fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

秀山祭九月大歌舞伎 昼の部 菊之助の『摂州合邦辻』、幸四郎の『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』

今年も無事秀山祭開催の運びとなった。何より目出度い。播磨屋の早逝(現代に於いて傘寿を前に亡くなるのは、こう云っても差し支えないであろう)は惜しみても余りあるものであったが、幸いな事に幸四郎松緑菊之助と云う立派な後継者がいる。播磨屋の親類に人気・実力とも兼ね備えた花形役者が揃っている限り秀山祭は継続されて行くであろうし、また継続して行かなければならないと思う。

 

まず昼の部を観劇。入りは大入りとまでは行かなかったが、九分通りな感じであったろうか。幕開きは『摂州合邦辻』より「合邦庵室の場」。丸本の名作である。ここ十五年程、玉手御前は菊之助しか演じておらず、現代では専売特許の感がある。それでも歌舞伎座でかかるのは九年ぶりの様だ。その菊之助の玉手御前、愛之助の俊徳丸、萬太郎の入平、米吉の浅香姫、吉弥のおとく、歌六の合邦と云う配役。愛之助・米吉・萬太郎は初役らしい。

 

「合邦辻」、筆者は大好きな芝居なのだが、色々批判もある狂言である。文豪の谷崎潤一郎は随筆「所謂痴呆の芸術について」の中で、義太夫狂言の馬鹿馬鹿しさを痛烈に批判している。例としてこの「合邦辻」を挙げ、「所謂痴呆の芸術のうちでも此れなぞは最も典型的なもの」と中々に手厳しい。「謡曲の持つ高雅、幽玄、優美の味は、浄瑠璃のほうにはどこを探しても見られない。」とその理由を述べている。これは文楽批判なので、歌舞伎を直接批判したものではないが、元が同じなので歌舞伎批判と取っても良いであろう。

 

谷崎は戦前、文楽に刺激を受けて『蓼食ふ虫』を書き上げている。筆者は個人的にこの『蓼食ふ虫』が谷崎の最高傑作だと思っている。しかし戦後になって上記「所謂痴呆の芸術について」で一転批判に転じてしまった。この間に谷崎に何があったのかは判らない。戦争で日本古来の物が破壊され、絶望感が嫌悪感に変わったのかもしれない。しかしこの高雅でないところが、庶民芸能としての文楽や歌舞伎の魅力なのではないかと、筆者などは思ってしまう。谷崎は恐らく、近代日本最高の作家であろうと思うが、この点は些か納得しかねると云うのが筆者の考えである。

 

そしてこの狂言の玉手御前であるが、解釈に二通りある。玉手御前の俊徳丸への恋が、偽であったのか、本物であったのかと云う点である。六代目歌右衛門は、お家と俊徳丸を護らんが為の偽恋であったと云う解釈である。一方菊之助の祖父である七代目梅幸は、本物の恋であったと云う思いで勤めていると、インタビューで語っていた。菊之助は大和屋からこの役を教わっている。大和屋は歌右衛門直伝であるので、流れとしては菊之助歌右衛門流と云う事になる。

 

しかし今回菊之助は、最後に向かうにつれ俊徳丸への玉手御前の思いはどんどん深まって行くと事前インタビューで語っていた。動機としては俊徳丸を護る為であったのだが、大詰に向かうにつれ、自分の思いは本当であったのだと再認識すると云う解釈であったのだと思う。要するに歌右衛門梅幸の中間的な解釈であろう。筆者には観ていて、その様に感じられた。前半のやつしの部分は菊之助のクールな芸質通り、実に憎々しい玉手御前である。

 

義理とは云え息子の俊徳丸に恋を仕掛け、父に窘められても聞かず、奴の入平に止められて「邪魔をしやると蹴殺すぞ」と語気強く言い放つ。ここは義太夫の本文通りの科白ではあるのだが、「蹴殺す」と云う表現は女形に合わないと云う事であろう、他の役者は皆「邪魔をしやると許さぬぞ」と云っている。この辺りは文楽の亡き咲太夫に教わったと云う菊之助の面目躍如と云っていい場で、この強い表現が後半の戻りをより劇的なものにしている。

 

