fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十一月 吉例顔見世大歌舞伎 夜の部 松嶋屋・松緑の『松浦の太鼓』、染五郎・巳之助・右近・又五郎・孝太郎他の『顔見世季花姿繪』

歌舞伎座夜の部を観劇。先に感想を書いた中幕以外の狂言について綴る。ほぼほぼ昼の部と同じ位の入り。歌舞伎座本来の狂言立てで、これでお客が入るのはまだまだ令和の見物衆も捨てたものではない。新歌舞伎(と云っても明治期の作品なので、殆ど古典と云っていいが)・丸本・舞踊、これぞ歌舞伎の狂言立てである。ただ終演が九時位になるせいか、最後の舞踊では帰ってしまったお客も多い様で、空席が目立った。豪華な舞踊であったのに、勿体ない事だ。最後を踊りでハネるのは、実に結構な構成であると思うのだが。

 

幕開きは『松浦の太鼓』。初代の吉右衛門が得意とし、秀山十種にも選ばれている名狂言。亡き播磨屋の絶品とも云うべき松浦候が、今でも記憶に生々しい。今回は松嶋屋の松浦候、松緑の源吾、猿弥の左司馬、隼人の文太夫、鷹之資の市右衛門、吉之丞の幾之丞、橘太郎の近吾、米吉のお縫、歌六の其角、そして松之助を平内に使うと云う贅沢な配役。松緑が意外にも初役で、松嶋屋からのご指名であったとの事。去年の南座松嶋屋の松浦候を観たが、その時と松浦候以外全ての配役が替わっている。其角は本来歌六であったのだが、筆者が観た日は休演で橘三郎に代わっていた。

 

その南座の時と、当然乍ら大きく印象は変わらない。ただ少し科白のテンポをゆっくり目にしているとは感じた。歌六其角の「たまには悋気も出るでござりましょうな」を受けての「たまには謀反も出るわいな」の辺りは、科白劇らしいやり取りで、名人二人の科白回しがゆったり目のテンポに乗って実に心地よい。お大名らしい気儘なところを見せ乍らも、気品は失わない松嶋屋の松浦候は、云う迄もなく見事なもの。播磨屋程くだけず、高麗屋程重厚ではない、両者の中間を行くスタイルが松嶋屋らしい。

 

対する歌六も、播磨屋高麗屋松嶋屋と三名人の松浦候を相手にしてきた歴戦の其角。当然の事乍ら素晴らしい。松緑初役の源吾もまた良い出来。幕開きの「両国橋の場」に於ける沈毅で抑えた芝居が、仇討と云う大望を持った男である事をさり気なく感じさせてくれる。松嶋屋の示唆かこちらも若干科白をゆっくり目にしており、仇討の成功を告げに松浦邸に駆けつけての「へんしも早くお側に参り、ご奉公が仕りたい」と云う科白が、観ているこちらの心にぐっと響いてくる。米吉のお縫は自家薬籠中の役。美しく可憐だが、どこか儚げで兄を思う真情に溢れた結構なお縫。各役手揃いで、実に見事な出来であった。

 

『鎌倉三代記に』続いて、打ち出しは「春調娘七種」、「三社祭」、「教草吉原雀」の舞踊三題。『顔見世季花姿繪』名題が付いている。種之助・左近・染五郎・巳之助・右近・歌昇の若手花形に又五郎・孝太郎のベテランを加えた配役である。何と全員が本公演では初役と云うから驚きの座組である。唯一又五郎歌昇時代に鳥刺しで「教草吉原雀」に出ているのみだと云う。

 

「春調娘七種」に於ける染五郎の美しさ、形の良さは若手花形の中でも群を抜いている。所作の最中一貫して身体の中心線がブレず、腰を落とした形もきっちり水平が取れているから、見た目が美しい。左近の女形は珍しいが、こちらも充分美しく意外な適性を見せてくれていた。当初はニンではないと思っていた種之助の五郎だったが、力感に過不足もなく、これまた結構な五郎。

 

