fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

壽 初春大歌舞伎 第一部 猿之助・愛之助・中村屋兄弟の『卯春歌舞伎草紙』、愛之助・芝翫・中村屋兄弟の『弁天娘女男白浪』

歌舞伎座一部を観劇。週末だったせいか三部より入りが良く、二階席に空席はあったものの、一階と三階はほぼ満席。やはり初春歌舞伎はこうでなければならない。そしてかかる狂言猿之助以下の花形と、壱太郎・染五郎といった若手花形がうち揃う舞踊劇と、弁天小僧の二題。実に正月らしい華やかな芝居が揃った。

 

幕開きは『卯春歌舞伎草紙』。名古屋山三と出雲の阿国恋物語に材を取った舞踊劇。猿之助の山三、七之助阿国、門之助の阿梅、壱太郎・男寅・千之助・玉太郎・笑也・笑三郎の女歌舞伎、廣太郎・福之助・虎之介・鷹之資・染五郎・鶴松の若衆、青虎の小兵衛、寿猿の寿右衛門、猿弥の庄左衛門、勘九郎の右源太、愛之助の左源太と云う配役。上演の度に躍り手の人数も役名も変わる自由度の高い狂言。今回は過去最多の人数で、正月に相応しい賑やかな舞踊となった。

 

内容としてはさしたるものではない。大勢の花形役者がうち揃って華やかな舞踊を見せると云うだけのもの。その中に現役最年長役者の寿猿がいるのが、異彩を放つ。最近毎月の様に元気な舞台姿が拝めて嬉しい限り。愛之助勘九郎は当然の事乍ら華があり、この中では流石の技巧でイキの合った舞踊を見せてくれている。七之助は今が盛りの美しさで、目の覚める様な役者ぶりだ。そして猿之助は最早座頭の貫禄たっぷり。五月には明治座で座頭公演もある。素晴らしい大立者ぶりを見せてくれるだろう。大勢の若手花形の中では、染五郎の美しさとスタイルの良さはひと際目立つ存在。また主演の芝居が観たいものだ。

 

打ち出しは『弁天娘女男白浪』。今年は黙阿弥没後百三十年と云う事で、各部に黙阿弥の作品が入っている。中でもこの二部は最高傑作の一つと云われる「弁天小僧」の上演。配役は愛之助の弁天、勘九郎の力丸、猿之助の利平、七之助の十三、歌之助の宗之助、松之助の与九郎、又五郎の清次、東蔵の幸兵衛、芝翫の駄右衛門。今を時めく花形四人に正に芸の絶頂期にさしかかったと思われる芝翫の五人男。正月公演を飾るに相応しい配役だ。

 

愛之助の弁天は兼ねる役者のこの優らしく娘の時の美しさから、弁天に替わるところが実に鮮やかで流石に見せる。この役はまだ十代だった五代目の菊五郎に当てて書かれたもの。年配の役者だと、初演時に黙阿弥が目論んだ娘らしい初々しさが難しい課題となってくる。しかしあまり経験のない若手役者が演じると、弁天になってからが技術的な難しさが山積で、これまた無理が出て来る。その点で愛之助はその両方を高いレベルで見せてくれる流石の出来。殊に弁天になってからの煙管を使い乍らの所作には段取り感も渋滞もなく、歌舞伎座で演じるのは初めてとの事だが、見事なもの。ただ弁天の長科白は、今一つ謡えておらず、聴いているこちらも乗れない。リアルと謡い調子の兼ね合いが難し科白だとは思うが、愛之助ならもう少し出来たのではないか。力量のある役者なので、敢えて苦言を呈する次第。

 

亡き三津五郎に教わったと云う勘九郎の力丸は、悪党の凄みと色気に加えて、この優天性の愛嬌が滲む見事なもの。十二年ぶりだと云うが、改めて勘九郎の確かな力量が見て取れた。そして何と云ってもこの「浜松屋」で素晴らしかったのは芝翫の駄右衛門。武士を偽装しているところの押し出しの立派さ、悪の頭領たる貫禄、何れも申し分なし。弁天が主役の狂言ではあるが、駄右衛門は座頭の役どころ。この座組にあっては力量・貫禄とも頭一つ抜けていると云うところをしっかり見せてくれていた。

 

