fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

南座三月花形歌舞伎 松プログラム 壱太郎・右近・隼人の「河庄」、壱太郎・隼人の「将門」

今年初の遠征は京都。南座の花形歌舞伎を観劇した。以前から観たい観たいと思っていた公演なのだが都合がつかず、今回初めて観劇出来たのが喜ばしい。令和の歌舞伎界を牽引して行くであろう、いや牽引して貰わなければならない若手花形三人の揃い踏み。しかも上方系の壱太郎はともかく、右近・隼人にとっては挑戦とも思える上方狂言。現在上方系の立役の役者で主役を張れる優は名人松嶋屋以下、鴈治郎愛之助と来て、その後が中々続いていない。松嶋屋に心酔している幸四郎が上方狂言に意欲を見せているが、この世代の若手が上方狂言に挑む意欲があるのは、素晴らしい事であると思う。

 

まず最初は「乍憚手引き口上」。筆者が観劇した日は隼人であった。上演作品の内容を一通り紹介し、初役に挑む意気込みを語った。途中南座ゆるキャラが登場して、撮影タイム。筆者もミーハー的に携帯を構えてパシャッ。三階席で観劇したのだが、こちらの方にも手を振って愛想を振りまいてくれていた。ついでに筋書(こちらでは番附だが)やグッズもしっかり宣伝。この距離感は若手花形ならではで、微笑ましく、結構な企画。こんな事は大名題にはやれませんからな。

 

幕開きは『心中天網島』から「河庄」。今年は近松門左衛門歿後三百年と云う事もあり、壱太郎にとっては玩辞楼十二曲にも選ばれている成駒家の家の芸とも云うべき狂言。五年程前に大阪松竹座で父鴈治郎の治兵衛相手に勤めて以来、二度目の小春。その他配役は右近の治兵衛、隼人の孫右衛門、吉太朗の三五郎、菊三呂のお庄、千次郎の太兵衛、千壽の善六。壱太郎以外は初役の様だ。監修として鴈治郎がきっちりついている。当然の様に右近は鴈治郎から教えを受けたと云う。

 

やはりこう云う上方狂言では、三人の花形の中で壱太郎が一頭地抜けている。この小春と云う役は、かなり辛い辛抱の役であると思う。治兵衛との心中を約束している小春だが、治兵衛の女房おさんからの手紙を読み、別れを決心する。そこに治兵衛の兄孫右衛門が現れ、心中を思いとどまる様に説得する。それを受けての小春が心変わりを告げ、それを聞いた治兵衛が小春を刺そうとする。孫右衛門がそれを押しとどめて中途は略すが、治兵衛を店中に引き入れて意見を始める。ここの二人芝居がかなり長い。孫右衛門が治兵衛に意見をしている間小春は一言も発せず、二人の芝居を肚で受けなければならない。ここの芝居はかなり難しいと思うのだが、二人の科白が交わされるごとに小首を動かすなど微妙な動きを入れ乍ら、肚で受ける芝居がきっちり出来ているのが壱太郎、大手柄である。

 

上方役者らしいこってりとした風情もあり、治兵衛への真実の愛を持ちながら、女房おさんを思い、治兵衛の身も案じて身を引こうとする情味深さがきっちりと出せている。若い乍ら義太夫味もあり、如何にも丸本の女形と云った雰囲気を漂わせている辺りは、この優の研鑽宜しきを思わせるに充分。加えて今回竹本の谷太夫の語りが実に素晴らしく、慣れない役柄の多い若手芝居をきっちり支えていた。その結構な竹本と相まって、壱太郎小春はまだ二度目とは思えない見事な出来であったと思う。

 

それに比べると、右近と隼人はやはりまだ上方狂言に慣れていない感がある。所作・科白廻しがすっきりし過ぎていて、上方和事らしさが出せていないのだ。筆者は三階席から観たので揚幕からの治兵衛の出は見えなかったのだが、当然とは云え、亡き山城屋や当代鴈治郎の様な、あの風情はない。だがこれは致し方なかろう。しかし逆に若々しい治兵衛で、女房子供があり乍ら遊女と心中の約束迄し、小春の縁切りの言葉を聞くと逆上して刺し殺そうとする、若気の短絡的なところは(上方芝居らしさには欠けるものの)役柄と右近の年齢的なものが合致しており、その点では初役乍ら右近、手一杯の力演であったと思う。