堪忍袋の緒が切れた父合邦が、玉手御前を刺す。そこで初めて悪臣どもから俊徳丸を護る為であったのだと、本心を打ち明ける玉手御前。こんな事をせずとも、殿に相談するなどしたら良かったであろうにと云う合邦の言葉を受けての「お道理でござんす、お道理でござんす」と苦しい息の下から声を絞り出す玉手御前。この「お道理」を二度繰り返すところの二度目のトーンを少し変えて、如何にも刺されている今の状況の苦しい息の中での科白と云う緊迫感を出しているところの上手さは、本当に見事なものである。そしてこの苦しみも、愛する俊徳丸を助ける為なら喜んで引き受けると云う痛切な思いが、歌舞伎座の大舞台を覆いつくす。観ていて息をするのも忘れる位の素晴らしさだ。

 

最後は自らの肝の臓の生血を俊徳丸に呑ませて俊徳丸の病は癒え、玉手御前は合掌しながら息を引き取って幕となった。前半のやつしの憎々しさ、後半の戻りの哀切、流石は菊之助とも云うべき名舞台であったと思う。脇では歌六合邦が娘を思い乍らも、古格な武士らしい一徹ぶりで見事な合邦。俊徳丸は特にこの場では為所がないが、艶があり愛之助のニンにも適っている。米吉の浅香姫は、この優らしい可憐さで義太夫狂言の赤姫をきっちり演じており、吉弥のおとくも夫と娘の間でとまどい乍らも、情愛深い老母ぶりで、見事な出来。各役揃った素晴らしい「合邦庵室の場」であった。

 

打ち出しは『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』。夢枕獏の原作で、 弘法大師御誕生一二五〇年記念と云う事での上演となった様だ。これをわざわざ秀山祭で出す必要があるのかと、些か疑問には感じる狂言立て。八年前に初演された新作歌舞伎で、筆者はその時も観劇したが、初演の方が面白かった印象がある。配役は幸四郎空海雀右衛門楊貴妃歌昇の白楽天、米吉の白蓮、児太郎の春琴、染五郎仲麻呂と遠成の二役、吉之丞の逸勢、又五郎の白龍、歌六の丹翁、白鸚の憲宗皇帝。初演時は松也であった橘逸勢が吉之丞に替わり、前回はなかった仲麻呂と遠成の二役が染五郎の為に書き加えられている。

 

音楽は生ではないし、科白廻しも現代調で筆者的には歌舞伎とは云い難い。前回は黄鶴役であった彌十郎が、今回は役ごと丸々カットされているのも残念。初演時はこの彌十郎雀右衛門が、流石大歌舞伎と云った雰囲気を出してくれていたのだが。雀右衛門は今回も出てはいるものの、前回は雀右衛門の幻想的な踊りで幕あけしたのだが、今回はこれもカット。幸四郎と松也の若々しいぶつかり合いが初演時の目玉でもあったのだが、今回は吉之丞に替わっていて、狂言自体の雰囲気も変わってしまった。

 

ただ初演時にはなかった染五郎の役が加えられた事により、大詰で高麗屋三代揃い踏みが実現した。これは実に良かった。白鸚が出て来るだけで、自然と大歌舞伎の雰囲気になる。やはり役者としての格が違うのだ。今回の改変は少し残念な部分が多かったので、次にまた上演される際には、初演をもう一度見直して欲しいと思う。脇では米吉の美しさと、児太郎のミステリアスな芝居が目に残る出来であった。

 

残るは夜の部。大和屋の定高に、幸四郎の弁慶と云う凄い狂言立て。楽しみでしかない。感想は観劇の後、改めて綴りたい。

秀山祭九月大歌舞伎(写真)

秀山祭に行って来ました。ポスターです。

 

今月かかっている四狂言のポスターです。

 

二階には、播磨屋弁慶のパネルが。本当に凄い役者でした。

 

今月上演される空海に因み、高野山ゆるキャラこうやくんが駆け付けました。

 

播磨屋亡き後も継続されている秀山祭。未来永劫続いて行って貰いたいものです。感想はまた別項にて綴ります。

 

令和六年九月 国立劇場歌舞伎公演 彦三郎・亀蔵兄弟の『夏祭浪花鑑』

初台にある国立劇場中劇場における歌舞伎公演を観劇。一階席は半分くらい埋まっていたが、二階席はガラガラと云った感じで、入りは芳しくなかった。今月は歌舞伎座公演に加え、團十郎襲名巡業もあり、南座での獅童の奮闘公演もある。そんな関係でお客と役者を他に取られている感じであろう。それでも普段は成田屋の公演に出る事の多い男女蔵が出てくれているのは嬉しい。

 

