
十一月大歌舞伎に行って来ました。ポスターです。

昼の部絵看板です。

同じく夜の部。

狂言ポスター四枚綴りです。独りで写っているのは巳之助の弁慶のみ!
歌舞伎座の顔見世を観劇して来ました。やはり大勢の見物客で賑わっていましたね。出番は短い乍ら、同じ月に音羽屋と高麗屋が揃うのはいつ以来でしょうか。芝居の感想はまた別項にて改めて綴ります。
今月歌舞伎座の最後、Bプロ一部を観劇。この部もやはりほぼ満員の入り。今月はAプロの二部に若干の空きがあったものの、全体的によく入っていた。報道によると、歌舞伎が好調で、松竹の演劇部門が黒字に転じたと云う。まずはめでたい。まぁ筆者は松竹の関係者でも何でもないのだが。松竹の株を持っている友人は、値が下がらないので買い足せないとこぼしていた。まぁこれもどうでもいい事であるが。
幕開きは「鳥居前」。配役は右近の忠信実は源九郎狐、左近の静御前、桂三・男寅・玉太郎・吉之丞の四天王、橘太郎の忠太、橋之助の弁慶、歌昇の義経。Aプロの静御前が笑也であったので、ぐっと若返った。四天王と弁慶は同じだが、鷹六が青虎であったのが、Bプロでは忠太で橘太郎。こちらは逆にベテランの起用となっている。中では右近・左近・歌昇が初役。右近は松緑の、歌昇は高砂屋の指導を仰いだと云う。
右近は「四の切」も素晴らしかったが、こちらも見事。女形を本領とする優だが、こう云う荒事も出来ると云うところを存分に見せつけている。余計な力みもなく、所作がたっぷりとしているが、どことなく愛嬌も漂っている。豪快さと云うより若さに似合わぬ古格な味わいが漂うのが良い。最後花道を狐六法で引き上げる姿は、とても女形も演じる役者とは思えない。こう云う骨太な役も出来るとなると、本当の意味での兼ねる役者として、大きな存在になって行けると思う。しかも清元もこなす二刀流。正に歌舞伎界の大谷翔平とも呼ぶべき優であるのかもしれない。
左近初役の静御前は、その可憐な姿は見惚れるばかりだが、やはり丸本のこってり感は出せていない。白拍子と云う出自よりも、お姫様と云う感じが強調されている。Aプロの静御前が笑也であったので、余計そう感じられてしまうのかもしれないが。橘太郎の忠太は、愛嬌たっぷりの所作と科白廻しで、こう云う役をさせれば無双の優。歌昇の義経は、よく通る声と源家の御大将らしい見事な位取りで、初役らしからぬ立派な義経であったと思う。そしてAプロとの違いは、義経に打擲された弁慶が畏れ入り乍ら涙を流す場がある事。今月はこう云う型の違いが観れて実に興味深い。
いよいよ今月の最後、「渡海屋」、「大物浦」。Bプロの配役は巳之助の銀平実は知盛、歌昇の義経、坂東亀蔵の丹蔵、松緑の五郎、弁慶・四天王・お柳実は典侍の局はAプロと同様であるが、亀蔵と松緑の役を入れ替えている。中では巳之助・歌昇・松緑が初役。亀蔵は初演時に、父楽善と亡き團蔵の教えを仰いだと云う。劇団はチームで芸を受け継いで行っているのがよく分かる。だからこそあの見事なアンサンブルが維持されているのであろう。これは今後も繋いで行って貰いたいものである。
巳之助は舞踊坂東流の家元であり、若手きっての踊りの名手だが、この芝居では何よりしっかりとした描線が素晴らしい。銀平の時は隼人の様な鯔背な感じではなく、丸本の主人公らしい太々とした作りが感じられる。要するに義太夫味があると云う事なのだが、同年配の隼人とまた違った持ち味が出ているのが良い。誰の教えを受けたのかは筋書に記載がないので判らないが、松嶋屋の口跡が残っていた隼人に比べ、初演乍ら自分の銀平を作り上げている印象。ただ白色糸縅の鎧姿で現れるところは、隼人の様な鮮やかさにはやや欠ける。
「大物浦」の知盛では、やはり若さに似ぬたっぷりとした義太夫味と、描線の太さが素晴らしい。松嶋屋型ではないので、身体に突き刺さった矢を抜いて血を舐め、喉の渇きを癒すところはない。「三悪道」は古怪な丸本らしい科白廻しの中に、義経打倒を果たせなかった無念さも滲むが、帝の後顧に憂いのない事の喜びも感じさせる。最後の碇とともに入水するところも、大きさと迫力があって、実に見事。どちらも初役の隼人と巳之助、持ち味の違う二つの知盛を観る事が出来た。若手花形が大役を演じる事で、今までより一回り大きさを感じさせる舞台姿が、印象的であった。