最後「稲瀬川勢揃いの場」は各優の持ち味がしっかり出ていて、実に楽しめる場になっている。この場では愛之助の弁天を始めとした各優のツラネが素晴らしい。猿之助の利平は初役だと云うが、そんな事は微塵も感じさせない見事なもの。七之助の十三は先代芝翫に教わったと云う。そう云われると口跡の端々に先代の面影を感じさせる。愛之助勘九郎芝翫もこの場では見事な科白廻しと力感ある所作で、何れも間然とするところのない出来。大いに盛り上がって幕となった。

 

今月の残る二部は千秋楽の本日観劇予定。感想はまた改めて綴ります。

壽 初春大歌舞伎 第三部 幸四郎・七之助の「十六夜清心」

コロナが中々収束しない中、今年も無事歌舞伎座の幕が開いた。まずはめでたい限りである。團十郎襲名があり客足が戻ってきて欲しいところだろうが、筆者が観た日の三部は六分の入りといったところだったろうか。花形の中でも立役と女形のトップ役者である幸四郎七之助の共演ともなれば、もっと入って欲しいと思っていたが、残念な事だった。しかし芝居は素晴らしく、まだ今年始まったばかりだが、果たしてこの後これを超える狂言が観れるものだろうかと思わせる見事な出来であった。

 

三部はこの「十六夜清心」通しの一狂言のみ。配役は幸四郎の清心後に清吉、七之助十六夜後におさよ、壱太郎の求女、亀鶴の杢助実は塔十郎、錦吾の佐五兵衛後に西心、男女蔵の三次、高麗蔵のお藤、高砂屋の白蓮実は正兵衛。後にとか実はとかが多いのがこの狂言のキモになっていて、芝居自体も実に面白い狂言幸四郎七之助・壱太郎・高麗蔵・高砂屋は初役だと云う。序幕の稲瀬川の場はよくかかるが、二幕目以降が歌舞伎座でかかるのは二十年ぶりの様だ。筆者もこの場は初めて観たが、楽しく観劇させて貰った。流石黙阿弥作だけの事はある。

 

筆者は以前より、幸四郎七之助の組み合わせは令和の孝玉だと考えている。他を圧する美貌、舞踊で鍛え磨かれた美しい所作、気品溢れる佇まい、この二人の相性は抜群だと思う。二人が組んだ「吉田屋」の素晴らしさは、今でも筆者の網膜に強烈な印象で焼き付けられている。南北の『盟三五大切』も絶品だった。しかし七之助は兄勘九郎と組む事が多く、幸四郎との組み合わせは多くない。勘九郎とはほっておいても中村屋の巡業や平成中村座があるのだから、歌舞伎座ではぜひこの二人も組ませて貰いたいと思う。

 

序幕「稲瀬川百本杭の場」の出からして、二人の美しさは歌舞伎座の大舞台を圧するばかりだ。七之助は廓を足抜けして清心を探す心細さがしっかり表現されており、幸四郎は寺を追放されて人目を避ける境遇である事をしっかりとその所作で感じさせる。そして巡り合った二人の清元に乗った心中に至る二人芝居の素晴らしさを、どう表現したらいいのだろう。踊りの様で踊りではなく、しかしその所作の素にはしっかり舞踊があり、科白のやり取りも情味に溢れ、間然とするところがない。この場の美しい芝居があるからこそ、大詰の二人の居直りが生きて来る。実に見事な「稲瀬川」となっていた。

 

続く「川中白魚船の場」。高砂屋初役の白蓮。何と云っても亡き播磨屋の当り役。あの素晴らしさが記憶に生々しいので、その意味では損な役回りの高砂屋。この役は二枚目役者のニンではないと思う。播磨屋の白蓮は大きさと悪の凄みを漂わせ、最後の「悪かねぇなぁ」の科白に色気を感じさせる見事なものだった。高砂屋はその芸風からあっさりした味わいなので、播磨屋の様な手強さは出てこない。しかし俳諧師らしいある種の軽さがあって、これはこれで悪くない白蓮だ。

 

「百本杭川下の場」。この場の大半は清心と求女の二人芝居だ。孝太郎に指導を仰いだと云う壱太郎初役の求女がこれまた初役と思えない見事さ。女形の壱太郎だが、嫋やかな二枚目ぶりで、幸四郎の清心との渡り科白もイキの合ったところを聴かせてくれている。揉み合う内に求女を殺めてしまった清心。腹を切って死のうとするも死にきれないところは、幸四郎生来の愛嬌が出て見物衆を笑わせた後「しかし、待てよ」でがらっと悪への変心を見せる変り目が鮮やかで、見応えたっぷり。「一人殺すも千人殺すも、取られる馘はたった一つ」の黙阿弥調もたっぷり聴かせて、申し分のない出来だ。そして白蓮に伴われた十六夜とすれ違うも、互いに気づかずすれ違って行く。ここのだんまりがまた実にコクがあり、これ程見事なだんまりの場は近年ちょっとお目にかかれていないくらいのものだ。

