fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

團菊祭五月大歌舞伎 第二部 海老蔵の『暫』、音羽屋三代の『土蜘』

歌舞伎座二部を観劇。今年初めて海老蔵歌舞伎座に登場するとあって、ほぼ満席状態。巷間色々云われている海老蔵だが、その集客力はやはり梨園の内に並ぶ者がない。今回は團菊祭とあって、同じ部で歌舞伎十八番と新古演劇十種が激突すると云う狂言立て。松竹も中々やるものである。これでお客が入らない訳がない。客席の熱気に応えるこの様な、熱い舞台だった。

 

幕開きは歌舞伎十八番『暫』。配役は海老蔵の権五郎、又五郎の震斎、孝太郎の照葉、男女蔵の成田五郎、右團次の太郎、九團次の左衛門、吉之丞の八郎、市蔵の埴生五郎、齊入の常盤木、家橘の蔵人、児太郎の桂の前、友右衛門の茶後見、錦之助の次郎、左團次の武衡。梨園総出で市川宗家成田屋歌舞伎座への帰還を、寿いでいるかの様な座組である。

 

歌舞伎十八番の中でも、ことにこの鎌倉権五郎は海老蔵のニンである。以前にも触れたが、亡き三津五郎が「荒事の禁物は上手いです。上手い荒事はダメですね。むしろ下手な方がいい」と云う趣旨の発言をしていた。同じ歌舞伎十八番勧進帳』の弁慶などとは違い、肚のいる芝居ではない。寧ろ三津五郎の言に従えは、肚などは持ってはいけない役どころ。その点海老蔵はこざかしいテクニックなど一切使わず、ニンと勢いと天性の愛嬌で押し切っており、実に気持ちの良い権五郎。

 

「しばらぁぁぁくぅ」の声と共に花道を出て来て「久しぶりの歌舞伎座」、「オリンピックの開会式以来、一年ぶりのこの拵え」などと入れ事をして、客席を大いに沸かす。その大きさ、力感、これぞ荒事、これぞ権五郎である。歌舞伎十八番と云っても今は成田屋の占有物ではなくなっているが、この狂言だけはここ三十年近く成田屋親子以外に演じた役者はいない。この権五郎にハマるニンを持って生まれた海老蔵市川宗家の後継者であった事は、歌舞伎界にとって慶事であったと云っていい。容貌はお母さん似と思える勸玄君が、この権五郎にハマる役者になってくれる事を、願ってやまない。

 

だが久しぶりに観た海老蔵が、段々歌舞伎座の座頭たるに相応しい大家の風格と幅を備えつつあるのを実感する一方で、以前にあった破天荒で無鉄砲な迄の荒々しさが徐々に薄まってきている様に思えた。荒事と云う芸は、基本的に役者の円熟と云うものを受け付けない芝居である事は、先の三津五郎の発言でもわかる。これからの海老蔵がどう荒事と向き合って行くのか、興味深く見守りたい。脇では又五郎と孝太郎は流石年季の入った芸。腹出しの男女蔵・右團次・九團次・吉之丞・市蔵も、愛嬌・力感申し分なし。ただ武衡を勤めた左團次が声に以前の様な張りがなく、少し元気がない様に思えた。齢八十を過ぎた高島屋、健康には充分留意して貰いたい。

 

打ち出しは『土蜘』。新古演劇十種の内で、云わずと知れた音羽屋家の芸。菊之助の智籌実は土蜘の精、時蔵の胡蝶、梅枝の榊、又五郎歌昇・種之助・男寅の四天王、錦之助権十郎・萬太郎の番卒、丑之助の音若、菊五郎の頼光と云う配役。歌舞伎座では初めて演じると云う菊之助の土蜘が注目だが、この音羽屋家の芸を何故不惑を超える迄劇団の御曹司が勤めなかったか、それが何となく分る芝居だった。

 