こちらも「鳥居前」同様ABで型に多少の違いがある。「渡海屋」の場で弁慶が寝ているお安を跨ごうとして跨げないと云う、お安が実は安徳帝であると云う事を暗示させる場がある。これもAプロにはなかった型である。ここがあるので、Aプロでは「大物浦」に弁慶の出番はなかったが、Bプロにはあると云う形になっている。他の役では孝太郎がAプロ同様、傑作としか云い様のない典侍の局で、存在感を見せつけてくれていた。亀蔵と松緑は、役を入れ替えても相変わらずの上手さ。総じてAプロに負けない立派な出来であったと思う。
最後にこの狂言の解釈について一言私見を述べたい。「大物浦」の最後の場で、これからは義経が帝を守護すると知盛に告げるのは、強い方につくと云う天皇の非情さを風刺した天皇制批判であると云う説が世にある。しかしこれはとんでもない間違いである。まず前提として、この狂言が書かれた江戸時代中期に、幕府の御政道に対する不満があったとしても、天皇制に対してどうこうと云う考えを、庶民階級の人々が持っていたはずがない。平田篤胤や頼山陽などの思想が影響を与えた幕末ならともかく、この狂言が出来た延享の頃には、天皇制の批判など一般としてはない事なのだ。むしろ普段何かと締め付けられていた江戸庶民が、武士より上の存在があると思う事で溜飲を下げていたのではないだろうかとすら思う。自分の思想に引き寄せて狂言の解釈を捻じ曲げてはいけない。
狂言の中でも、典侍の局の「いかに八大竜王、恒河の鱗屑、君の行幸なるぞ、守護し奉れ」と云う科白に、帝を戴く事の矜持が反映されているのが判る。最後の場で義経が、これからは帝を私が守護し奉ると告げても全く聞き入れない知盛が、まだ幼い安徳帝から「義経を恨みに思うな」と諭されると、全身の緊張を緩め戦いの鉾を収めるのだ。これは例えが大袈裟かもしれないが、大東亜戦争時に本土決戦を呼号していた帝国陸軍が、陛下のご聖断が下ると粛々として終戦を受け入れた事に似ている。勿論この狂言と終戦時のご聖断は全く繋がりはない。しかし武士より上に戴かれる存在としての天皇を、作者は狂言に書き込んでいるのだ。「三悪道」でも知盛は「父清盛は外戚の威を借り、悪逆非道」と天皇を政治利用した事の罪を認め、「昨日の仇は今日の味方」と180度転換するのだ。これは断じて天皇制批判の寓意を含んだ狂言などではないと、余談乍ら申し上げておきたい。
歌舞伎座Bプロ第三部を観劇。やはり開場前には長蛇の列が出来ており、熱気溢れんばかり。この部は高砂屋以外、主要な役どころを若手花形で固めており、幸四郎や菊五郎と云った花形の出演もない。にも関わらずこの入りは、歌舞伎の将来を明るく照らすものであろう。右近や隼人の一般メディアへの露出も増えて来ている印象で、知名度も上昇しているのであろう。これで誰か若手花形の中で松也以外に、テレビドラマへのレギュラー出演でも叶えば、人気は更に沸騰するに違いない。現代劇の若手俳優よりも、ずっと芝居が出来る役者が、梨園には沢山いるのだから。
幕開きは「吉野山」。Bプロの配役は右近の忠信実は源九郎狐、米吉の静御前、種之助の藤太。中では種之助が初役。Aプロでは右近の栄寿太夫がタテの清元を勤めていたが、Bプロは父の延寿太夫。流石にお父っつあんの方がサビも効いていて一枚上の喉を聴かせてくれていた。Aプロの團子・新吾のコンビは共に初役であったが、今回の二人は経験のある役であったので、結論から云うとこちらも一枚上の舞踊であった。