 

二幕目「白蓮妾宅の場」。十六夜は元の名のおさよに戻って白蓮の囲われ者になっている。下男杢助の亀鶴が、引っ込みでちらっと捕手の本性を漂わせるのも大袈裟にならず上手い。この場はおさよの心根に打たれて姉妹の盃を交わすに至る高麗蔵のお藤が、世話の味を出していて結構な出来。そして美しい女形を尼にしてしまう黙阿弥の底意地悪い(?)趣向が芝居として実に面白い。亡き清心の回向をしたいと云うおさよの望みを受け入れ、餞別迄持たせて父西心と旅立たせる白蓮の高砂屋は流石に大きい。ここの感動的な場が情味に溢れているので、次の大詰が芝居として実に面白い場となる。

 

大詰「白蓮本宅の場」。前幕で涙ながらに旅立ったおさよが、剃りこぼった頭が少し伸びて散切頭の様になって出て来る。緑の黒髪→尼→散切と替わるおさよの姿が見た目にも面白く、流石作劇の神様黙阿弥といったところ。清心も元の清吉となって、悪の本性(小者ではあるが)丸出しで、まるで蝙蝠安の様な出で立ち。こちらも真に気持ちの良い変りっぷりだ。そして僅かな金でおさよを叩き出したと因縁をつけて白蓮とお藤を強請る。ここら辺りの展開も実に黙阿弥らしく、役者も揃って世話の味を醸し出しており、芝居のテンポも実に心地よく、これぞ令和の黙阿弥劇とも云うべき見事な出来だ。

 

白蓮が渡した金の封印から、かつて清心として勤めた寺から盗まれた祠堂金だと判明。盗んだ三千両を返せと迫る清吉に自分の素性を明かす高砂屋白蓮の黙阿弥調もこの優らしくサラリとして粘らず、心地よい名調子。この場の幸四郎清吉も素晴らしい黙阿弥調を聴かせてくれており、ここまで見事な黙阿弥調が頻出する芝居も近年記憶にない。いい役者の手にかかると、令和の御代でも黙阿弥劇が再現可能だと証明されたのは大収穫。結局白蓮と清吉は兄弟であった事が判明し、下男と思っていた杢助が盗賊詮議の捕り方大寺正兵衛であり、捕手が踏み込んで来たのをあしらいつつ、三人が舞台上に極まって幕となった。

 

些かご都合主義的ではあるがドラチックな展開に加え、各役揃って素晴らしい芝居を見せてくれた実に見事な「十六夜清心」。まだ席にゆとりはあるだろうから、未見の方にはぜひ、とお薦めしておきたい。新年早々傑作とも云うべき舞台を観れて、大満足の歌舞伎座第三部であった。

私が観た令和四年歌舞伎 極私的ベスト10

明けましておめでとうございます。気儘に綴って来たこのブログも、丸五年になりまた。今年もマイペースでゆる~く更新して行くつもりです。毎年恒例の極私的年間歌舞伎ペスト10を書いておきます。これこそまさに独断と偏見、自分の好み全開のセレクトになっております。鷹揚のご見物の程、お願い申し上げます。

 

まずベスト10の前に別格の公演を二つ。

 

十一月吉例顔見世大歌舞伎より『勧進帳

高麗屋襲名の時も別格扱いとした襲名公演。やはり特別なものなので、別枠にします。團十郎幸四郎猿之助と花形揃い踏みの『勧進帳』。これから何度でも観たい狂言です。またどこかの襲名公演で團十郎の弁慶を観たいと願っています。

 

十一月吉例顔見世大歌舞伎より『助六由縁江戸桜』

師走公演の方でも良いのですが、團十郎菊之助松緑とやはり花形が揃った十一月公演をセレクトしておきます。絶品とも云うべき素晴らしい助六でした。

 

ではまず第十位。

六月博多座大歌舞伎より『鷺娘』

いきなり舞踊ですが、菊之助の本公演初役の『鷺娘』。この世の者とは思えない美しさ、儚さ。夢の様な時間でした。歌舞伎座でも観たいものです。

 