 

隼人も繰り返すが上方の風情には欠ける。しかしこれも右近と同様に治兵衛の兄らしいところは出せている。この孫右衛門と云う役は実に大人な役で、小春も弟も説得して八方丸く収めようとしている。それ故それなりの貫禄を必要とする役である。過去には先代團十郎富十郎段四郎高砂屋といった大物役者が演じており、その芝居が上手ければ上手い程、治兵衛の兄ではなく父か叔父といった雰囲気が出る。その点で今回の隼人孫右衛門はその貫目の軽さが幸い(?)して、治兵衛の兄らしさが出ている。これは芝居が一人ではなく、役者のバランスで成り立つものである事を考えると、成功であったと思う。総じて如何にも上方狂言と云う風情には欠けてはいたものの、若手花形三人手一杯の熱演で、東京者としては楽しく観劇出来た一幕であった。

 

打ち出しは『忍夜恋曲者~将門』。常盤津舞踊の大曲である。配役は壱太郎の如月実ハ滝夜叉姫、筆者が観劇した日は隼人の光圀。当然の事乍ら二人とも初役である。錦絵の様な美しさに溢れていながら、おどろおどろした風情もあり、くどきの艶っぽさに加えて大蝦蟇迄登場するケレン的な見せ場もある。観ていて実に楽しめる舞踊劇である。筆者的には大和屋と松緑が演じた歌舞伎座杮落し公演での上演が印象深い。

 

比べてはいけないと思いながらも、壱太郎の滝夜叉姫は大和屋に比べるとこの世の者ならぬ風情には欠ける。科白廻しがきっぱりし過ぎているせいでもあろうか。しかし乍ら常磐津の〽嵯峨や小室の花ざかり~にのせたクドキは実に艶っぽく、美しい所作と相まってかなり見せてくれる。隼人の光圀も、将門の最期を物語る軍物語ではキリッとした時代物の手強さを感じさせてくれており、そこから一転如月が廓の様子を語るくだりでの世話にくだける踊りも見応え充分。

 

若々しくキレのある二人の大立ち回りがあり、「屋体崩し」から大蝦蟇登場となる実に派手な演出は舞台映えがして、いかにも歌舞伎的な面白さがある。最後は壱太郎と隼人が舞台中央に極まって幕となった。杮落し公演以来歌舞伎座ではかかっていない狂言。今度はぜひ歌舞伎座でも上演して貰いたいものだと思う。今回は観れなかっが、右近の光圀も観てみたい。

 

初めて観た南座での花形公演。大役に挑む若手花形の姿は凛々しく、実に頼もしい。注文をつけた部分もあるが、この年齢でこれほどの役を完璧にこなせる訳もないし、こちらもそれを求めて観に行ったつもりもない。この経験が将来への大きな一歩となるはずである。まだ演じていない他の大役にもどんどんチャレンジして行って欲しいと思うし、それが令和の歌舞伎界を盛り上げる事にもなるであろう。更に若い層の、例えば染五郎や團子あたりにも、ぜひ古典の大役に挑戦して貰いたいと思っている。

南座 三月花形歌舞伎(写真)

南座の花形歌舞伎に行って来ました。

 

ポスターです。光って上手く撮れなかった・・・

 

パネル展示もありました。

 

隼人の口上の時に、撮影タイムがありました。南座ゆるキャラと。

 

今年初の京都遠征。日帰りの弾丸ツアーでした。感想はまた改めて綴ります。

歌舞伎座 三月大歌舞伎 夜の部 幸四郎・菊之助・愛之助・雀右衛門の『伊勢音頭恋寝刃』 、松緑・梅枝の「喜撰」

三月歌舞伎座夜の部を観劇。入りは八分といったところか。幸四郎菊之助愛之助松緑と花形が揃った。この四人が同じ部に出ると云うのは、近年では珍しいのではないだろうか。実に結構な座組。こう云う組み合わせを、もっとどしどしやって貰いたいものだ。大名題の名人芸も勿論観たいが、年齢が年齢だけに、余り無理をさせてはいけない。やはりこの年代がどしどし働かねば、歌舞伎界の明日はない。

 