菊之助の智籌はその容姿の美しさ、その科白廻しの上手さ、舞踊の名手らしい所作の見事なところ、まず文句のつけ様のないものだ。父である菊五郎との明王問答もイキが合い、実に聞かせる。しかし土蜘の精が化けている智籌のおどろおどろした部分が出せていない。これはあからさまにすると底割れになるので難しいところだとは思うが。菊之助は余りに美し過ぎ、所作が典雅であるせいか、化生の物らしい不気味なところが感じられないのだ。音羽屋の御曹司としての溢れんばかりの気品が邪魔をしているのかもしれない。ここはこれからの課題だと思う。

 

対する菊五郎の頼光は流石の出来。病を得ている憂い、武士らしい気品と太刀を構えたところのきっぱりとした美しさ、当代並ぶ者はないだろう。夜が更けて扇子を少しく傾けて目を閉じ休んでいるところの形の良さは、何の芝居もしていない様でいて、ぐっと引き付けられる。今回のこの狂言では、この菊五郎が第一の出来であった。次いで時蔵の胡蝶がまた上手い。都の紅葉を物語る踊りは少しも派手な動きはないのだが、美しい紅葉が面前に現れるかの様。艶やかな芸者や、仇な女伊達が得意な時蔵だが、この胡蝶も見事な技巧。太刀持の丑之助も祖父と父を向こうに回して精一杯の出来。この子は声も良く、目が涼やかで流石音羽屋・播磨屋の最強DNAを受け継いだだけの事はあると思わせる。将来が実に楽しみだ。

 

劇団が三部の右近と二つに分かれて出演した形になったが、チームワークの良さは不変。菊之助に注文は付けたが、それも菊之助だから敢えてと云うもので、楽しめた狂言であった事は間違いない。歌舞伎界の中心である成田屋音羽屋。色々世間は喧しいが、両家手を携えてこれからの歌舞伎を大いに盛り上げて行って貰いたいものだ。

 

團菊祭五月大歌舞伎 第三部 梅玉・隼人・莟玉の『市原野のだんまり』、右近・巳之助の『弁天娘女男白浪』

皐月の歌舞伎座に團菊祭が三年ぶりに帰ってきた。憎んでも憎みきれないコロナの為に、ここ二年團菊祭と銘打った興行が行われなかった。少しずつ歌舞伎座に日常が戻ってきつつあるのを実感する。次はぜひ大向うを解禁して貰いたいものだ。と云うのも今月くらい大向うのない歌舞伎見物の侘しさを感じた事はなかったからだ。勿論、『弁天娘女男白浪』の事である。

 

幕開きは『市原野のだんまり』。「今昔物語」をもとにした常磐津の舞踊劇。先月の「時鳥花有里」に続き、梅玉が復活させた狂言だ。梅玉の保昌、隼人の保輔、莟玉の鬼童丸と云う配役。復活させたご当人であるだけに、先月の義経同様正にニンである。笛を吹きながら花道を出て来たところ、史実にある藤原氏の一族としての気品に溢れ、この出だけでぐっと狂言の世界に引き込まれる。

 

「今昔物語」にある挿話の、平井保昌を襲おうとした袴垂保輔がその人物に気圧されて襲い掛かれず、逆に家に招じ入れられて衣服を恵まれ、慌てて逃げかえったと云う話しに基づいたものだ。この狂言では保輔はしっかり襲い掛かるが(笑)。梅玉は先に記した様にニンにも叶い見事な芸。隼人もここに来て腕を上げてきており、形もキッバリしていて手一杯の出来。ただ莟玉は童形の役とは云え容姿が可憐過ぎて線が細い。ちょっと無理のある配役だったと云う印象だった。

 