あっさり味であったAプロに比べ、Bプロの二人は所作にこってりとした味わいがあり、丸本らしい舞踊。二人並んだところは若手花形らしい美しさ。二人共柔らか味があるが、右近忠信は兄継信討死の軍物語のところなど、手強さもあって実に結構な出来。種之助藤太は、観る前はニンでもなく初役でもあるので如何かと思っていたが、愛嬌もありこう云う半道敵の役にも意外な適性を見せてくれていた。若い三人共しっかりとしており、観ていて実に気持ちの良い「吉野山」であった。
休憩を挟んで「川連法眼館」。こちらの配役は忠信実は源九郎狐・静御前は「吉野山」と同じ。巳之助の六郎、隼人の次郎、橘三郎の法眼、歌女之丞の飛鳥、高砂屋の義経。高砂屋以外はAプロと役者が替わっている。Aプロは團子が演じたので澤瀉屋型であったが、今回は右近なので、当然の如く音羽屋型。右近は初演時に音羽屋の教えを受けたと云う。六代目から二代目松緑を経由して、七代目に伝わり、六代目の曾孫にあたる右近に受け継がれた、正に王道の系譜である。
音羽屋型なので、法眼の戻りから始まる。舞台に廻って法眼が妻飛鳥の心情を試すやり取りがある。橘三郎・歌女之丞共丸本らしい古格な芝居で、やはりこの場があると狂言の背景に厚みが出る。今回澤瀉屋型と音羽屋型を見比べてみて改めて感じたが、狂言の主題に違いはないものの、よりエンターテインメント性に比重を置いた澤瀉屋型と、丸本らしさを重視する音羽屋型の違いは実に鮮明であった。筆者的には、義太夫狂言の骨格がしっかり感じられる音羽屋型の方が好みではあるが。
右近は忠信の時も源九郎狐になっても、所作にこってりとした味わいがあり、これぞ丸本と云う芝居を見せてくれている。團子の源九郎狐は、親を思う気持ちが奔流の様溢れ出る熱い芝居であったが、右近は少し違う。狐詞や狐手も技術的に團子より習熟したものであったが、それに加えて源九郎狐の親への思いをきっちりと丸本の枠内に収め乍ら、それでいてその熱い気持ちはしっかりと客席にも届いて来る。これは現代青年らしからぬと云っては失礼かもしれないが、大変な技量である。勿論音羽屋が見せてくれていた様な深みのある義太夫味はまだない。しかしこの優はまだ若い乍ら、丸本と云うものをしっかり理解していると思わせる、古風な味わいがあるのだ。これは先行きが実に楽しみだ。
六郎と次郎に今月知盛を演じた巳之助と隼人を配し、右近と三人並んだ姿は実に贅沢な気分にさせてくれる。米吉の静御前も白拍子らしい艶と、狐の心情を思いやる情味深さをしっかりと感じさせる立派な出来。上記の通り橘三郎と歌女之丞も、丸本らしい芝居を見せてくれており、高砂屋はAプロ同様傑作としか云い様がない。若手中心の舞台ではあったが、義太夫狂言らしいずっしりとした手応えを感じられる、実に見事な「四の切」であったと思う。最後になったが、竹本の葵太夫がいつも乍ら実に見事な語りで、Aプロの團子・Bプロの右近を引っ張り上げるかの様な、名人芸とも云うべき絶品の竹本であった事を付言しておきたい。今月の残るBプロ一部の感想は、また別項にて。
歌舞伎座Bプロ二部を観劇。松嶋屋出演とあって、チケット売り切れの看板が出ていた。先頃その松嶋屋の文化勲章受章が発表された。歌舞伎役者としては十一人目だと云う。戦前は役者が文化勲章など考えられなかったが、戦後になり六代目が死後に追贈されて以降、全て故人だが先代吉右衛門・六代目歌右衛門・先代勘三郎・先代白鸚・二代目松緑・先代雀右衛門・四代目藤十郎が受賞している。松嶋屋の受賞は当然だが、目出度い限りである。現役の歌舞伎役者としては音羽屋・高麗屋に続く三人目。世間的には人間国宝の方が知名度が高い様だが、その格式・重みはまるで違う。歌舞伎役者で人間国宝に認定された人は故人を含めて二十五人いるのに対し、文化勲章は上記の通り十一人。その重みは推して知るべしであろう。松嶋屋、本当におめでとうございます。
幕開きは「木の実」「小金吾討死」。Bプロの配役は松嶋屋の権太、門之助の若葉の内侍、孝太郎の小せん、左近の小金吾、夏幹の善太、歌六の弥左衛門。Aプロとは全ての役を異なった役者が演じている。中では孝太郎・左近・夏幹が初役との事。今回のこの二部は音羽屋型と松嶋屋型の違いが楽しめるが、この場は両方にさしたる違いはない。松緑は木の実を落とす石を投げる時花道迄行って投げるが、松嶋屋は舞台下手から投げるくらいの違いである。