そして今回の舞踊の中で技術的に最高だったのが、「三社祭」の巳之助と右近。どちらも劇団の若手だが、二人で組むのは珍しい気がする。お互い相手に合わせようとする所を一切見せず、それでいてイキがピッタリ合っている。所作にキレがあり、軽さを見せ乍らも指先迄きっちり神経の行き届いた見事な舞踊。考えてみれば芝居は兎も角、このクラスの役者になると子供の頃から舞踊を叩き込まれているので、若手と云っても踊り手としては二十年選手くらいにはなるのだ。もう技術的には最高レベルの「三社祭」と云ってもいいだろう。今後もこの二人で観てみたい踊りだ。

 

最後は又五郎親子に孝太郎が加わった「教草吉原雀」。筆者は初めて観る舞踊。引き抜きもあって視覚的にも実に面白く見せてくれる踊りだ。昼の部の為に設けられた仮花道を、夜の部ではこの舞踊の歌昇の出でのみに使っていた。又五郎と孝太郎の踊りは、当然の事乍ら結構なもの。加えて歌昇の鳥刺し実は鷹狩の侍が、力感があり乍ら美しさも兼ね備えており、見事な踊りを見せてくれている。舞台で三人揃っての所作事は、引き抜きもあってまことに華やか。いい気持ちで劇場を後に出来る、実に結構な狂言立てであった。

 

中幕の『鎌倉三代記』も含めて、今年観た興行の中でも、素晴らしい構成であった歌舞伎座夜の部。来月は歌舞伎座が三部制なのに加え、新橋と南座も観劇予定。年の瀬に良い芝居が沢山観れると、今から楽しみにしている。

 

十一月 吉例顔見世大歌舞伎 夜の部 芝翫・時蔵・梅枝の『鎌倉三代記』

歌舞伎座十一月夜の部、中幕の『鎌倉三代記』。長くなりそうだったので、この狂言のみ単独で感想を綴りたい。云う迄もなく丸本の名作である。芝翫の高綱、時蔵の義村、梅枝の時姫、高麗蔵のおくる、歌女之丞の阿波の局、梅花の讃岐の局、松江の六郎、東蔵長門と云う配役。中で時蔵・梅枝・高麗蔵・東蔵が初役。他の人は兎も角、東蔵長門を演じた事がなかったとは意外。齢傘寿を過ぎて初役に挑む東蔵は素晴らしい。しかしこれ程のベテランでも演じた事のない役があるものなのですな。

 

今の歌舞伎界の課題は、興行面では若い客層の開拓、そして伝統芸の継承と云う面では義太夫狂言が演じられる役者を増やす事であると思う。幸四郎は数年前から丸本に挑んでおり、一定の成果をあげている。團十郎は今のところ家の芸と新作が興味の焦点の様だ。そんな中、歌舞伎座ではないが先々月・先月の「妹背山」に続き、梅枝が三ケ月連続で丸本に取り組んでいる。芝翫も先月の鱶七に引き続き今月は高綱、そして来月は南座で「一力」の平右衛門を勤める。松緑も先々月に初役で大判事に挑んでおり、やはり松竹も丸本役者の手薄さを感じているのだろう。この辺りの役者が立派に丸本をこなして行って貰わないと、歌舞伎界の明日はないと思う。

 

初役の役者が多い狂言となったが、その中で三度目と云う芝翫はやはり素晴らしい。初演時に高麗屋の指導を仰いだと云う事だが、特に藤三郎の時の科白回しに、高麗屋を思わせる口跡がある。幸四郎は倅だから当然としても、今の中堅花形役者の芝翫松緑獅童團十郎勘九郎などがこぞって高麗屋に役を教わっているのは、本当に良い事だと思う。あまり想像したくない未来だが、例え高麗屋が亡くなったとしても、あれ程の芸を絶やしてはいけない。令和の時代にも、しっかり受け継いで行って欲しいものだ。

 