幕開きは入門『夏祭浪花鑑』をたのしむ。国立劇場公演恒例の演目説明である。今回は片岡亀蔵が着物姿で登場し、芝居のストーリーをネタバレにならない程度に分かり易く解説。人物絵を大きな団扇に描いて人間関係などを説明してくれていた。泥だらけになる場があり、「役者さんは大変だ」と自ら演じる義平次役をアピールしていたのが面白かった。通常はここで一旦休憩を挟むのだが、今回は一旦定式幕を閉めてそのまま芝居に入って行った。

 

そして『夏祭浪花鑑』。配役は彦三郎の団七、坂東亀蔵の徳兵衛、男女蔵の三婦、男寅の磯之丞、鷹之資の三吉、玉太郎の琴浦、歌女之丞のおつぎ、松之助の佐賀右衛門、宗之助のお梶、松江の藤内、片岡亀蔵の義平次、孝太郎のお辰。宗之助はちょっと判らないのだが、男女蔵・松之助・歌女之丞以外は初役の様だ。何と云っても彦三郎の団七が目を引く。実力のある役者だが、中々主役を演じる機会に恵まれなかった優。事前のインタビューでも、同世代の幸四郎菊之助に比べ自分が周回遅れになっている自覚があると云っており、このチャンスを何とかモノにしたいと云う様な趣旨の発言をしていた。その言葉通り、気迫溢れる熱演を見せてくれた。

 

何より自分の最大の特徴であるよく通る声を生かした科白廻しが良い。きっぱりとしており、粋で鯔背な団七を造形している。それは弟の坂東亀蔵演じる徳兵衛にも云える。兄弟でもあり、普段舞台を同じくしている二人なので、イキもぴったり。「住吉鳥居前の場」における二人の達引は形も良く、如何にも向こうっ気の強い男同士のぶつかり合いと云った感じがよく出せており、見応え充分。喧嘩を絵看板で止める宗之助お梶の、鉄火な世話女房ぶりも良し。

 

団七の為所であり、この狂言の最大の見せ場である「長町裏の場」も、彦三郎の健闘は光る。「悪いヤツでも舅は親」の科白廻しの上手さなどは、とても初役とは思えない程だ。ただ舞台が歌舞伎用の舞台ではないので奥行がなく、前に出てきたり後ろに下がったりと忙しなく、折角の義平次との二人芝居の感興を削ぐ。まぁ致し方ないのだけれど。加えて片岡亀蔵の義平次がこの優天性の愛嬌が滲み出てしまい、悪に徹し切った手強さが出ない。芝居は上手い優なのだが、ニンではないと云う事なのだろう。市蔵や橘三郎の様な振り切った味を出すには至らなかった印象だ。

 

最後、祭神輿に紛れての団七の引っ込みも、劇場の構造上花道を真っ直ぐ出来なかった様で、途中舞台から見て右に折れる形の花道。折角形良く彦三郎が引っ込んで行くのだが、ここも感興を削がれる。そんな制限のある舞台環境の中、彦三郎必死の思い溢れる熱演であったと思う。つくづく歌舞伎座で、若しくは閉館前の国立劇場でやらせてあげたかった。いつの日か、再演の機会を作ってあげて欲しいと思わずにはいられない。

 

しかしこの芝居で最も見応えがあったのは、孝太郎のお辰である。あの鉄火な女房は必ずしも孝太郎のニンではないと思っていたのだが、いやいやどうして、見事なものであった。夫への想い、その夫の恩ある主人への忠義、その二つをきっちり演じて間然とするところのない出来。上方出身の役者らしい風情も良く、今まで観たこの役の中でも出色のお辰。花道にかかっての「ここでござんす」の名科白も実にきっぱりとしており、この優の実力を遺憾なく発揮してくれていた。素晴らしいお辰であった。

 

男女蔵の三婦はニンではあると思うのだが、嘗てこの役を演じた亡き父左團次や、歌六などと比べるとまだ貫目が軽く、線が細い印象。この役を為おおせるにはやはり年輪が必要の様だ。しかし今後は男女蔵辺りが演じて行かなければならない役。いつまでも歌六頼りと云う訳にも行くまい。回数を重ねて自らのものにして行って欲しい。若手抜擢の玉太郎の琴浦と、男寅の磯之丞は、まだこの二人には流石に手に余った。ことに磯之丞の様なつっころばしの役は難しい。これも経験を積んで行くしかないであろう。

 