幕開きは『伊勢音頭恋寝刃』。歌舞伎座では珍しい通し狂言だ。しかも幸四郎菊之助愛之助と揃う大一座。名前を見ただけでわくわくする。幸四郎の貢、菊之助の万次郎、愛之助の喜助、彦三郎の正太夫歌昇の林平、新吾のお岸、廣太郎の大蔵、吉之丞の丈四郎、橘太郎の彦太夫、亀鶴の北六、市蔵の岩次、高麗蔵のおみね、彌十郎のお鹿、又五郎の左膳、雀右衛門のお紺、魁春の万野と云う豪華な配役。これで悪い訳がないと云う布陣だ。しかも歌舞伎座では実に六十二年ぶりと云う「太々講」の場が出る。筆者は観た事のない場だ。

 

しかし素晴らしい出来の「伊勢音頭」であった。まず配役が適材適所で主要のほぼ全ての役がニンであると云うのが大きい。彦三郎の正太夫が必ずしもニンではなかったが、そこは芸達者な彦三郎。違和感なく勤めていた。序幕「伊勢街道」の場で新吾のお岸を駕籠に乗せて菊之助の万次郎が出て来る。やはり今の菊之助にとっては松王ではなくこちらがニン。上方のつっころばしだが、この優が演じると気品が漂う。身体の線が柔らかく、実に美しい。大事な宝剣である「青江下坂」を質に入れてしまい、それが為に後の悲劇を引き起こす事になるしょうもない性格のボンボンなのだが、気品ある菊之助万次郎はどことなく憎めない。

 

人の良い万次郎が大蔵と丈四郎にうまうまと刀の折紙を盗まれ、歌昇の奴林平と追っかけっこが始まる。三人が舞台を降りて、客席を縦横に走り回る大運動会。空いていた席に座ったり、二人は何処に行ったか知らないかとお客に聞いたり、やりたい放題で見物衆も大いに沸いていた。若い二人と互角の動きを見せる五十路の吉之丞が大健闘だ。そして万次郎と貢が出てきてだんまりになる。このだんまりがまた実に結構な出来。踊り上手な菊之助幸四郎が基本舞台中央に居り、他三人が取り巻くだんまりなのだが、やはりこの二人の所作が素晴らしく、近年にない見事なだんまり場となっていた。

 

そして筆者は初めて観る「孫大夫内太々講の場」。大した筋ではないし、チャリ場なのだが、「青江下坂」との因縁が説明されており、確かにこの場があった方がわかり易くはある。大して面白味のある場ではないものの、橘太郎・彦三郎が芸力で面白く見せてくれるし、お紺も出て来る。貢とお紺の深い仲がわかるので、これが後の縁切りに効いてくる。そして叔母役の高麗蔵おみねがまた素晴らしい。機転の利く才女で、それらしい貫禄もある。凛とした位取りも見事で、この優の確かな実力を見た思いだ。

 

そしていよいよ「油屋店先」と「奥庭」の場。まずやはり松嶋屋直伝、幸四郎の貢が素晴らしい出来。この優の最大の特徴は、踊りで鍛え上げたその形の良さだ。特にこの場はツケ入りの極まりが多く、その一つ一つの形の美しさは当代無類ものだ。甲の声を多用した科白廻しは、松嶋屋の様な謡い調子ではないが、万野に虐められ、恋人お紺からも縁切りされる貢の追い詰められた心情を実に良く表現している。「身不肖なれども福岡貢」からの長科白も、前回大阪で観た時より一段と聞きごたえがあり、実に見事。白塗り二枚目の役だが、つっころばしの万次郎と違い「ぴんとこな」らしく手強さもあり、身体に一本筋が通っていて武士らしいきりっとしたところがあるのもまた幸四郎らしい見事な人物造形だ。

 

意に反して刀が鞘走り、万野を斬ってしまう。松嶋屋はここで迫力ある目力を見せ、次々人を殺めて行くのだが、幸四郎貢は、少し違う。その目は呆然としていて、焦点が定まっていない。貢の人格を離れて、妖刀「青江下坂」に引きずられる様に人を殺して行ってしまうのだ。ここで先の「太々講の場」にて伏線が張られていた「青江下坂」と貢の因縁話しが効いて来る。「青江下坂」は元々貢の祖父の持ち物であり、この刀を所持した事が原因で人を殺めて切腹してしまう。そして父も早くに病に倒れ亡くなる。その福岡家因縁の刀が孫の貢にも祟り、殺人を引き起こしてしまうのだ。その妖刀が憑依した様を、その虚ろな目で幸四郎は実に見事に表現している。