打ち出しは『弁天娘女男白浪』。云わずと知れた五代目菊五郎に黙阿弥が当て書した、音羽屋家の芸。右近の弁天、巳之助の力丸、彦三郎の駄右衛門、隼人の利平、米吉の十三郎、橋之助の清次、橘太郎の与九郎、福之助の宗之助、亀三郎の長松、東蔵の幸兵衛と云う配役。去年五月公演で鮮やかなお嬢吉三を見せてくれた右近が、團菊祭で弁天小僧に挑んだ。劇団には梅枝と云う若手女形がいるが、兼ねる役者の右近を菊之助松緑に次ぐ存在と認識しているのだろうか。しかし若手花形中心の鮮烈な五人男だった。

 

ただ「浜松屋」はやはり難しいのだろう。去年のお嬢吉三の様には行かなかった。花道での巳之助の力丸とのやり取りはいい。二人共世話の科白廻しがしっかり出来ており、いかにも歌舞伎らしい雰囲気が横溢している。しかも右近は美貌なので、お嬢様と思ったのが、実は男でしかも泥棒だったと云う変り目がしっかり出せるのが大きな強み。視覚的には大いに見せる。しかし例の「知らざあ言ってきかせやしょう」からの長科白は、リズムが悪く、陶酔的に謡い切れていないから、聴いているこちらも居心地の悪さを感じてしまう。しかもここは手の置き位置や煙管の扱いなどが細かく決められており、その段取りを追うのに必死な感が見えてしまう。やはりここは今後習熟が必要だろう。

 

対する巳之助の力丸は非常な好演。武士を装っている時代がかった科白廻しが上手く、口跡もしっかりしていて、ここのところの長足の進歩を実感させてくれる。彦三郎の駄右衛門も堂に入っており、賊徒の棟梁としての貫禄がある。朗々と響く科白廻しはこの優の特徴であり、歌舞伎座の大舞台が揺れるかの様。この場ではこの二人が優れていた。勿論何度も勤めている橘太郎の与九郎、東蔵の幸兵衛は完全に持ち役で、熟練の技を披露してくれている。

 

大詰「稲瀬川勢揃いの場」は若手花形手一杯の出来で、実に気持ちが良い。花道に揃ったところ、舞台に廻っての名乗り科白、五人ともしっかり謡っており見事な出来。姿形も美しく、悪の華が舞台から溢れんばかりに咲き誇る。目も耳も楽しめるこれが歌舞伎の醍醐味だ。これぞ令和の歌舞伎だと云わんばかりの素晴らしい場となっていた。「浜松屋」には不満を云ったが、最後にこれを見せられてはそんな気持ちも吹っ飛んでしまう。気持ちよく歌舞伎座を後に出来た。

 

今月は一部に「金閣寺」、二部に『暫』・『土蜘』と凄い狂言が揃っている。團菊祭らしい華やかな舞台を期待したい。

 

 

團菊祭五月大歌舞伎(写真)

 

團菊祭、行って来ました。ポスターです。

 

金閣寺」のポスターです。

 

一部絵看板です。

 

同じく二部・三部。

 

久しぶりの團菊祭。やはり五月の歌舞伎座はこれでないと。何かと話題を振りまく海老蔵が、今年初めて歌舞伎座に登場。まだ二部は観ていませんが、楽しみです。

 

四月大歌舞伎 第三部 高麗屋親子の「荒川の佐吉」、梅玉・又五郎・成駒家兄弟の「時鳥花有里」

歌舞伎座第三部を観劇。入りは他の部より劣るが平日としては悪くはない、そこそこの入りと云った感じだろうか。しかしこの部を観ていない芝居好きは勿体ない事をしたものだと思う。白鸚がようやく今年初めて歌舞伎座に登場。『ラ・マンチャの男』ファイナル公演の為に正月公演にも出なかった高麗屋だが、その『ラ・マンチャの男』がコロナの為にほんの数公演を除いて中止となってしまった。その心中察するに余りある。チケットを押さえていた筆者にとっても、痛恨の極みであった。文字通り満を持しての感で、倅幸四郎と素晴らしい芝居を見せてくれた。

 