続いて第九位

南座坂東玉三郎 特別公演より『東海道四谷怪談

大和屋は当然として、愛之助伊右衛門が素晴らしく九位にランクイン。今後の愛之助の持ち役になると確信しました。大和屋の力が愛之助の芸を引き出していたのだと思います。

 

第八位・七位・六位を続けて発表

 芸術祭十月大歌舞伎より『鬼揃紅葉狩』

南座吉例顔見世興行より「封印切」

御園座坂東玉三郎 特別公演より『本朝廿四孝』

令和の名コンビ幸四郎猿之助の昨年のベストは『鬼揃紅葉狩』。見事な舞踊劇でした。続いて南座顔見世の「封印切」。去年の鴈治郎のベスト。年末にいい芝居か観れました。そして大和屋の『本朝廿四孝』。昨年は大和屋の追っかけと化していましたが、ベストはこれ。見事な丸本狂言でした。橋之助の成長ぶりも著しかったですね。

 

そしてベスト5。

まず第五位

六月博多座大歌舞伎より『積恋雪関扉』

博多座公演から二つ目のランクイン。それだけ素晴らしい公演だったと云う事です。芝翫初役の関兵衛実は黒主。柄の大きさを生かした素晴らしいものでした。これも歌舞伎座で観たいものです。

 

そして第四位

團菊祭五月大歌舞伎より「金閣寺

團菊祭で京屋が出し物をすると云うのも珍しい気がしますが(名前のトップは松緑ではありましたが)、生半のもでは上演されないはず。その意味でやはり雀右衛門の雪姫は素晴らしいものだと業界でも認められていると云う事でしょうか。松緑の大膳もお見事でした。

 

そしていよいよベスト3。

芸術祭十月大歌舞伎より『盲長屋梅加賀鳶』

十月公演から二つ目のランイクン。芝翫初役の道玄、梅玉の松蔵、共に見事なものでした。しかし入りはお寒い限り。これを観ないのは芝居好きの恥だと思うのですが・・・筆者の好みと現代の嗜好がズレでいるのかもしれません。しかし見事な狂言でした。

 

続いて第二位

四月大歌舞伎より『荒川の佐吉』

高麗屋親子による『荒川の佐吉』。松嶋屋の当たり芸を見事に受け継いだ幸四郎白鸚の政五郎も貫禄たっぷり。忘れられない芝居となりました。これは今後幸四郎の当り役となって行くであろうと思っています。いや~泣かされました。

 

そして栄えある(?)令和四年の第一位。

二月大歌舞伎より「御浜御殿綱豊卿」

佐吉とどちらを一位にするか迷いましたが、人間国宝認定に敬意を表して高砂屋の綱豊卿にしました。松嶋屋とはまた違った味の見事な綱豊卿。松緑初役の助右衛門も力演でした。こちらもいつまでも忘れられない名狂言でした。

 

團十郎襲名と云う大きなイベントがあった令和四年の歌舞伎。素晴らしい狂言が幾つも観れました。今年は團十郎襲名ツアーを幾つか観るつもりでおります。今年もいい芝居が沢山観れます様に。

京都南座十二月 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎 第二部 成駒家兄弟の「封印切」、松嶋屋・獅童の『松浦の太鼓』

南座顔見世第二部を観劇。色々な舞台を観れた令和四年もこの顔見世で終了。満員の客席で、今まさに旬の鴈治郎扇雀兄弟の「封印切」と、円熟の極にある松嶋屋忠臣蔵外伝の名作『松浦の太鼓』を堪能。素晴らしい二本立てで、今年を締めくくるに相応しい名舞台であった。

 

幕開きは「封印切」。近松原作の上方和事の代表作。玩辞楼十二曲の内で、初代鴈治郎以来代々練り上げて来た成駒家の家の芸。鴈治郎の忠兵衛、愛之助の八右衛門、扇雀の梅川、寿治郎の由兵衛、片岡亀蔵の治右衛門、東蔵のおえんと云う配役。関西のもう一方の雄、松嶋屋型とは色々な違いがある成駒家型での上演だ。

 