幾つか注文はつけたものの、彦三郎・亀蔵兄弟の熱い芝居と孝太郎の上手さは光っていた。歌舞伎座でもまた主役を演じて貰いたいと心から思う。それにしても、もう少し見物衆に入って貰いたいものだ。未見の方がおられたらぜひと、観劇をお勧めしておきたい。

令和六年九月 文楽鑑賞教室(写真)

国立劇場文楽鑑賞教室に行って来ました。ポスターです。

 

『伊達娘恋緋鹿子』の手拭いが販売されていました。

 

太夫と清公による文楽の解説の時に、撮影タイムがありました。

 

先週に引き続き、初台にある新国立劇場に行って来ました。今回は小劇場です。中々いい入りでした。歌舞伎と共同プログラムで、同じ『夏祭浪花鑑』が上演されていました。歌舞伎と色々な違いがあって、興味深かったですね。最初の『伊達娘恋緋鹿子』で三味線を弾いていた鶴澤清丈'が気になるのか、師匠の鶴澤清介が二階席から見守っていました。太夫の中では、やはり織太夫の充実ぶりが際立っていましたね。

 

令和六年九月 国立劇場歌舞伎公演(写真)

初台の新国立劇場の歌舞伎公演に行って来ました。ポスターです。

 

開演前は定式幕が引かれておらず、舞台を撮影出来ました。

 

音羽屋兄弟のパネルがありました。いい男伊達ぶりです。

 

新国立劇場の歌舞伎公演を観劇。各優熱演で、素晴らしい舞台でした。感想はまた改めて綴ります。

 

八月納涼歌舞伎 第一部 巳之助・児太郎の『ゆうれい貸屋』、高麗屋親子の『鵜の殿様』

今月残る一部を観劇。入りは三部の中では少なかったが、それでも九割方は入っていたであろうか。確かに狂言立ては三部の中で一番地味であったかもしれない。新歌舞伎に松羽目物の舞踊劇と云う組み合わせ。しかし各優熱演で、他の部に引けを取らない盛り上がりを見せてくれていたと思う。

 

幕開きは『ゆうれい貸家』。山本周五郎原作の新歌舞伎で、初演は先々代松緑梅幸の組み合わせであったと云う。前回の歌舞伎座での上演は何と十七年前の様で、今回演じた巳之助と児太郎それぞれの父である亡き三津五郎と、福助のコンビであった様だ。配役は巳之助の弥六、児太郎染次、新吾のお兼、福之助の鉄造、鶴松のお千代、青虎のお勘、寿猿の友八、勘九郎の又蔵、彌十郎の平作。ベテランの彌十郎以外は当然の様に初役であるが、酷暑の中今月も寿猿が元気な舞台姿を見せてくれているのが嬉しい。

 

筆者は前回の三津五郎福助の上演は観ていないので、初めて観る狂言狂言のタイトルの幽霊を平仮名のゆうれいに開いている通り怖い怪談話ではなく、ゆうれいが出て来る喜劇である。上記の通り三津五郎福助の上演は観ていないのだが、福助がどんな風に染次を演じたのか、目に浮かぶ様だ。こう云う喜劇的で男を尻に敷くものの、どこか可愛げのある女を演じさせたら、福助は天下一品であった。今回はその福助が監修を勤めているので、児太郎は完全に福助マナーであろう。

 

大筋としては、桶職人弥六は腕はいいのたが、怠け者。大家を始めとして散々周りから意見をされるものの、馬の耳に念仏。そんな姿に愛想を尽かした女房が出て行ってしまう。そんなところに成仏出来ずに彷徨っている辰巳芸者の幽霊染次が現れ、二人は夫婦同然に暮らし始める。金に困った二人は、他人に恨みを持つ人達に幽霊を貸し出す商売を始め、大繁盛。しかし幽霊の又蔵があの世もこの世もロクでもないが、生きていればこそだと言い残して姿を消す。その言葉に目を覚まされる弥六。幽霊のお千代に口説かれている弥六の姿を見た染次は嫉妬の炎を燃やすが、鉦を打ち鳴らすと成仏して姿を消す。そこに長屋の者と女房お兼が現れて、めでたしめでたしで幕となる。

 