その芝翫、藤三郎の軽い味から一転して高綱となって井戸から出て来た所の古怪な大きさ、竹本とシンクロする義太夫味たっぷりの科白回し、何れも見事なもの。井戸から出てきて髪を拭う所作なども如何にも丸本の古格さが出ており、太々しい描線と相まって素晴らしい高綱。どんな計略を使ってでも鎌倉方を討たずにおかないと云う執念が、その身体から滲み出る。手傷で弱っている三浦之助を打擲して叱責する場も実に手強い出来。〽地獄の上の一足飛びからぶっ返った時の、柄の大きさを生かした所作はこれぞ丸本。今や義太夫狂言には欠かせない役者になったと云っていいだろう。来月の平右衛門も今から楽しみでならない。

 

そして初役で勤める時蔵・梅枝の親子共演。意外にも時蔵は本興行で時姫を勤めた事がないのだぞうだ。倅が演じると云う事は、今後も機会がなさそうに思える。残念な事だ。しかし時蔵に三浦之助とは意表をつく配役だった。高砂屋に教わったらしいが、流石に芸達者なベテランだけあって、きっちり演じている。科白回しに女形の口跡が残っている部分もあるが、何とか京方の退勢を立て直そうとする若々しい気概に溢れた結構な義村。母長門から面会を拒絶された所の無念な表情も良し。義村のモデルは木村長門守なのだが、時蔵はしっかりとした位取りで、気品も出している。初役乍らまずは見事な三浦之助義村であった。

 

丸本の中の三姫の一つ時姫に、こちらも初役で挑んだ梅枝。集中的に義太夫狂言に投入されているところを見ると、松竹もこの優の適正は丸本にありと見ているのだろう。事実その通りで、初役とは思えない実に傑作とも云うべき時姫であった。いつも書いている事だが、曾祖父三代目時蔵を思わせる面長で古風な顔立ちが、丸本のお姫様にぴたりと嵌まる。そして若い乍らイトに乗れる所作はこの優が天性の丸本女形であると思わせるに充分。〽短い夏の一夜さに、の竹本を受けて戸口から表を覗き、「忠義の欠くる事もあるまい」のこってりした科白廻しもまた素晴らしい。この味をこの年齢で出せる梅枝の丸本役者としての資質は、疑いようのないものだ。

 

藤三郎の口説きを退けて刀を抜き、井戸をのぞき込む時の形の良さ。義村に父時政を討てと云われての「北条時政、討ってみしょ~う」と云う場の涙ながらに覚悟を示す所作。何れもとても初役とは思えない見事さだ。今度はこの優で、八重垣姫をぜひ観てみたい。お願いしますよ、松竹さん。その他脇では、東蔵長門義太夫味は薄いものの、会いたい倅に何故戻ったと涙交じりに叱責する武家の妻を、流石の芝居の上手さで見せる。高麗蔵のおくるも敵と思わせて味方である肚がきっちりあり、最後は自害する人物を地味乍らもしっかりと演じてこれまた良し。松江の六郎もべりべりと手強い出来。加えて成駒屋の番頭格、歌女之丞と梅花を局に配して、令和丸本の一つの手本を示したと云っていい名舞台となった。

 

新年早々、浅草で米吉・歌昇橋之助が「十種香」に挑むと云う。実に結構な事だ。若手花形にはこれからはどしどし義太夫狂言に挑戦して貰いたい。一朝一夕に出来るものではないとは思うが、期待して観て行きたいと思う。

十一月 吉例顔見世大歌舞伎 昼の部 菊之助・隼人の『マハーバーラタ戦記』

歌舞伎座昼の部を観劇。筆者が観た日はほぼ満席の入り。丸本の様な古典より、新作の方がウケが良いのだろうか。しかし入りが良いのは、さぞ役者も遣り甲斐のある事だろう。しかしこの『マハーバーラタ戦記』の再演は驚いた。初演も観ているが、その際は確かインドとの国交何周年かの記念上演と謳われていたと思う。余程評判が良かったのだろうか、めでたく再演となった。

 