時代物を得意にしている真山青果としては珍しい股旅劇。配役は幸四郎の佐吉、右近の辰五郎、魁春のお新、孝太郎のお八重、亀鶴の徳兵衛、錦吾の仁兵衛、高麗蔵の清五郎、梅玉の郷右衛門、白鸚の政五郎。中で魁春・右近・亀鶴が初役の様だ。役者が揃って当代の、とも云うべき実に見事な出来の狂言となっていた。

 

幸四郎の佐吉がまずもって素晴らしい。当代佐吉と云えば松嶋屋だが、その松嶋屋直伝と云う幸四郎も負けていない。この芝居の大きなテーマの一つは、佐吉と云う人間の成長過程を追うと云う部分にある。序幕「岡もと家の前」の場に於ける佐吉は若造のいかにも三下と云った風情である。松嶋屋は何と云ってもあれほどの名人であるし貫禄もたっぷりなので、若造の作りはしていても、そこにある種の大きさの様なものが漂う。その点この場の幸四郎はニンにも叶い、線が細く貫禄の様なものは微塵も感じさせない。それが後段の人物が大きくなった佐吉と大きく異なり、成長物語としての骨格がよりしっかりと浮き出て来る。

 

佐吉は親分である仁兵衛の孫の卯之吉が、母お新の嫁ぎ先である丸総から目が見えない為に実家に戻されたのを引き取って育てる。家庭的なところなど全くなかった佐吉だが、懸命に卯之吉を育てていく。そして目の見えない卯之吉にかえって自分が励まされている事に気づき、とても敵わないと卑屈になっていた心を一擲して、親分の仇である郷右衛門を討つ。子役の子の芝居も上手く、この親子の心の交流が何とも云えず胸を打つ。卯之吉に出会う前の佐吉より明らかに人間的に成長して来ているのが判る。

 

この郷右衛門を討つ「秋葉権現の辺」の場で初めて白鸚の政五郎が登場する。筋書で白鸚がこの政五郎について「『鈴ヶ森』の幡随院長兵衛のよう」と語っていたが、正にその通りの登場シーン。駕籠を開けて姿を現した時の貫禄、これぞ政五郎、これぞ歌舞伎座の座頭である。この相模屋政五郎と云うのは実在の人物で、幕末土佐藩の隠居山内容堂の人物に心酔し、その手足となって働いた。容堂が死去した際には追腹を切ろうとし、危うく板垣退助に制止されたと云う。それ程の人物なので、佐吉などとは人間の格が違う。

 

その違いが次の「佐吉の家」の場で見事に生きる。すっかり貫禄が付いた佐吉の姿は、惚れ惚れする様な男ぶりだ。しかし政五郎がお新を伴って現れ、卯之吉を丸総に返す様に云われると、政五郎の貫禄の前で子供の様に感情を露わにし、「いやだ、いやだ」と号泣する佐吉。お新が自害しようしても、「当てつけがましい事をするな」とどやしつける。しかし政五郎に「オレが育てた、可愛いと云うのは、そこらの隠居が犬猫を可愛がるのと同じだ。荒川の、あの子は人間だよ」と諭される。ここの白鸚の情理備わった科白廻しは正に絶品の素晴らしさ。佐吉は崩れ落ち、辰五郎を呼んで卯之吉を丸総に連れて行けと告げる。「お父つぁんも後で来るの」と云う卯之吉を泣きながら抱きしめて「行くよぅ」と云う佐吉。辰五郎が「もう、たまらねぇ」と卯之吉を連れて場を去る。もうここで筆者の涙腺は決壊していた。芝居自体が良く書けているのは間違いないが、役者が本当に素晴らしい。客席のそこかしこからすすり泣きが聞こえていたのも当然だろう。

 