鴈治郎は上方和事の正統的な後継者だが、数ある和事狂言の中でもこの忠兵衛が最もニンに適っていると思う。往こか戻ろか逡巡し乍らの出からして、いかにも上方和事の香りが漂い、藤十郎亡き後この味は当節非常に貴重だ。無論松嶋屋の和事は名人芸だが、その芸風から松嶋屋はもっとすっきりしている。水も滴る色男ぶりでは松嶋屋が上だが、鴈治郎はその雰囲気でしっかり見せる。乱暴な云い方だが、松嶋屋の美しさがあれば、例え芸が多少拙くとも十分見れる(加えて芸も名人なのだから、とんでもなく素晴らしいのだが)。しかし短躯で、松嶋屋の様な如何にも色男と云う風姿ではない鴈治郎(失礼)は、芸が拙いと蹴られてしまうだろう。若い頃からのこの優の研鑽は、只管その和事芸を修練するのに費やされて来たのだと思う。そしてここ数年、とみにその芸は磨き上げられて来ている。

 

井筒屋裏離れ座敷における梅川との逢引きの場のじゃらじゃらした、如何にも上方狂言らしいだんまり芝居も、相方の扇雀ともども何とも云えない雰囲気を醸し出していて、抜群の味。関東の人間にとってこの辺りの味を楽しめるか楽しめないかで、上方和事芝居が好きか嫌いか別れるところだろう。勿論筆者は大好きな口であるが。そして舞台は再び井筒屋表座敷に戻り、八右衛門がやって来る。この愛之助の八右衛門がまたべりべりとした手強い出来で、素晴らしい。鴈治郎が八右衛門に突っ込んで貰わないと芝居が出来ないと発言していたが、この二人のやり取りは実に見事。

 

梅川を請け出したい八右衛門は、金があるのかと散々忠兵衛を煽る。これがホンマの小判の音だと、金包みで火鉢を叩く。ここの如何にも憎体な味を出す愛之助八右衛門は、流石に何度も手掛けていて役が手の内にある見事なものだ。「金のないのは首のないのと同じじゃ」と突き飛ばされて小判の封が切れてしまう。ここの忠兵衛の痛恨とも云うべき表情は真に迫っており、見ていて胸が締めつけられる。鴈治郎の忠兵衛がニンに適っていると云うのはこの辺りだ。そして「よし、五十両、百両」と金を畳に叩きつけての見得になる。この全て思い切ったと云う肚の鴈治郎忠兵衛がまた素晴らしい。松嶋屋は斜に構えた姿勢から金を落とす風情が色気に溢れ見事だが、鴈治郎はもっとリアルで、形と云うよりも気持ちで行く。大罪を犯してしまったと云う痛切な思いが客席にも痛いほど伝わって来る見事な芝居だ。

 

そして封印を切った金を治右衛門に渡し(公金横領だが)、身請けが成立して喜ぶ梅川。しかし一転その金はお屋敷の為替の金と忠兵衛に聞かされる。ここで見せる扇雀梅川の嘆きの深さ、一緒に死ぬと云う情の深さ、「せめて三日なりともこちの人、女房よと、云うて死にとうござんすわいなぁ」の哀感、無類の素晴らしさだ。そしておえんや中居が戻って来て事情を知らず二人を寿ぐ。「嬉し涙様、嬉し涙様」と囃す中居・太鼓持ちと哀しみを漂わす梅川との対比がまた哀れをそそる。

 

梅川を先に立たせて一人花道を引っ込む忠兵衛。松嶋屋型は二人手に手を取っての引っ込みだが、成駒家型は忠兵衛一人の引っ込み。松嶋屋型の方がより心中の道行感は漂うが、成駒家型は主役たる忠兵衛役者をしっかり見せる如何にも芝居らしい引っ込み。ここの「近日、近日」の科白廻しも哀感一杯で胸に迫る。出の浮かれ気分と対照的な思いを秘めた往きつ戻りつの引っ込みで幕となる。鴈治郎扇雀愛之助の熱演で、実に見事な上方和事芝居を見せて貰った。

 

ただ主役の三人以外で上方の匂いを漂わせていたのが寿治郎のみだったのは、些か寂しい。亀蔵東蔵も芝居は上手い。しかし上方の味わいが薄いのだ。秀太郎のおえんなど、何でもない様なのだが、所作、科白その一つ一つが上方の味に溢れていたものだった。竹三郎も含めて上方の名人役者がいなくなってしまった事を、今更乍ら痛感させられた。

 

打ち出しは『松浦の太鼓』。秀山十種の一つで、播磨屋家の芸。松嶋屋の鎮信、獅童の源吾、筆者が観劇した日は歌六が休演で橘三郎の其角、隼人の佐司馬、虎之介の文太夫、鷹之資の市右衛門、吉三郎の幾之丞、橘太郎の近吾、千之助のお縫と云う配役。云う迄もなく亡き播磨屋十八番中の十八番狂言。その愛嬌溢れる芝居は今でも筆者の目にしっかりと焼き付いており、生涯忘れ得ぬものだ。松嶋屋の印象はなかった役だが、それもそのはず、二十年ぶりに演じるのだと云う。