松嶋屋の権太は十八番中の十八番である。この場も何度も演じているので、完全に手の内のもの。舞台上手からの出も、傘寿を超えたこの大名題が実に軽さを出した出で、最初に下手に出る態度も愛嬌があり、世慣れない小金吾達があっさりと罠に嵌まってしまうのも頷ける見事な芝居。自分の金がなくなっていると云って難癖をつけ、小金吾に何万両あっても手などつけんと云われた時の「やかましぃやい」と居直る科白が先の態度から一転してドスの効いた迫力。目つきもガラっと変わっており、松嶋屋の芝居の上手さが光っている。そして子供の善太が戻って来て、家に帰ろうと甘えた時に再転して何とも優しい顔をする。松緑も上手かったが、当然の事乍ら松嶋屋も抜群の上手さであった。
続く「小金吾討死」。ここは新吾も良かったが、左近も年齢的によりリアルな前髪役なので、こちらも結構な出来。立ち回りは小柄な左近なので新吾程の迫力はないものの、舞踊藤間流の惣領らしい形の良さとキレのある所作で、見応えたっぷり。この役柄はベテランになってから演じるものではないので、新吾にしても左近にしても、また近い内に再演して貰いたい。最後に出て来た歌六の弥左衛門が、討ち取られた小金吾の首を片手合掌しながら落として幕となる。
そしていよいよ「すし屋」。このBプロの配役は権太・内侍・善太・小せん・弥左衛門は前幕と同じ。萬壽の弥助実は維盛、米吉のお里、梅花のお米、陽喜の六代の君、芝翫の景時。この中で萬壽のみはAプロと同じ配役。孝太郎と獅童の愛息陽喜・夏幹以外は皆経験のある役である。松嶋屋・萬壽・歌六・芝翫と揃って、これはこの場に関する限り、それぞれ当代最高の配役と云えるのではないだろうか。
この場は音羽屋型と松嶋屋型では結構な違いがある。権太が花道から出て来る音羽屋型に対し、松嶋屋型は舞台下手からの出。戸口で人相書きと弥助の顔を見比べるところも、音羽屋型にはあるが、松嶋屋型にはない。お米とのやり取りでも細かな違いがあるが、後段の女房と子供を内侍・六代と偽って連れて来るところも、「ツラ上げろぃ」と云って足で二人の顔を上げさせる音羽屋型と手で上げさせる松嶋屋型。景時からの褒美の陣羽織も、袖を通していない羽織を渡す音羽屋型に対し、景時が羽織っていた陣羽織を下げ渡す松嶋屋型。それをそのまま権太が羽織るのも、音羽屋型にはない松嶋屋の形である。
上記の様な違いをじっくり堪能出来たのが、今月最大の見ものであった。松緑も本当に見事な出来であったが、松嶋屋は芝居の上手さに加えて何とも言えない艶があり、悪の華とも云うべき華やかさがある。科白廻しの義太夫味も、より深い味わいがありやはり当代無双と呼べるもの。女房・子供を身替りに出し、それを見送って涙をぐっと堪えた後に笑顔を作り、父弥左衛門にその真相を伝えようとしたところでいきなり刺されてしまうのも松嶋屋型。この演出が、戻りの告白の哀れを一層際立たせる効果を出している。本当は父に褒めて貰おうと思っていた権太の気持ちが、今わの際の権太の告白にこもっており、その悲劇性をより劇的なものとしているのだ。
刺された権太の戻りの場は音楽が竹本から黒御簾に替り、ここは松緑が絞り出す様なリアルな芝居で魅せてくれていたが、松嶋屋はリアルさよりも義太夫味が前面に出てきていて、丸本らしい科白廻しで流石の技巧。傘寿を超えているとはとても思えない若々しい描線で、若い権太を演じても全く違和感がない。本当に素晴らしい松嶋屋いがみの権太であった。その他の役では、芝翫の景時が、丸本に相応しい義太夫味たっぷりの科白廻しと、太々しい描線で当代の景時。この優にはもっと大きな役を与えて貰いたいものだ。権太も立派に演じでくれるであろうと思う。