まぁたわいもない話ではあるが、出て来る幽霊が皆コミカルで楽しめる狂言。ことに二部で新三、三部で監物を演じた勘九郎が、同じ役者とは思えない位弱気で頼りない幽霊又蔵を好演。流石の芸達者ぶりを見せてくれている。女房お兼を演じた新吾も、夫をぐうたらから立ち直らせたいが為、涙を呑んで家を出て行く世話女房をしっとりと演じて目に残る出来。主演の二人は多分(観てはいないのだが)お父っつぁん達には及んでいないとは思うが、時にコミカルに、時に情味を見せて歌舞伎座の主演をしっかり勤め上げていた。ただ全体的に世話物の味わいは薄い。これはやはり若手中心の座組では難しいのだろうと思う。

 

打ち出しは『鵜の殿様』。元NHKアナウンサーで歌舞伎通としても知られる山川静夫原案の松羽目物。元々西川流の舞踊公演の為に作られた物の様だ。それを今年二月の博多座公演で幸四郎染五郎親子が歌舞伎初演して好評を博し、今回歌舞伎座での再演となったらしい。幸四郎の太郎冠者、染五郎の大名、高麗蔵・笑也・宗之助の腰元と云う配役。博多座の時とは笑也だけが替わっている。

 

これが傑作とも云うべき素晴らしい狂言であった。太郎冠者と大名の関係性を、鵜と鵜飼に見立てている。搾取する側とされる側と云う寓意がそこにある様だ。兎に角、幸四郎染五郎親子の所作事の見事な事。染五郎は勿論だが、幸四郎もまだまだ若く、身体がよく動く。二人の運動能力の高さが存分に発揮されている。太郎冠者と大名のやり取りには『操り三番叟』の所作が取り入れられている。『操り三番叟』は人形と人形遣いだが、今回は鵜と鵜飼に見立てているので、動きが大きく且つ激しい。

 

微妙な動きに妙味を見せる『操り三番叟』に比べ、こちらは身体ごと引っ張り、引き付ける様な要素がある。大きな動きの中にも関わらず、引っ張る者と引っ張られる者とのイキがぴったりで、流石技術の高麗屋と唸らされる。途中大名の長袴を太郎冠者が踏みつけてバッタリ倒れると云うドリフを想起させる様な動きもあり、客席も大盛り上がり。多少松羽目物としての品位には欠ける部分もあるが、実に楽しませてくれる狂言。腰元の三人も愛らしく、品位を保ちつつ適度にコミカルで、ベテランの三優らしい芸を見せてくれていた。これは出し物としてこれからも定着していくだろうと思われる程の、充実した狂言であった。

 

三部制を大いに堪能できた八月納涼歌舞伎。来月は秀山祭。高麗屋三代揃い踏みで、松緑菊之助と云う、亡き播磨屋所縁の花形役者が揃う。加えて大和屋が定高で出演と云う豪華さ。丸本・松羽目・新作とバラエティに富んだ狂言立ても、今から大いに楽しみである。

八月納涼歌舞伎 第二部 中村屋兄弟・幸四郎の「髪結新三」、成駒家三兄弟の「紅翫」

歌舞伎座第二部を観劇。中村屋兄弟に高麗屋親子、成駒家三兄弟がそろい踏みとあってか、ほぼ満員の盛況。連日酷暑が続いているが、歌舞伎座の方も熱い盛り上がりを見せている。新作の上演であった三部に対し、この二部は黙阿弥+舞踊と云う王道の狂言立て。今月の三部の中で、筆者的にはこの部の「新三」が一番の楽しみであった。その感想を綴りたい。

 

幕開きはその『梅雨小袖昔八丈』、通称「髪結新三」。云わずと知れた黙阿弥の傑作世話狂言。色々な役者が手掛けているこの新三。当代では高麗屋音羽屋の大名題を始めとして、芝翫松緑菊之助が演じている。今回そのラインナップに新たに勘九郎が加わった。中村屋にとっても、十七世・十八世が度々演じ、当り役としてきた狂言。配役はその勘九郎の新三、七之助の忠七、巳之助の勝奴、鶴松のお熊、歌女之丞のおかく、片岡亀蔵の善八、中車の藤兵衛、彌十郎の長兵衛、扇雀のお常、幸四郎の源七。それに勘九郎の愛息長三郎が丁稚の長松で、子供乍ら達者なところを見せてくれている。彌十郎亀蔵以外は皆初役の様だ。

 

筆者的には、当代では大名人の大御所二人は置くとして、菊之助の新三が大好きである。この人の新三は独特で、他の優には見られない艶があり、それが堪らなく良いものであった。今回の勘九郎菊之助とは全く違っている。初役と云う事もあるだろうが、本当に忠実に父勘三郎の新三を写している。その科白廻し、テンポ、イキの良さ、父に生き写しであった。しかもこの親子には天性の愛嬌がある。新三は忠七を騙してお熊をさらってしまい、散々慰み者にした挙句に金を強請ろうとする悪人。しかし三部の監物とは違い、どこか憎めない味がある。そこをこの中村屋親子はその持って生まれた愛嬌で、実に見事に表現している。