 

去年の南座顔見世で松嶋屋は、その年に高麗屋が初役で演じた『身替座禅』を演じた。そして今年はやはり秀山祭で高麗屋が初役で演じた『松浦の太鼓』を出してきた。これは偶然だろうか。筆者にはそうは思えない。昔高麗屋播磨屋は相手が出せば自分もと、同じ狂言を比較的短いスパンで演じて見せていた。その播磨屋亡き後、松嶋屋高麗屋を無二のライバルと思っているのではないか。言葉は良くないかもしれないが、「俺と高麗屋を比べてみろ」と云う気概があるのだと、筆者は勝手に推察している。

 

そしてその松嶋屋松浦候だが、ニンではないと思う。しかしそこは名人、実に立派な松浦候になっている。播磨屋の様な愛嬌溢れる姿ではないが、この優らしい色気があり、その気儘な人物造形は播磨屋マナーに近い。しかし気儘であり乍ら大名らしい位取りは失っておらず、「宝船はここじゃ、ここじゃ~」辺りは天性の名調子が堪能出来て、二十年ぶりとは思えない見事な松浦候。高麗屋とは違う行き方であったが、ともに大名らしい気品と風格に溢れる素晴らしい芝居であった。

 

脇では松嶋屋の指導を仰いだと云う獅童の源吾が、忠義一途の武士像をしっかり構築していた。科白廻しも実に手強く、初役らしからぬ見事なもの。代役の橘三郎は去年幸四郎相手に博多座で勤めており、こちらも立派な出来。しかしこの一座に橘三郎がいて本当に良かった。歌六が休演となると、他に其角を演じられる役者はいなかったと思う。東蔵なら出来るだろうが、高齢なので体力的に酷であったと思うからだ。その他、こちらも初役の千之助お縫は一通りであったが、上方の手触りを感じさせるところはやはり血であろうか。しかし改めて播磨屋高麗屋松嶋屋と云う三名人の芝居が観れた『松浦の太鼓』は、筆者にとって宝物の様な狂言となった。

 

これをもって令和四年の芝居見物も全て終了。今年の振り返りはまた別項にて。

 

 

 

 

京都南座十二月 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎 第一部 獅童の「すし屋」、扇雀・虎之介の『龍虎』

続いて南座顔見世第一部を観劇。やはり満員の盛況。丸本の名作『義経千本桜』から「すし屋」。関西での公演乍ら、江戸型の「すし屋」を持ってきたところが面白い。先日国立劇場菊之助の権太を観たばかりなので、比較しながら興味深く観劇した。しかも主要の殆どの役で役者が替わっているのもいい。

 

幕開きはその「すし屋」。配役は獅童の権太、壱太郎のお里、隼人の弥助実は維盛、吉太朗の内侍、梅花のおくら、片岡亀蔵の弥左衛門、鴈治郎の景時。吉太朗の内侍以外は全員国立の菊之助の時と違っている。獅童は数年前の巡業で一度権太を演じており、その際に高麗屋に教わったと云う。その公演を筆者は観る事が出来なかったが、高麗屋獅童を指導(洒落ではありません)しているところをテレビで見た事がある。高麗屋は自ら演じて見せ、「六代目はこうやっていた。君の好きな方で演じなさい」とアドバイスしていた。筋書の中で獅童高麗屋から「自分らしい権太をやりなさい。それが歌舞伎ですから」と云われたと発言していた。確かに今回の獅童権太は、六年程前に歌舞伎座で観た絶品とも云うべき高麗屋権太の記憶が蘇る、見事な権太だった。

 

獅童が二年前に歌舞伎座で狐忠信を演じた時にも感じたのだが、この優の芝居は他の役者に比べて野性味の様な激しさがある。名門萬屋の御曹司ではあるのだが、菊之助幸四郎の様な気品溢れる美しさとはまた違った持ち味だ。今回の権太も最初の出からおくらとのやり取りの部分は、菊之助の様な江戸前の粋な美しさではなく、いかにもごろつき、要するに「ごんた」な味が全面に出て来る。音羽屋親子の権太はいかにも粋で鯔背、これぞ江戸前の権太といった素晴らしさがあるのに対し、型は同じでも獅童にはもっとごつごつとした手触りが感じられる。そして獅童に権太を教えた高麗屋にも、その「ごんた」な味があったのが思い出された。