米吉のお里は生娘ではない艶があり、この優らしい愛嬌も備えた見事なお里。そろそろこう云う役柄は卒業する時期に差し掛かって来ているのかもしれない米吉だが、立派な出来であったと思う。歌六・梅花の弥左衛門夫婦もしっかりとした義太夫味と、いがみな息子に対する満腔たる愛情を滲ませた素晴らしい芝居。門之助の内侍も、こってりとした味わいとこの役に相応しい位取りを併せ持った丸本らしい造形で、これまた見事。松嶋屋を筆頭に各役揃って、正に当代の「すし屋」とも云うべき絶品の芝居であった。
歌舞伎座Aプロの最後、第二部を観劇。ここのところ大入り満員が続いている歌舞伎座であったが、筆者が観劇した日の二部は平日であったと云う事情もあるのか大入りと迄はいかず、九分通りの入りと云った感じであったろうか。筆者的には今月の公演の中で、この部が一番の楽しみであったのだが。どうも世間一般の好みと筆者の好みとは、乖離がある様だ(苦笑)。とは云え以前を考えればかなりの入りと云えるのではないかとは思うが。
幕開きは「木の実」と「小金吾討死」。松嶋屋が権太を演じる際には必ず付ける場ではあるものの、他の役者ではあまり出ない場である。三年前に国立で八代目菊五郎が演じた様だが、その時筆者は事情で観劇出来なかった。松嶋屋以外で筆者がこの場を観たのは高麗屋しかいない。しかし「すし屋」をより深く理解するには、絶対に出した方が良い場であると思う。今回の配役は松緑の権太、種之助の小せん、新吾の小金吾、秀乃介の善太郎、魁春の若葉の内侍、秀乃助の六代君、橘太郎の弥左衛門。松緑もこの場は初役で、他の役者も皆初役の様である。今月は大名題の初役が多いが、この場でも魁春の若葉の内侍が初役とは驚く。中で新吾は音羽屋の教えを受けたと云う。
この場は初役と云う松緑の権太は、ここでもやはり見事な芝居を見せてくれている。善人めいた出から、小金吾の荷物と自分の荷物とをわざ間違えて持ち去り、一見正直者を装い間違いを詫びて手荷物を返す。そこから一転自分の荷物の中にあった金がなくなっていると難癖をつけるところの小悪党ぶりは、この優独特の愛嬌と相まって、思わずニヤリとさせられる。上手く金をせしめて内侍親子と小金吾を追い払ったところに女房小せんと善太が戻る。女房が家に帰ろうと云っても取り合わないが、倅の善太に甘えられると相好を崩して父親の顔になる辺りも実に上手い。倅と賽子を使って戯れるところも稚気に溢れ、子に甘い普通の父親の顔を見せる。ここがあるから、後段の「すし屋」の悲劇が際立ってくる。やはりこの場は出さなければないない場だと思う。
舞台が一転して、捕り手に追われる新吾の小金吾。本来女形が持ち味の新吾だが、長身を生かした実にすっきりとした前髪ぶりで、こう云う立役でも適性を見せてくれている。縄を上手く使った捕り手との立ち回りでもその長身が映え、見応え充分。これは意外と云っては失礼だが、掘り出しものであった。魁春の若葉の内侍は初役とは云え、こう云う高貴な役は手の内のもの。清盛の嫡孫で、当時「容顔美麗、尤も歎美するに足る」と謳われた三位中将維盛の北の方らしい品格が居ながらに顕れており、流石の芸であった。
休憩を挟んで「すし屋」。今回はAプロが音羽屋型、Bプロが松嶋屋型と二つの違った「すし屋」が観れると云うのも嬉しい。配役は権太・内侍・六代君・善太・小せん・弥左衛門は前幕と同様。萬壽の弥助実は維盛、左近のお里、齋入のおくら、又五郎の景時。中では左近と橘太郎が初役で、左近は萬壽の教えを受けたと云う。当然種之助と魁春も初役なので、松緑・齋入・萬壽・又五郎以外は初役ばかりと云う事になる。最近は本当に初役の上演が多くなっている印象だ。
先月松王丸を立派に演じ切り、時代物に対する見事な適応力を見せてくれた松緑が、今月は世話物の大役に挑んだ。結果として素晴らしい権太で、この優は時代物世話物何でもござれの力量を確実に身につけて来ていると実感させられた。王道の音羽屋型の権太で、出の小悪党ぶりも実に小気味良く、一転母おくらに甘えるところは愛嬌溢れる芝居で、見物衆にもよく受けていた。身のこなし・所作が実にキッパリとして江戸前で鯔背。幼少時から世話物の劇団で鍛えられてきただけの事はある。松緑のライバルである八代目菊五郎はどんな役をやらせても気品漂うが、松緑の権太は如何にも小市民と云った風情で、ニンとしては松緑の方が適っているであろう。