通し狂言なので、昼はこの一狂言のみ。正味三時間半にも及ぶ大作である。配役は菊之助が迦楼奈(かるな)とシヴァ神の二役、隼人が阿龍樹雷王子(あるじゅらおうじ)と梵天の二役、彌十郎の太陽神、錦之助の仙人久理修那(せんにんくりしゅな)、彦三郎の帝釈天、米吉の汲手姫(くんてぃひめ)、坂東亀蔵の百合守良王子(ゆりしゅらおうじ)、猿弥の道不奢早無王子(どうふしゃさなおうじ)、そして今回の眼目、大抜擢芝のぶが鶴妖朶王女(づるようだおうじょ)とラクシュミーの二役、團蔵休演で荒五郎の多聞天、楽善の大黒天、病癒えた菊五郎那羅延天、そして菊之助の愛息丑之助が我斗風鬼写(がとうきちゃ)とガネーシャの二役。音羽屋三代の共演が実現した。初演で七之助が演じた重要人物の一人鶴妖朶王女に芝のぶを当てたのが、素晴らしい。

 

大作であるが筋をざっくり云うと、争いが絶えない人間界を見て嘆いている那羅延天。側近の太陽神は慈愛で人間界を救う迦楼奈を徳高い汲手姫に産ませて人間界に送り込めば良いと云う。しかし軍神の帝釈天は、愛では争いは止まない。争いを終わらせるのは力だと云い、同じく汲手姫にもう一人無敵の英雄阿龍樹雷を産ませてこの力で争いを終わらせると主張する。両者の意見を入れて二人が人間界に送り込まれる。愛と力、どちらが世を救うのか。異父兄弟の相克の物語と云うのが大筋である。

 

ナウシカ」もそうであったが、どうも菊之助はこの手のストーリーがお好みの様だ。反戦思想に異論はないが、どうもどちらも多少お花畑的で、筆者はあまり好みではない。争いの無常観を感じさせる丸本の「熊谷」や「盛綱」に比べると(比較しては気の毒乍ら)、底の浅さを感じてしまう。よって筆者にとっての興味はこの芝居の中で見せる役者芸と云う事になる。その意味で云えば、主演の菊之助は意外にも芝居としての為所がない役である。目の覚める様な美しさと、凛々しい所作、いずれも流石菊之助と云ったところだが、役としての肚はあまり感じられない。その点では隼人の阿龍樹雷も同様。筆者にとってはこの主役の二人にはあまり魅力が感じられない。

 

その点でこの狂言最高の芝居を見せてくれたのが、鶴妖朶の芝のぶであった。先に記した様に初演では七之助が演じた程の重要人物。しかも肚に一物ありげで、善悪定かならぬ複雑なところのある役だ。普段から脇の女形の中でもひと際目を引く芝のぶ。今回今までの培った芸を思う存分見せてくれている。もう一役のラクシュミーは特にどうと云う事はないが、この鶴妖朶は素晴らしい。かなり芯のある女形声を駆使して、自ら戦陣に立つ様な力強い王女鶴妖朶を構築している。最後は夜襲を進言する道不奢早無王子の言葉を退け、遅参した迦楼奈の到着を待って不利と知りつつ戦いに挑み、討死する悲劇的な人物を時に力強く骨太に、時に儚げに演じて圧巻の出来であった。多分芝のぶ史上、これ程歌舞伎座で科白をしゃべった事はなかったであろう。初演の七之助をも凌駕する見事な鶴妖朶であった。

 

その他の脇では、初演時に時蔵と梅枝が演じた汲手姫を今回米吉が一人で演じている。若い時の梅枝が演じた汲手姫は問題ないが、時蔵が演じた後年の汲手姫(何せ菊之助と隼人の母なのだ)は流石に今の米吉には手に余った。菊五郎那羅延天は最初と最後に少し顔を出すだけだが、その存在感は流石の一言。そして音羽屋の御曹司丑之助が、秀山祭での『連獅子』に続いて、見事な芝居を見せてくれていた。この子の芝居は既に子供芸ではない。舞台では大きく見えるし、声も良く通り何より芝居に肚を感じさせる。成人した後の役者ぶりを何とか生きて観てみたい。丑之助を見ていると、つくづく長生きしたいものだと思わされます(笑)。

 

竹本も入って非常な力作であったが、筆者にとっては一に芝のぶ、次いで丑之助と云う芝居であった。夜の部は一転、新歌舞伎に丸本、そして舞踊と云う歌舞伎らしい狂言立て。感想は観劇後、また別項にて。

