎座で幸四郎・團十郎が競い合う「鏡獅子」を見せて貰いたいと願っている。