 

しかも獅童には菊之助にはない独特の愛嬌がある。これがおくらとのやり取りでは実に効果的で、親の甘さにつけ込む自然な「ごんた」ぶり。菊之助は所作と芝居の上手さで見せ、獅童はニンで見せると云った感じだろうか。どちらがいいと云う事ではなく、この場は二人の優の持ち味の違いが観れて実に興味深いものだった。これはお里とのやり取りにも同じ事が云える。花形の実力者である二人の優がそれぞれの持ち味で古典を演じているのをリアルタイムで観劇出来るのは嬉しい事だ。

 

そして最後のもどり。この場は獅童が実に見事な芝居を見せてくれた。ここは花形にとって荷が重い場らしく、菊之助松緑も喰い足りなかった。それは父弥左衛門に刺されて今わの際の身体であると云う「リアル」と、その中で長科白を云ってもどりの本性を顕すと云う「芝居」との狭間で分裂を起こしてしまっていたのだ。しかし獅童は思い切りよく「芝居」に徹している。竹本に乗ってもうここは開き直ったとも云える程、義太夫狂言の芝居にしているのだ。これは筆者の想像ではないと信ずるが、高麗屋の示唆があったのだと思う。ここの高麗屋の竹本とシンクロするもどり科白の素晴らしさは、今でも筆者の目に、耳に焼き付いている。無論獅童にはまだ高麗屋の深みはない。しかし「芝居」に徹した今回の獅童権太の味わいは、他の花形にはなかったものだ。これは素晴らしい成果であったと思う。

 

脇では梅花のおくらが逸品。「油地獄」のおさわと同様、放蕩息子に手強く接しなければと思いつつ、つい子を想う母親の本性が出てしまう。そこの芝居が実に上手い。今後の梅花には、どんどんこう云う役を付けて欲しいと思う。壱太郎のお里は江戸型の中で上方の濃厚な味わいを出していて、様式的には多少の矛盾を感じないではないが、この優の実力はしっかり確認出来る。隼人の弥助は弥左衛門に「まず、まず」と云われて維盛に直るところがキッパリしており、且つニンでもあるので、これまた結構。一方鴈治郎の景時はニンではないが、大きさと手強さを出している。亀蔵の弥左衛門は義太夫味は希薄だが、芝居はしっかりしていて、堅実な出来。総じて見事な「すし屋」になっており、南座では初めてと云う獅童の古典の出し物は、大成功だったと云えるだろう。

 

打ち出しは『龍虎』。戦後八世三津五郎と三世延若が初演した新作舞踊。筆者は四年程前に歌舞伎座幸四郎染五郎で観ている。今回は扇雀の龍、虎之介の虎と云う配役。毛振りがあると云う点で共通している『連獅子』を想起させる部分がある踊り。勿論中身は全然違うが。幸四郎染五郎はこの舞踊を踊った後に『連獅子』を勤めた。この親子もいずれ『連獅子』を踊る機会があるだろう。幸四郎染五郎の時は、若干幸四郎染五郎に合わせているところもあったが、今回の二人にそれはない。イキのあった踊りと毛振りで、見物衆からの盛んな拍手を浴びていた。

 

最後は踊りで〆る筆者好みの狂言立てで、しっかり楽しませて貰えた顔見世の第一部。残る第二部の感想は、また別項にて綴ります。

京都南座十二月 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎 第三部 時蔵の『年増』、愛之助・孝太郎の『女殺油地獄』

筆者の年末恒例行事となっている南座の顔見世興行を観劇。多少の人数制限はあったものの各部とも満員の盛況で、松嶋屋以下各優が力のこもった芝居を見せてくれていて、大変な盛り上がり。外は寒かったが客席は熱気に溢れていた。しかし何度も書くが、大向うがないのが何とも寂しい。早く通常に復して貰いたいものだ。

 

幕開きは『年増』。役者が「一人語り」をする常磐津舞踊。先代芝翫が得意にしていた踊りで、時蔵は初役の様だ。舞踊にもニンがあり、この踊りは時蔵に適っている。仇な雰囲気が実に良く、いかにも年増女の色気がたまらなく良い。舞台には表れない太鼓持ちの五丁とのやり取りを一人でしゃべるくだりも、目の前に五丁がいるかの様。旦那との馴れ初めを所作で見せるクドキも見事な芸。そして旦那の浮気現場に乗り込んで争うくだりも三人を一人で踊り分ける技術は素晴らしい。三味線・琴・胡弓を所作で表す振りも実に細やか。二十分くらいの短い舞踊だが、起承転結があり、楽しめる踊りであった。