大詰「長命寺前の堤」の場で、桜散る中江戸に別れを告げて長い草鞋を履く佐吉。政五郎が道中の用心にと脇差を佐吉に渡す。「容堂公から拝領した脇差」と云う原作にない科白を付けたのは、容堂と政五郎のエピソードに基ずいた白鸚の入れ事。この脇差の重みと、それを餞に渡す政五郎の佐吉を惜しむ心情がより確かに伝わる。辰五郎に抱かれて現れた卯之吉との別れは、涙なしでは観れない。佐吉が花道にかかっての「やけに散りやがる、桜だなぁ」のイキも見事で、素晴らしい幕切れ。梅玉の郷右衛門はニンでない役を芸の力でカバーして好演。錦吾の仁兵衛、右近の辰五郎、魁春のお新、孝太郎のお八重、高麗蔵の清五郎と各役手揃いで、間然とするところのない、見事な「荒川の佐吉」となった。

 

打ち出しは「時鳥花有里」。梅玉義経鴈治郎の三郎、又五郎の輝吉、扇雀三芳野、壱太郎・米吉・種之助・虎之助の白拍子と云う配役。六年程前に復活上演された舞踊劇で筆者はその際も観劇したが、今回は白拍子の人数も増えて実に華やか。亡き三津五郎が生前に「日本舞踊の人より歌舞伎役者の踊りが面白いのは、メカニックな動きは大雑把でも、性根を掴んで踊っているからだ」と云う趣旨の発言をしていたが、梅玉鴈治郎の踊りが正にそれ。大した振りが付いている訳ではないが、義経らしい気品と哀愁、三郎らしい武張ったところが実に良く表現されている。

 

扇雀の踊りは流石の貫禄で、立女形の大きさを感じさせる佇まい。又五郎が面を用いての仕方話で、意外と云っては失礼だが器用なところを見せてくれる。目にも鮮やかな若手花形の踊りの中では、壱太郎が一頭地抜けた上手さ。流石は舞踊吾妻流家元の腕前を披露していた。三十分弱の出し物だが、実に華やかで楽しめた舞踊劇。これは今後も上演して行って欲しいと思う。

 

今月は三部とも充実していて、月別に見ると今年最高の粒ぞろいの狂言が揃った興行になっていたと思う。来月は三年ぶりの「團菊祭」。海老蔵が今年初めて歌舞伎座に登場するのが、今から楽しみだ。

四月大歌舞伎 第一部 松緑・猿之助・愛之助の『天一坊大岡政談』

歌舞伎座一部を観劇。大入りと迄は行かないが、入りはまず良好。観劇したのが平日の昼間だったとは云え、今を時めく花形三人が揃った座組なので、これ位は入らないと歌舞伎興行に明日はないだろう(笑)。そして芝居も実に素晴らしく、鮮烈な「大岡政談」であった。

 

配役は松緑の越前守、愛之助の伊賀亮、猿之助天一坊、坂東亀蔵の大助、歌昇の治右衛門、巳之助の久助、新悟のお霜、左近の忠右衛門、笑三郎のお三、笑也のおさみ、猿弥の大膳、青虎の左京、男女蔵の天忠、門之助の小沢。加えて現役最年長役者の寿猿が、甚右衛門で出番こそ短いがまだまだ元気なところを見せてくれていたのが嬉しかった。

 

四年程前に国立で梅玉の越前守、右團次の天一坊、弥十郎の伊賀亮で観たが、比較にならない面白さだった。その最大の原因は猿之助愛之助の上手さにある。松緑も勿論素晴らしい。しかし梅玉よりいいと迄は云わない。しかし猿之助愛之助のコンビは、前回の二人より格段に良い。序幕の二場は筋を通して大詰の伏線を張るだけの場なので、さのみ面白い事はない。中では「お三住居の場」の笑三郎のニンにない老け役お三がいい味を出している。猿之助も好人物として登場し、これは天一坊が後段怪物的な人物になるとは云え、根っからの悪人でない事を表している。

 