十一月 吉例顔見世大歌舞伎(写真)

顔見世に行って来ました。役者の写真が載っていないポスターは珍しい。

 

昼の部絵看板です。

 

同じく夜の部。

 

松嶋屋菊之助のポスター。いいですねぇ、二人とも。

 

我が国はGDPでドイツに抜かれ、早晩インドにも抜かれて世界第五位に転落しそうですが、歌舞伎座は賑わっていました。日本のGDPに貢献する意味でも、もっと芝居を観なければ(笑)。

シネマ歌舞伎 大和屋と高橋惠子の『日本橋』(写真)

久々にシネマ歌舞伎を観に東劇に行って来ました。

 

ポスターです。

 

大和屋の写真展示がありました。

 

シネマ歌舞伎を観たのは何年ぶりだろう。泉鏡花の『日本橋』。新派の舞台です。2011年に上演された芝居の様ですね。原作を端折って、二時間半にまとめていました。なので、前段のお孝の清葉への嫉妬が描かれておらず、清葉の情夫と見れば寝取りたがるお孝の行動が唐突に感じられる部分はありましたが。個人的に筆者は高橋惠子こそ日本芸能史上最高の美女だと思っておりますが、この時五十六歳。クロースアップは多少厳しいものがありました。しかししっとりした清葉は良かったです。大和屋の気風のいい芸者お孝は勿論最高でした。

 

国立劇場 さよなら公演 芝翫・菊之助の『妹背山婦女庭訓』<第二部>

国立劇場さよなら公演の後半。いよいよフィナーレである。入りは七分と云ったところか。さよなら公演なのでもう少し入って欲しいところだったが、やはり丸本の大作と云うのは、受けが悪いのだろうか。筆者は大好きなのだが。国立劇場は通し狂言を原則としているので、みどりでは出ない場があるのが本当に嬉しい。今月は「布留の社頭の場」から「入鹿誅伐の場」迄。先日天皇皇后両陛下もご観劇になられたとの事。出演役者達の緊張はさぞかしと推察する。殆どの役者が初役の様であったが、各優全力投球の熱演であった。

 

配役は歌六の入鹿、芝翫の鱶七実は五郎今国、彦三郎の玄蕃、梅枝の求女実は淡海、萬太郎の藤次、米吉の橘姫、権十郎の大判事、菊之助がお三輪と采女の局ニ役、菊五郎無念の休演により時蔵がおむらと鎌足の二役。菊五郎が初日から休演しているのが気がかりだ。聞けば狭窄症だと云う。筆者の父も晩年狭窄症で歩けなくなり、急に弱っていった。人間、歩行が困難になると急激に衰える。勿論人それぞれであるし、症状の軽重にもよる。しかし役者は動きの多い仕事。とにかく無理をせずゆっくり養生して、舞台に還って来て貰いたい。くれぐれも播磨屋の様な無理はしないで下さいよ、音羽屋。

 

まず序幕「布留の社頭の場」、通称「道行恋の苧環」。菊之助のお三輪は二度目、他の二人は初役の様だ。求女をめぐってお三輪と橘姫の恋の鞘当ての場である。若手花形二人に今をときめく菊之助の三人芝居。若い梅枝と米吉なので、丸本のたっぷり感はまだない。しかしその分すっきりとした美しさがあり、殊に本来女形である梅枝の珍しい立役求女がキリッとしている中にも女形役者らしい柔らかさもあり、瑞々しく結構な出来。米吉は先月の雪姫に引き続いての丸本のお姫様。勿論まだコクがあると云う所迄は行かないが、所作もイトに乗っており、何より本当に美しい。若い二人が義太夫狂言に懸命に挑む姿はいいものだ。味は経験を重ねて行けば出て来るだろう。

 

流石に菊之助は若手二人に比べてこってりとした丸本女形本来の味があり、見事なもの。イトに乗りながら嫉妬の火花を散らす。それがエモーショナルではあるが、古格な義太夫狂言の枠からはみ出さず、立役もこなすこの優らしい芯も感じさせる素晴らしいお三輪。この三人が揃った舞台姿の美しさは、錦絵から抜け出た様。この若々しい美しさはベテランには出せないもの。正に時分の花真っ盛りの舞台絵であった。