 

そして大詰「奥庭の場」。ここは大立ち回りなのだが、やはり幸四郎の形の良さが映える。殺人を犯す凄惨な場に、実に美しい幸四郎の所作と云う、アンビバレントな美とでも云うべきか(まぁアンビバレントは心理学用語なので、適切ではないかもしれないけれど)。前回大阪で観た時はコロナ過であったので、芸者衆がうち揃っての総踊りがなかったが、今回は無事復活。この華やかな伊勢音頭を掻き消すかの様に行われる殺人と云う設定が、実に見事な舞台効果をあけでいる場だ。最後はお紺の働きで折紙も手に入り、喜助とお紺を両脇に、舞台中央に貢が極まって幕となった。

 

脇もまた素晴らしい。魁春のお紺は、特に突っ込んだ芝居をする訳ではない。例えば福助だと当て込みがどぎつく、実に憎体なお紺になる。勿論それはそれで素晴らしい。しかし今回の魁春お紺は、実に自然な芝居。当て込みもない。しかしそれでいて貢を追い込んでいくその芝居は実に自然で見応え充分。見る人によっては喰い足りないと思う人もいるかもしれないが、このくどくないあっさりした感じが魁春の持ち味。筆者的には実に結構な万野であった。雀右衛門もこの優らしいお紺。縁切りが大和屋の様に冷徹にきっぱり行くのではなく、肚は貢を思っての事だと云うのがあるので、実に辛そうな縁切り。先月の「籠釣瓶」の八ッ橋と違い実は貢にあるので、この雀右衛門らしいお紺も筆者的には大好きである。ここも人によっては評価が分れるかもしれないが。

 

愛之助も上方の役者らしい実に結構な喜助。元々の主人を思う気持ちがしっかり伝わって来る。先に書いたが本当に主要役者が皆ニンで、傑作とも云うべき見事な「伊勢音頭」になっていた。縁切り~殺人と云う流れで云うと、先月も書いたが幸四郎の「籠釣瓶」も観たくなる。来年あたりに上演して貰いたいものだ。松竹関係の方がこのブログを見る事はないだろうけれども、お願いしますと云っておきたい。

 

打ち出しは『六歌仙容彩』から「喜撰」。何と云っても亡き三津五郎の当り役だが、今回本興行では初役と云う松緑が挑んだ。配役はその松緑喜撰法師、梅枝のお梶、権十郎・松江・片岡亀蔵らに音羽屋の愛孫眞秀と六月に梅枝襲名が決まっている梅枝の愛息小川大晴の所化。最後を舞踊で〆る筆者好みの狂言立てが嬉しい。そして期待に違わず、その出来もまた見事なものであった。

 

坊主は中性的に踊ると云う口伝があるが、松緑の喜撰は正にその通り。愛嬌の中に色気もあり、柔らかいのだが決して女性ではない。動き一つ一つがこの優らしくきっちりしており、本興行初役とは思えない実に見事な喜撰法師。対する梅枝のお梶も素晴らしい。祇園の茶汲女らしい仇っぽさがあり、仕方踊りで客に酌するところなぞは実に艶っぽい。いつまでも観ていたいと思わせる二人の手踊りから喜撰法師のチョボクレになるが、これがまた結構な出来。軽さと愛嬌があり、実に生き生きとしたチョボクレ。この後再演を重ねてどれだけ円熟して行くのか、その過程を楽しみ乍ら観て行きたいと思わせる見事な「喜撰」であった。

 

通し狂言に舞踊と云う実に結構な狂言立てで、大いに楽しめた歌舞伎座夜の部。今月は京都南座も観劇予定なので、その感想は観劇後また改めて綴りたい。

歌舞伎座 三月大歌舞伎 昼の部 菊之助・愛之助の「寺子屋」、先代京屋追善『傾城道成寺』、松嶋屋・幸四郎の「綱豊卿」

歌舞伎座昼の部を観劇。今月も歌舞伎座は追善興行。今月は先代雀右衛門の十三回忌だ。傘寿を過ぎて尚若々しく、三姫や道成寺を得意としていた先代京屋。晩成だった人で、歌右衛門とほぼ同世代乍らその真価が発揮されたのは平成になってからだった(歌右衛門がその芸と美貌に嫉妬して、抑え込んでいたと云う説もあるが)。大正生まれにも関わらず、平成を代表する女形と云っていいだろう。しかし芸風は古風で、正に名人女形の名に相応しい名優であった。