まず面白かったのは次の「常楽院本堂の場」だ。ここで天一坊が、自分を将軍家のご落胤と信じてついてきた大膳や左京に自分の正体を顕す。最初に「八代将軍吉宗の、ご落胤とオレが見ゆるか」と時代に張って、「実はオレは偽物だ」とグッと世話にくだける間が絶妙。ここは右團次も上手かったが、猿之助も流石の技巧だ。愛之助の伊賀亮が登場。天一坊が「オレが首を、取ってくだせぇ」と云い、伊賀亮の「何と」で始まる二人の掛け合いがまだ実にいい。今まで猿之助に黙阿弥のイメージはあまりなく、弁天小僧は観たが、抜群と云う程ではなかった。しかし今回は見事な黙阿弥節を味わわせてくれる。リズムと緩急のメリハリが上手く、これぞ黙阿弥調とも云うべき科白廻しだ。それを受けての愛之助もいい。武士の役なので時代調で、師である松嶋屋を彷彿とさせる。この二人のイキが絶妙で、この短い場を実に濃密なものにしている。

 

続く「広書院の場」は、全編のクライマックス。この場に於ける越前守と伊賀亮の高名な「網代問答」の見事さは、何に例えれば良いだろう。松緑愛之助と云う花形二人の実力が伯仲し、芸格が揃っているので、互角のぶつかり合いになり、実に見ごたえがあった。ことに「そもそも東叡山御門主は」に始まる伊賀亮の長台詞は、聴きごたえ充分。やはり松嶋屋を思わせるトーンがそこかしこに表れ、聴く者を陶然とさせる。やはり歌舞伎と云うのはキャッチボール。一人が抜け出ているより、同等の力量を持つ役者同士のぶつかり合いが面白味を倍加させるのだ。

 

網代問答」で越前守をやり込めたかに見えた伊賀亮だが、あまりにあっさり引き下がった越前守に割り切れぬものを感じており、それを花道の引っ込みでの思い入れで表現する愛之助の技巧も見事。それが大詰での伊賀亮夫婦の唐突な自刃に繋がっており、問答に勝っても最後は越前守に勝てぬと潔く諦めていた武士の伊賀亮と、最後迄抗った町人上がりの天一坊との気質の違いがはっきり表されており、劇作家としての黙阿弥の確かな力量を改めて感じる。

 

「大岡邸奥の間の場」は、何度観てもさのみ面白い場ではない。しかし小沢役の門之助が座している位置を僅かにずらしているだけで、親子三人が並んで切腹の場についていると云う舞台面の滑稽さを多少なりとも救っている。そして大詰の「奥殿の場」における松緑の名奉行ぶりは、科白廻しも明晰、極まった形も舞踊の名手らしい見事さで、初役とは思えない結構な出来。「いつも泥棒の役が回って来る」とぼやいていた松緑に越前守を振った松竹の目の確かさが実証された形。澤瀉屋を支える二大女形笑三郎・笑也を一場面にしか使わない贅沢な座組で、花形三人が芸を競い合った実に素晴らしい「大岡政談」だった。

 

今月残るは歌舞伎座第二部。『荒川の佐吉』は大好きな出し物なので、実に楽しみでならない。

 

四月大歌舞伎 第三部 松嶋屋・大和屋の『ぢいさんばあさん』、大和屋と成駒屋兄弟の『お祭り』

歌舞伎座第三部を観劇。まん防法はとけたが、感染者数は増えもしないが減りもしないと云うところで、またいつ次の波が押し寄せて来るか判らない状況が実に気掛りだ。この後GWもあり、またぞろまん防法が適用されるか、予断を許さない現状である。そんな中だが歌舞伎座に玉孝が揃うとあって、いい入りの三部。そして狂言の内容も期待に違わぬ素晴らしいものだった。

 