 

打ち出しは近松作の『女殺油地獄』。愛之助の与兵衛、進之介の七左衛門、壱太郎の小菊、鷹之資の八弥、千之助のおかち、梅花のおさわ、橘太郎の小兵衛、松之助の森右衛門、橘三郎の徳兵衛、亀鶴の太兵衛、孝太郎のお吉と云う配役。云う迄もなく当代仁左衛門一代の当り役。現在この狂言が舞台に乗るのは仁左衛門の功績であると云えるであろう。歌舞伎座のさよなら公演での上演を一世一代として演じ納めてしまって以降、主に幸四郎愛之助が受け継いで演じてきた。当然の事として、二人共仁左衛門からの直伝である。

 

この芝居は当然江戸時代の狂言であるが、主人公の与兵衛はまるで、よく報道で見るキレ易い現代青年の様な性質の持ち主である。勿論原作に比べて仁左衛門が現代風に翻訳したところはあるだろう。しかし今のドラマでもありそうな設定の芝居なのだ。河内屋徳兵衛の倅与兵衛は父親と早くに死に別れ、母親が家の奉公人と再婚。その関係で今の父親は息子達に強い態度で接せないと云う複雑な家庭環境にある。そのせいか親に盾突き、ロクに仕事もせず放蕩の限りを尽くしていると云う所謂フリーターである。その与兵衛が金策に尽きて唯一自分に優しみを見せていたお吉を、無心の金は貸せないと云われて衝動的に殺害してしまう。要するに与兵衛は「キレ」たのだ。上記の家庭環境が背景にある事で、与兵衛と云う人物をより立体的に描く事に成功しているところが流石近松である。

 

その与兵衛を、仁左衛門は実に迫力たっぷりに演じてくれていた。どことなく憎めない愛嬌と色気があり、最後のお吉殺しの場では狂気すら感じさせる迫真力があった。その与兵衛を、今回愛之助仁左衛門マナーをきっちり写して見事に演じていた。科白廻しなど仁左衛門さながらである。しかし愛之助与兵衛はよりリアルなどこにでも居そうな人物造形になっている。クズっぷりの味わいが仁左衛門幸四郎に比べてやや薄く、より普通の若者テイストが濃いのだ。孝心の希薄さや、働く事への嫌悪と云った感情は、若者にはありがちな事。仁左衛門幸四郎はそこに狂気の様なものを付け加えて、常人ならざる人物像を作り出していた。それに比べると愛之助与兵衛は狂気を感じさせるところはない。

 

しかし大詰「豊嶋屋油店の場」において、自分に対する親の愛情を戸外で立ち聞きし、それに心を打たれて、出て行く親をお辞儀をし乍ら見送るところに、より人間らしい味わいを感じさせて、何を見ても聞いても感動もしないドライな人物とは一線を画している。要するに仁左衛門幸四郎の与兵衛に比べて、不良味を薄く描いている。その与兵衛が最終的にはお吉殺害に至る。普通の(と云っても不良は不良だが)若者が殺人を犯してしまう恐ろしさ。狂気の味が薄い分、より現実的な恐ろしさを感じさせる事に成功しており、愛之助ならではの与兵衛になっていた。

 

孝太郎のお吉は何度も手掛けて手の内のもの。世間ズレしておらず、周囲の目など気にせず泥だらけになった与兵衛を介抱してしまうなど、孝太郎は実に自然に少し天然な味わいを出している。それだけに最後「死にたくない」と叫び乍ら息絶えてしまう場面が一層の哀れさをそそり、痛切な場となっている。橘三郎の徳兵衛も何度も手掛けている役。ニンにも敵い、流石の出来。梅花のおさわは初役の様だが、この優は近年とみに芸境を深めており、再婚した徳兵衛の手前、倅に手強く接しながらも隠し切れない愛情をきっちり演じて、これまた結構なものであった。

 

南座の顔見世に初めてかかったと云う『女殺油地獄』。まず見事な出来であった。やはり顔見世は役者の気迫が違う。コロナにも負けず、上演が途絶える事はなかった南座顔見世。これからも我が国が続く限り、上演が続いて行く事だろう。