 

後先を考えず、今回はまずその追善狂言『傾城道成寺』から。先代京屋の長男友右衛門の妙碩・次男当代雀右衛門の清川実は清姫の霊に、松緑安珍実は維盛、廣太郎の経胤、廣松の三郎、亀三郎の花王、眞秀の駒王、音羽屋の尊秀と云う配役。筆者は初めて観る狂言雀右衛門松緑以外の役は、今回新たに書き加えられたものの様だ。江戸時代からある古い狂言の様だが上演が途絶えていて、戦後になって復活された道成寺物らしい。

 

まず雀右衛門がやはり素晴らしい。本当に亡き父先代京屋に似てきたと云う印象。親子だから風貌が似ていると云う事もあるが、古風な雰囲気が先代生き写しである。道成寺物は女形が演じると女性の妄執を感じさせる事が多いが、この優だとそこはかとなく儚さが漂う。妄念と云うより報われない切ない慕情と云った雰囲気があるのだ。これが当代の持ち味の一つで、舞踊の技術がしっかりしているのは当然なのだが、この儚さが他にない個性になっている。当節、真に得難い女形であると改めて思わされた。

 

他は本当にこの雀右衛門を引き立てる役なので、松緑ほどの舞踊の名人を使い乍ら特に為所はない。しかし京屋と姻戚の明石屋が舞台に揃う事も少ないので、これは追善らしい貴重な舞台絵。最後音羽屋の尊秀が現れ、その歌舞伎座の大舞台をも圧する貫禄で全てを持って行ってしまうのは、やはり役者の格と云うものであろう。殆ど座っている役であったので、正月に少々危なげであった足の状態は判らなかったが、元気な舞台姿が観れたのは嬉しい限り。音羽屋にはいつまでも元気であって欲しいものだ。

 

続いてその前に演じられた『菅原伝授手習鑑』から「寺子屋」。近年岳父の亡き播磨屋の芸を継承する事に傾注している菊之助。正月の梶原に続き、今月は本命とも云うべき松王丸を持って来た。配役はその菊之助の松王、愛之助の源蔵、新吾の戸浪、鷹之資の涎くり、橘太郎の吾作、萬太郎の玄蕃、梅枝の千代、東蔵圓生の前、加えて菊之助の愛息丑之助の小太郎。愛之助東蔵・鷹之資以外は初役の様だ。世代交代の時期にさしかかっている歌舞伎界。最近は本当に初役が多い印象だ。大名題が元気な内に芸を繋いで行くのは、伝統芸能として大切な事であろう。

 

そしてその菊之助松王だが、結論から書くと残念乍ら万全とは云い難いものであった。まず何よりニンでない。ニンでない役をしおおせるには、やはり経験が必要であろう。女形も兼ねる菊之助なので、どうしても線の細さが気になってしまうのだ。芝居上手な菊之助なので、後半の松王二度目の出からは情味溢れる松王を見せてくれる。この狂言は時代物乍ら、松王二度目の出からは時代世話的な場になる。ここは流石菊之助、芝居の上手さで感動的な場にしている。我が子を失い、泣き崩れる妻千代に向かい「御夫婦の手前もある。泣くな」と自らも涙ながらに諭す場は、観ているこちも思わず涙が出そうになる。

 

しかし前半が厳しい。松王らしい描線の太さがなく、義太夫味も薄い。この前半はかなり様式的なので、義太夫味が薄いのは致命傷なのだ。五十日鬘姿もぴたりと嵌まっておらず、出からして軽い印象。玄蕃を前にして咳込むところもリアル過ぎて義太夫狂言らしくない。玄蕃と共に源蔵宅に入り、「生き顔と死に顔は相貌の変わるもの」の科白も義太夫味に欠ける。源蔵が首桶を持って戻って来たところで「源蔵夫婦を取巻き召され」をカットしているのは本文に沿ったのかもしれないが、播磨屋高麗屋もここはカットしていない。この辺りも義太夫味の薄さを自覚しての事なのかもしれない。