自分の女房と倅を身替りに立てての首実検の場では、褒美に何が欲しいのだと聞かれて「あっしはやはり金がようござんす」と云う当りの科白廻しも、如何にも金に目がないと云った性根がよく出ていて秀逸。花道と本舞台とに別れて女房・子供が曳かれて行くのを見送る時の表情が、底割れにならない程度に哀しみに曇るあたりも上手い。黒御簾音楽が奏される中、真実を知らない父弥左衛門に刺されての戻りの述懐は、リアルな芝居が涙を誘う。随所に松緑の世話の上手さが光り、名品と云える権太であった。
その他の役では、やはり萬壽の弥助実は維盛が何度も演じて自家薬籠中の物。この優の立役では、「新三」の忠七と双璧であろう。左近初役のお里は、娘役ではあるが生娘ではないので、やや艶に欠けていた印象。同じく初役の橘太郎弥左衛門は、義太夫味は薄いが、主人を裏切った倅を刺し殺す手強さと、真実を知った後の嘆きの深さをきっちり演じていて、改めてこの優の実力の高さを見せられた思い。魁春・齋入・又五郎と手練れが揃って、傑作とも云うべき見事な「すし屋」であったと思う。
現在上演中のBプロの狂言に関しては、観劇の後また改めて綴る事としたい。
続いて歌舞伎座Aプロ第一部を観劇。相変わらず満員の盛況。この状態がいつまでも続いて欲しいものである。本当にコロナの期間はガラガラで、歌舞伎の未来をかなり悲観的に考えたりしたのが、嘘の様である。今月は主要な役どころを思い切って若手花形に振っている印象だが、中でもこの一部は若手中心の座組である。中堅~ベテラン中心であった「仮名手本」や「菅原」とは対照的である。若手に大舞台で大役を経験させる事は将来の歌舞伎界にとって必要であると思うので、筆者的には大賛成である。ただその成果に関しては、全てが大成功と呼べるものではないかもしれないが。
幕開きは「鳥居前」。原作では二段目に当たるが、義経主従の都落ちが描かれ、物語の発端となる場である。歌舞伎座でかかるのは九年ぶりの様だが、筆者的には、去年明治座で愛之助の忠信以下のメンバーで観て以来。今回の配役は團子の忠信実は源九郎狐、笑也の静御前、桂三・男寅・玉太郎・吉之丞の四天王、青虎の鷹六、橋之助の弁慶、巳之助の義経。四天王に関しては不明だが、笑也以外の役どころは皆初役の様である。特に團子は荒事自体が初役だと云う。中では桂三の元気な舞台姿を久々に観る事が出来たのが嬉しい。
上記の通り荒事が初役の團子であるが、現状ではニンではない。「四の切」の忠信とこの場の忠信とは、同じ役であって同じ役ではない。気持ち的には繋がりを意識して演じるかもしれないが、全く違う芝居となる。その点でやはり團子の荒事はスッキリとし過ぎており、描線が細く力感も不足気味である。先月の「車引」の染五郎もそうであったが、若手にとって荒事と云うのは中々ハードルが高いのかもしれない。これは回を重ねるしかないと思うが、染五郎は兎も角、團子にとって荒事は必須科目ではないのではないだろうか。これは役者として今後どう云う方向性を志向するかと云う問題なので、考える余地があるとは思う。
各役の中で群を抜いていたのは、やはり笑也の静御前。とうに還暦を過ぎている(失礼)優だが、その舞台姿は若手花形に交じっても、何の違和感もない。これだけでも流石と云うしかない芸だが、丸本らしい所作と科白廻しは、培った芸歴が伊達ではない事を雄弁に物語る。静御前は白拍子なので、赤姫姿であっても只のお姫様ではない。その性根がしっかり表現されているところは流石笑也。芸に厳しかった亡き猿翁の薫陶を受けただけの事はあると、思わせてくれる。次いで巳之助の義経が張りのある声で実に結構な科白廻しを聴かせてくれており、見事な位取りと相まって初役らしからぬ立派な義経であったと思う。