 

続いて「三笠山御殿の場」。この場は何と云っても芝翫の鱶七が素晴らしい出来。太々しい描線、巧まずして滲み出る愛嬌、甲の声と呂の声を見事に使い分ける科白廻し、これぞ義太夫狂言の立役である。鎌足が自ら足を運ばず、使いを寄越した事を入鹿に叱責されたのを受けて「エエ、それを俺が知った事かいの」と撥ねつけて「仲直りの印じゃてて、きす一升おこされた」と刀の提げ緒にぶら下げた徳利を差し出すところの大らかな大きさ。この優の丸本の見事さは(高齢の大名題はおくとして)当代無双と云っていい。

 

その後「いじめ官女」となる。ここは今まで誰がやってもただのチャリ場に見えてあまり筆者の好きな場ではなかったのだが、今回の菊之助は一味違う。この優の持ち味でもある「憂い」がいじめられるお三輪に漂って、哀しみがリアルに感じられるのだ。ここがチャリ場だなぞとはとんでもない。求女に逢いたい、しかし中々逢えないと云うお三輪の心情が舞台を覆いつくす素晴らしい場となっていた。この「憂い」はこの後の場でも見事な効果を発揮する事になる。

 

官女が去って、お三輪が屋体に上がり奥へ行きかけると、鱶七が立ちはだかる。すり抜けて駆け抜けようとするお三輪を刺し、自分は金輪五郎であると明かして「女喜べそれでこそ、天晴れ高家の北の方」と云う芝翫鱶七の科白廻しがたっぷりとした丸本調で、聞き惚れてしまう程の見事さ。爪黒の雌鹿の血と凝着の相の女の血が注がれた笛の音を聞かせると入鹿は正体を失う。その時こそ入鹿誅殺の好機とお三輪に告げる鱶七(五郎)。ここの二人芝居も素晴らしい。自らが犠牲になる事で愛する求女の宿願が達せられると知ったお三輪の「あなたのお為になる事なら、死んでも嬉しい、かたじけない」と歓びつつも、「今一度、どうぞお顔が拝みたい」と無念の想いも吐露する。最後に絞り出す様に「もう目が見えぬ」と倒れ伏して行く菊之助お三輪が哀感たっぷりで、真に迫って見事な出来。ここでも菊之助の持つ「憂い」が最大限の効果をあげている。ワーグナーの「さまよえるオランダ人」を思い出させる様な、哀しくも素晴らしい場だ。

 

最後は入鹿が討たれ、帝の治世は安寧を取り戻し、役者が揃って国立劇場との別れを告げる切口上で大団円となった。脇では歌六の入鹿が流石に大きく手強い出来で、人間国宝の地力を感じさせる見事さ。時蔵のおむらはあまりこの優のニンでなく、音羽屋休演で鎌足も兼ねたとは云え、今月は顔を出したと云ったところか。彦三郎の玄蕃は、この優の持ち味である良く通る声を生かしたいい赤面。権十郎の大判事はニンではなく、やや描線が細い印象ではあった。

 

これで初代国立劇場とは永遠のお別れ。筆者的に一番思い出に残っているのは、開場五十周年記念興行での「忠臣蔵」の通し。あれは本当に凄い公演だった。再開場は六年後だと云う。長いなぁ。この間、お客離れを食い止める意味でも、歌舞伎座新橋演舞場が持つ責務は重大であると思う。これ迄以上に素晴らしい公演を期待したい。

国立劇場 さよなら公演 『妹背山婦女庭訓』<第二部> (写真)

国立劇場のさよなら公演に行って来ました。ポスターです。

 

「入鹿誅殺の場」の絵看板です。

 

ゆるキャラマスコットが全員集合で国立劇場との別れを惜しんでいしまた。

 

今月もロヒーで昔のポスター展示がありました。

 

本当にこれでさよならの初代国立劇場。舞台の感想はまた改めて綴る事にします。