幕開きは『ぢいさんばあさん』。筆者的には明治の鴎外、大正の谷崎、昭和の三島が近代小説の三巨人だと考えている。三人とも作品が歌舞伎化されている(三島は歌舞伎化ではなく、歌舞伎作品を書いているのだが)のも共通項。その森鷗外の短編を「昭和の黙阿弥」宇野信夫が脚色した作品。去年菊之助勘九郎のコンビで観たばかりなのでまたかの感はあったのだが、これがまた見事な出来。松嶋屋の伊織、大和屋のるん、隼人の久右衛門、歌六の甚右衛門、橋之助の久弥、千之助のきく、伊織の友人、主悦・民之進・恵助・小兵衛に松之助、片岡亀蔵権十郎、秀調と手練れが揃った配役。まず当代この狂言でこれ以上の配役は望めないだろう。

 

しかし筆者は今回の狂言全体を正しく書く事が出来ない。と云うのも大詰の「伊織屋敷の場」が始まってからは泣き通しだったからだ(苦笑)。何度も観ている芝居だから筋が判っていて、それが頭にあるので幕が上がって橋之助の久弥と千之助のきくの揃った姿を見ただけでもうダメだった。またこの橋之助がいい若侍で、この時期の役者にしか出せない若々しさと清々しさで、いい役者になってきたと感じさせられた。去年辺りから大和屋に徹底的に鍛えられたものが出て来ているのだろう。いい役者ぶりだった。

 

松嶋屋と大和屋は共に古希を過ぎているのだが、序幕の若夫婦姿に何の違和感もない。ベテランの役者が若い役を勤めるのは歌舞伎ではままある事なのだが、それにしてもこの二人は異常だ。若い頃から踊りで鍛え上げられた身体のシルエットに、些かの弛緩もない。この線の若さがあるから、若夫婦の役にも違和感がないのだ。そして三十七年が過ぎて後の老夫婦は年齢通りの役なので、役柄としてはこちらが本役。「三十七年、長かったなぁ」の述懐にこもる厚みが、失礼乍ら去年観た勘九郎とは違う。

 

筋書で大和屋が「ことさら演じようと思わなくても、お互いすっと入れる役」と語っている様に実に自然でいて、彫の深い芝居になっている。離れている間にもお互いを想い続けた気持ちが舞台一杯に広がり、涙なしでは観られない狂言となっていた。脇では歌六の甚右衛門が、手強さがあり乍ら悪人ではなくただの嫌味なしつこい人間像をしっかり出していて、流石の出来。この甚右衛門がいいから、この狂言の持つ悲劇的な部分がより際立って来る。それが大詰の「甚右衛門の墓にも参ろう」と云う松嶋屋の科白に繋がっているのだ。隼人の久右衛門も含め、全員本役の見事な芝居だった。

 

打ち出しは『お祭り』。大和屋の芸者、福之助・歌之助の若い者と云う配役。去年七月に大阪で松嶋屋が演じた時と同様、大向うがない中での「待っていたとは有難い」はやはり肩透かし。もういい加減に大向うは解禁して貰いたいものだ。マスクをしているのならそれ程問題はないと思うのだが・・・。べらべらしゃべる訳ではないのだから。しかしさっき迄老婦人を演じていた同じ役者とは思えない美しい芸者ぶり。冒頭部分の仇っぽさ、惚気る時の艶っぽさ、見事なものだ。成駒屋兄弟は、大和屋について行くのが精いっぱいと云った感じだったが、前幕で流した涙が爽やかに乾く実にいい打ち出し狂言だった。

 

松嶋屋と大和屋の至芸を堪能出来た充実の第三部。残る部は観劇の後改めてまた綴りたい。一部・二部とも花形役者の芝居が実に楽しみだ。

 

四月大歌舞伎(写真)

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四月大歌舞伎を観劇しました。ポスターです。

 

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一部絵看板です。狂言は一つだけですが、看板は二枚あります。

 

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同じく二部・三部。三部は絵のタッチが違いますね。

 

寒い日が多かった四月ですが、ようやく春らしい陽気が戻ってきた中、観劇して来ました。感想はまた別項にて綴ります。