続いて「渡海屋」と「大物浦」。能楽なども下敷きとした実に壮大な歌舞伎劇である。世話場と時代場が綯い交ぜとなっており、生半では務まらない至難の場であろう。筋書で巳之助が「知盛は立役にとって一つの目標である大きな役」と語っている様に、この場の知盛は大役中の大役である。歴史的にも初代・当代の白鸚、二代目松緑、二代目猿翁、先代團十郎、二代目吉右衛門、当代仁左衛門と、代々時のトップの立役が演じてきた役どころである。今回Aプロの配役は隼人の銀平実は知盛、義経主従は「鳥居前」と同じ、松緑の丹蔵、坂東亀蔵の五郎、孝太郎のお柳実は典侍の局、そして巳之助の愛息緒兜君が、お安実は安徳帝を初お目見えで勤めている。隼人は当然の様に初役で、松嶋屋の教えを受けたと云う。加えて松緑と亀蔵も初役らしい。
隼人の銀平実は知盛は、松嶋屋の教えをうけたとあって、科白廻しの端々に松嶋屋の口跡が感じられる。この二人はニン的にも共通するところがあるので、芸の師匠として松嶋屋の薫陶を受けていると云うのはとても良い事であると思う。「渡海屋」に於ける銀平は、そのスッキリとした出から松嶋屋を彷彿とさせる。顔良し声良しの隼人なので、舞台に廻って丹蔵・五郎とのやり取りも、実に鯔背で気持ちの良い銀平。義経主従を送り出した後に白糸縅の鎧姿で現れる姿も、例えば播磨屋や高麗屋の様な大きさよりも、キリっと引き締まった美しさを感じさせるところが如何にも松嶋屋マナーである。
「大物浦」に於ける隼人知盛も、喉の渇きを癒す為に身体に突き刺さった矢を抜いて舐める松嶋屋型を忠実に演じている。初演なので隼人独自の工夫などを入れてはいないが、兎に角松嶋屋の教えをきっちり守っている。その分松嶋屋をそのままスケールダウンさせた印象になってしまうのは否めないが、初役としてはこれで充分であろう。安徳帝を守護し、打倒義経に命を懸ける知盛のその執念が、気迫満点の舞台姿に充満している。「三悪道」の科白廻しもしっかりしており、ここまで出来れば初役としては充分ではないだろうか。全体的に義太夫味よりは形の良さが前面に出て来る知盛ではあるが、碇と共に入水するラスト迄、隼人手一杯の力演であったと思う。
他の役では、孝太郎のお柳実は典侍の局が絶品とも云うべき出来。「渡海屋」に於ける世話女房の雰囲気が実に良い。この優は基本的に世話物に味がある優だとは思うが、その良さがこの場でも発揮されている。義経を前にした「日和見自慢」の長科白も、絶妙な抑揚を伴った見事なもの。素晴らしい世話女房ぶりである。そこから一転「大物浦」渡海屋奥座敷での安徳帝を守護する姿は、帝の乳母らしい位取りと、事破れて入水の覚悟を帝に促す凛とした強さをしっかりと表現しており、無類の出来。局達が次々入水し、そこに知盛を破った義経の家来達が踏み込んで来る。典侍の局が帝を抱き上げて、辺りを払うかの様な裂ぱくの気迫を持って云う「いかに八大竜王、恒河の鱗屑、君の行幸なるぞ」の科白廻しは、正に絶唱とも祈りとも云うべき素晴らしさ。最後帝が義経に守護されるのを見届けての自刃迄、些かも間然とするところのない、傑作とも云うべき孝太郎典侍の局であった。
松緑と亀蔵のコンビによる丹蔵と五郎も見事な出来。「渡海屋」に於ける世話の面白味も、ニンの面白さと云うよりも芸で見せる芝居。「大物浦」に於けるご注進は一転、亀蔵五郎はキリっと締まった見事な武士の姿を見せ、松緑は手負い乍らも局に覚悟を促す強さと哀切を感じさせる。芸達者の二人なので、初役などモノともしなかったと云う印象。そしてこちらも初役橋之助の弁慶も、親父さん譲りの古風な役者顔を生かした描線の太さで、立派な弁慶。最後独りで花道を引っ込みこの大芝居の幕を閉める大役を、しっかり勤めていた。これだけ初役の多い座組で、この難しい狂言をここまで出来れば文句なし。実に立派な「渡海屋」と「大物浦」であったと思う。最後になったが、東太夫の竹本も素晴らしく、狂言をしっかり支える見事なものであった。
