今年も無事秀山祭開催の運びとなった。何より目出度い。播磨屋の早逝(現代に於いて傘寿を前に亡くなるのは、こう云っても差し支えないであろう)は惜しみても余りあるものであったが、幸いな事に幸四郎・松緑・菊之助と云う立派な後継者がいる。播磨屋の親類に人気・実力とも兼ね備えた花形役者が揃っている限り秀山祭は継続されて行くであろうし、また継続して行かなければならないと思う。
まず昼の部を観劇。入りは大入りとまでは行かなかったが、九分通りな感じであったろうか。幕開きは『摂州合邦辻』より「合邦庵室の場」。丸本の名作である。ここ十五年程、玉手御前は菊之助しか演じておらず、現代では専売特許の感がある。それでも歌舞伎座でかかるのは九年ぶりの様だ。その菊之助の玉手御前、愛之助の俊徳丸、萬太郎の入平、米吉の浅香姫、吉弥のおとく、歌六の合邦と云う配役。愛之助・米吉・萬太郎は初役らしい。
「合邦辻」、筆者は大好きな芝居なのだが、色々批判もある狂言である。文豪の谷崎潤一郎は随筆「所謂痴呆の芸術について」の中で、義太夫狂言の馬鹿馬鹿しさを痛烈に批判している。例としてこの「合邦辻」を挙げ、「所謂痴呆の芸術のうちでも此れなぞは最も典型的なもの」と中々に手厳しい。「謡曲の持つ高雅、幽玄、優美の味は、浄瑠璃のほうにはどこを探しても見られない。」とその理由を述べている。これは文楽批判なので、歌舞伎を直接批判したものではないが、元が同じなので歌舞伎批判と取っても良いであろう。
谷崎は戦前、文楽に刺激を受けて『蓼食ふ虫』を書き上げている。筆者は個人的にこの『蓼食ふ虫』が谷崎の最高傑作だと思っている。しかし戦後になって上記「所謂痴呆の芸術について」で一転批判に転じてしまった。この間に谷崎に何があったのかは判らない。戦争で日本古来の物が破壊され、絶望感が嫌悪感に変わったのかもしれない。しかしこの高雅でないところが、庶民芸能としての文楽や歌舞伎の魅力なのではないかと、筆者などは思ってしまう。谷崎は恐らく、近代日本最高の作家であろうと思うが、この点は些か納得しかねると云うのが筆者の考えである。
そしてこの狂言の玉手御前であるが、解釈に二通りある。玉手御前の俊徳丸への恋が、偽であったのか、本物であったのかと云う点である。六代目歌右衛門は、お家と俊徳丸を護らんが為の偽恋であったと云う解釈である。一方菊之助の祖父である七代目梅幸は、本物の恋であったと云う思いで勤めていると、インタビューで語っていた。菊之助は大和屋からこの役を教わっている。大和屋は歌右衛門直伝であるので、流れとしては菊之助は歌右衛門流と云う事になる。
しかし今回菊之助は、最後に向かうにつれ俊徳丸への玉手御前の思いはどんどん深まって行くと事前インタビューで語っていた。動機としては俊徳丸を護る為であったのだが、大詰に向かうにつれ、自分の思いは本当であったのだと再認識すると云う解釈であったのだと思う。要するに歌右衛門・梅幸の中間的な解釈であろう。筆者には観ていて、その様に感じられた。前半のやつしの部分は菊之助のクールな芸質通り、実に憎々しい玉手御前である。
義理とは云え息子の俊徳丸に恋を仕掛け、父に窘められても聞かず、奴の入平に止められて「邪魔をしやると蹴殺すぞ」と語気強く言い放つ。ここは義太夫の本文通りの科白ではあるのだが、「蹴殺す」と云う表現は女形に合わないと云う事であろう、他の役者は皆「邪魔をしやると許さぬぞ」と云っている。この辺りは文楽の亡き咲太夫に教わったと云う菊之助の面目躍如と云っていい場で、この強い表現が後半の戻りをより劇的なものにしている。
堪忍袋の緒が切れた父合邦が、玉手御前を刺す。そこで初めて悪臣どもから俊徳丸を護る為であったのだと、本心を打ち明ける玉手御前。こんな事をせずとも、殿に相談するなどしたら良かったであろうにと云う合邦の言葉を受けての「お道理でござんす、お道理でござんす」と苦しい息の下から声を絞り出す玉手御前。この「お道理」を二度繰り返すところの二度目のトーンを少し変えて、如何にも刺されている今の状況の苦しい息の中での科白と云う緊迫感を出しているところの上手さは、本当に見事なものである。そしてこの苦しみも、愛する俊徳丸を助ける為なら喜んで引き受けると云う痛切な思いが、歌舞伎座の大舞台を覆いつくす。観ていて息をするのも忘れる位の素晴らしさだ。
最後は自らの肝の臓の生血を俊徳丸に呑ませて俊徳丸の病は癒え、玉手御前は合掌しながら息を引き取って幕となった。前半のやつしの憎々しさ、後半の戻りの哀切、流石は菊之助とも云うべき名舞台であったと思う。脇では歌六合邦が娘を思い乍らも、古格な武士らしい一徹ぶりで見事な合邦。俊徳丸は特にこの場では為所がないが、艶があり愛之助のニンにも適っている。米吉の浅香姫は、この優らしい可憐さで義太夫狂言の赤姫をきっちり演じており、吉弥のおとくも夫と娘の間でとまどい乍らも、情愛深い老母ぶりで、見事な出来。各役揃った素晴らしい「合邦庵室の場」であった。
打ち出しは『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』。夢枕獏の原作で、 弘法大師御誕生一二五〇年記念と云う事での上演となった様だ。これをわざわざ秀山祭で出す必要があるのかと、些か疑問には感じる狂言立て。八年前に初演された新作歌舞伎で、筆者はその時も観劇したが、初演の方が面白かった印象がある。配役は幸四郎の空海、雀右衛門の楊貴妃、歌昇の白楽天、米吉の白蓮、児太郎の春琴、染五郎が仲麻呂と遠成の二役、吉之丞の逸勢、又五郎の白龍、歌六の丹翁、白鸚の憲宗皇帝。初演時は松也であった橘逸勢が吉之丞に替わり、前回はなかった仲麻呂と遠成の二役が染五郎の為に書き加えられている。
音楽は生ではないし、科白廻しも現代調で筆者的には歌舞伎とは云い難い。前回は黄鶴役であった彌十郎が、今回は役ごと丸々カットされているのも残念。初演時はこの彌十郎と雀右衛門が、流石大歌舞伎と云った雰囲気を出してくれていたのだが。雀右衛門は今回も出てはいるものの、前回は雀右衛門の幻想的な踊りで幕あけしたのだが、今回はこれもカット。幸四郎と松也の若々しいぶつかり合いが初演時の目玉でもあったのだが、今回は吉之丞に替わっていて、狂言自体の雰囲気も変わってしまった。
ただ初演時にはなかった染五郎の役が加えられた事により、大詰で高麗屋三代揃い踏みが実現した。これは実に良かった。白鸚が出て来るだけで、自然と大歌舞伎の雰囲気になる。やはり役者としての格が違うのだ。今回の改変は少し残念な部分が多かったので、次にまた上演される際には、初演をもう一度見直して欲しいと思う。脇では米吉の美しさと、児太郎のミステリアスな芝居が目に残る出来であった。