 

悪い奴だが、大家には敵わないなど抜けている部分もある新三。だから悪事を働いてはいても、狂言の後味が悪くならないのだ。そこが黙阿弥の作劇の上手さ。それに勘九郎の明るい江戸前の芸風が、初夏の風の様な爽やかな味わいを加えている。浴衣姿で風呂帰りの新三、その風姿の粋な事。表は夏だがここは見事に江戸の初夏の風情が漂っている。仲裁に乗り込んで来た源七をやり篭めるその科白廻しのイキの良さ。初役とは思えない見事さである。

 

順番は逆になったが、「永代橋川端の場」に於ける忠七を組み敷いての傘尽くしの科白廻しも、亡き父同様他の役者よりも若干テンポを落としてじっくり聴かせて聴きごたえ充分。まだ父をなぞっている初演なので、勘九郎独自の工夫の様なものはあまり見られないが、それは致し方なかろう。しかし彌十郎の大家長兵衛とのやり取りなぞは、アドリブを含めて実にイキの合ったところを見せてくれており、見物衆にも大受けであった。勘九郎、まずは立派な初役新三であったと思う。

 

脇では彌十郎の大家長兵衛が何度も演じて自家薬籠中の物。ニンにも適い、実に見事なデキ。七之助の忠七はニンではないものの、女形らしい柔らかさがあり、初役乍らしっかり演じている。しかし筆者にとっての最高の忠七は福助で、新三にやり込められた後の永代橋で見せる何とも云えない艶は、無類のものであった。いずれ七之助にも、叔父福助の素晴らしい忠七を再現して欲しいものだと思う。七之助ならきっと出来ると思っている。

 

幸四郎の源七はニンではない。團蔵左團次の骨のある源七に比べると若干線が細い印象だ。しかし幸四郎なりの貫禄はきっちりとあり、勘九郎との芸格の釣り合いも取れているので、二人芝居はしっかり見せてくれている。大詰の「深川閻魔堂の場」における勘九郎との所作事は、形の良いこの優ならではの見事さで流石の出来。最後は勘九郎幸四郎の切り口上で幕となった。

 

打ち出しは『艶紅曙接拙』、通称「紅翫」。四世芝翫が初演した、成駒屋家の芸だ。配役は橋之助の紅翫、福之助の阿曽吉、歌之助の駒三、新吾のおすず、染五郎のお高、虎之介の留吉、児太郎のお静、巳之助の銀兵衛、そして父から離れて参加した勘太郎の神吉。少し見ぬ間に、勘太郎は背が伸びて大きくなった。子供の成長はやはり早いものだ。八年ぶりの上演なので、当然の様に全員初役。橋之助は伯母である舞踊中村流の家元梅彌に教えを乞うたと云う。

 

橋之助は気合い充分と行ったところで、熊谷から忠臣蔵先代萩などの人物をきっちり踊り分けている。まだ味わいが出るところまでは行っていないが、崩さずにしっかり踊っているところに好感が持てる。脇では何と云っても染五郎の珍しい女形ぶりが目を引く。ちょっと見には染五郎とは判らない程女形になりきっていて、このメンバーの中では長身の染五郎だが、身体を上手く殺して意外な適性を見せてくれている。橋之助以外の役には特に為所がなく、ひたすら紅翫の引き立て役となってしまうのは他の若手花形には些か気の毒ではあるが、そう云う踊りなので致し方なしか。巳之助・新吾辺りには、改めて踊り比べをして貰いたいものだ。

 

蛇足だが、今回驚いた事が一つある。それは「新三」で「元の新三内の場」が終わって一旦幕が下りたところで、ぞろぞろ見物客が立ち上がって席を離れようとした事だ。この狂言を観た事がないのか、まだ「閻魔堂」があると云う事を知らない人が多い様だった。係員の人達が「この後まだ十分程芝居があります」と、席を離れた見物客を懸命に押しとどめていた。令和になってからだけでも三回上演されている「新三」を知らないお客が多いとは・・・。新たなお客を取り込めているとしたら、松竹の狙い通りなのかもしれないが。余計な事だが驚いたので、書き留めて置きたい。