十月歌舞伎を観劇。今月は月の前半がAプロ、後半がBプロと云う構成。今までの通し狂言シリーズに比べ、若手に振った印象。まずは三部を観た。相変わらず開場前には長蛇の列。チケット完売の看板も出ていた。若い乍ら團子、一枚看板になったのであろうか。出し物が澤瀉屋の家の芸「四の切」と云う事も、預かって大きいのであろうけれど。これに休業中の猿之助が還って来てくれれば、万々歳なのだが。
まずは「吉野山」。清元と竹本による舞踊で、ここは単独で何度もかかる場である。総じて『義経千本桜』の今回上演される場は、三大狂言の『仮名手本忠臣蔵』や『菅原伝授手習鑑』に比べ、単独での上演頻度が高い様に思われる。それだけ人気狂言と云う事なのであろう。Aプロの配役は團子の忠信実は源九郎狐、猿弥の藤太、新吾の静御前。中で團子と新吾は初役との事。團子はこれからも生涯をかけて演じて行く狂言となろう。その初演を観劇出来るのは、芝居好きにとって仕合せな事である。
しかし出来しては初役と云う事もあり、万全とは行かなかった様だ。若い團子であるから、身体はよく動く。それは観ていて小気味よいくらいである。しかしその分この役に必要なコクがない。「千本桜」は丸本であるので、清元が入ってはいてもやはり義太夫狂言らしいたっぷりとした味わいが欲しい。それは新吾にも云え、二人ともさらさらと進めるので、丸本の舞踊らしさに欠けているのだ。上背のある團子なので、史上最も高身長の女形新吾とのバランスは良い。二人並んだところの姿は実に美しい。しかしやはり丸本としてはさっぱりし過ぎている印象であった。その点初演時に段四郎に教えを受けたと云う猿弥の藤太は、如何にも半道敵らしい軽さと、丸本らしいこってり感が同居としている見事な出来で、狂言を盛り立てていた。
続いて「川連法眼館の場」通称「四の切」。こちらも頻繁に単独で上演される人気の場である。配役は忠信実は源九郎狐と静御前は「吉野山」と同じ團子と新吾、青虎の六郎、次郎の市川右近、寿猿の法眼、東蔵の飛鳥、高砂屋の義経。高砂屋と寿猿、新吾以外は全員初役。新吾も澤瀉屋型は初めてらしい。まさか東蔵の飛鳥が初役とは驚いた。寿猿九十五歳・東蔵八十七歳、おそらく歌舞伎史上最高齢の夫婦役であろう。これだけでも、歴史的な舞台である。二人共いつまでも元気で舞台を勤めて貰いたいと、心から願っている。
こちらの團子であるが、技術的にはやはりまだまだである。最初の忠信はすっきりとしていい姿だが、偽忠信の来着を聞いての刀の下げ尾を解いて偽物を捕縛せんとするところ、気組みが足りない。源九郎狐の狐詞も唐突感があり、團子が必死に作っているのがはっきり感じられてしまう。狐手の所作もやはり丸本のこってり感はなくあっさりしている。しかしこちらの場は名演であったのだ。それは親を思う狐の心情が、舞台一面に広がるかの様な熱さに溢れていたからである。「吉野山」は舞踊なので、気持ちだけでは何ともならなかったが、この「四の切」は違う。
この場の團子の源九郎狐は兎に角熱い。静御前に問い詰められての「私はあの鼓の、子でございます」と云う涙乍らの告白といい、初音の鼓を下賜された時の大いなる歓喜といい、團子のこの狂言、この役に対する思いが溢んばかりで、見応え充分。荒法師達との立ち回りも、若々しい所作で実に清々しい。最後の宙乗りによる引っ込みもチャーミングで、源九郎狐の喜びが客席に降って来る様だ。澤瀉屋型の良さが存分に感じられる素晴らしい宙乗りであったと思う。この後回を重ねて、当り役として更に練り上げて行って貰いたい。
その他高砂屋の義経は正に本役で、その位取り、その気品、そして若大将らしい気短なところを感じさせるところなぞも実に見事で、これぞ当代の義経。新吾の静御前も、源九郎狐を問い詰めるきっぱりとしたところから一転、親を思う狐の気持ちにうたれて涙ぐむところなど女性らしい情愛の深さを感じさせる結構な出来。見物衆も大いに盛り上がっており、熱演の團子を出演役者がしっかり盛り立ていて、熱気溢れる素晴らしい出来の「四の切」であったと思う。残るAプロの一部・二部の感想は、また別項にて綴る事としたい。