 

首実験の場は、首桶を開ける手が僅かに震える辺りに父親の情が滲み、菊之助の芝居の上手さが光るが、それとて全体を救うには至っていない。しかし菊之助が発言していないので判らないのだが、今回の初演に対し一体誰に教わったのだろうか。播磨屋に直接教わっていたとは思えない。かと云って高麗屋に教えを乞うたとも思えない。他に指導を仰ぐとしたら松嶋屋だろうが、それなら松嶋屋のおじ様に教わったと云いそうなものだ。もし映像と過去の自分の共演経験だけで演じたとしたなら、余り良い事ではないと思う。復活狂言ならともかく、こう云う古典の大役の初演は、しっかり誰かに教えを乞うて勤めるべきであろう。ましてや自分のニンにない役なら猶更だ。その意味でも、改めて播磨屋の急逝が惜しまれてならない。

 

対する愛之助の源蔵は、松嶋屋マナーをきっちり守って良い出来。充分とはいかないが義太夫味もあり、この役の背負っているものをしっかり感じさせる源蔵。女房の新吾戸浪とのイキも合っており、この源蔵夫婦は結構な出来であった。そして何より立派であったのは、梅枝の千代。こいつまた梅枝かと云われそうだが、良いものは良いので仕方がない(苦笑)。義太夫味もきっちりあり、その所作は見事にイトに乗っている。息子を失って嘆くところも丸本の節度を守って大袈裟にならず、それでいて母親の情味はしっかり出ている。六月に時蔵襲名が発表されている梅枝。初役とは思えない見事な千代であった。

 

菊之助に厳しい物云いになってしまったが、筆者としては基本的に大好きな優。再演の際には、より深化した松王を見せて貰いたいと願っている。最後に一つ付け加えると、小太郎を演じた丑之助は、やはり只者ではない。本当に出番は短いのだが、師匠である源蔵の前に手をついて見上げた時のその表情に、子供乍らこの後自らが辿る運命への覚悟が感じられる。すなわち役が肚に入っているのだ。音羽屋と播磨屋の最強DNAを受け継いだ丑之助。今この子が示しているものが今後見事に開花したならば、令和の歌舞伎界はとんでもない役者を手に入れる事になるであろうと、一応それらしく予言しておく。

 

打ち出しは『元禄忠臣蔵』より「御浜御殿綱豊卿」。云う迄もなく、松嶋屋十八番中の十八番。松嶋屋高砂屋と云う個性の違う名人役者二人の綱豊卿が観れたのは、筆者の歌舞伎観劇の思い出の中でも特別なものとして記憶に深く残っている。配役はその松嶋屋の綱豊卿、幸四郎の助右衛門、梅枝のお喜世、孝太郎の江島、萬次郎の浦尾、由次郎の九太夫歌六の勘解由。中で久々に由次郎の元気な姿に接しられたのは嬉しい限り。

 

松嶋屋の綱豊卿に、筆者が今更どうこう云う事もない。その艶、位取り、気品、謳うが如き名調子と相まって、名人芸としか云い様のないものだ。筆者が観劇した日は歌六に科白が充分入っておらずハラハラさせられる部分もあったが、その勘解由を前にして「討たせたいのぅ」と赤穂浪士に対する真情を吐露する科白廻しに万感の思いが溢れ、実に聴きごたえたっぷり。自分に食ってかかる助右衛門に、「助右衛門、そちゃオレに憎い口をききおったぞ」と云い残して座敷を去る姿は、正に千両役者のそれである。

 

大詰の吉良少将と思い違いをして槍を繰り出してきた助右衛門を取り押さえての長科白は、もはや聴き惚れるしかない。対する幸四郎の助右衛門も、この優らしく真っすぐな心情を変に拗ねる事なく綱豊卿をぶつけていて、「御浜御殿元の御座の場」に於けるこの二人の芝居は実に見応えたっぷり。助右衛門が嫌味でも皮肉でもなく、正面から自分にぶつかってきて、六代将軍の座を望む故の作り阿保であろうと綱豊卿の急所を突いたので、それまで助右衛門をあしらっていた綱豊卿が激高するのだ。ここの場の迫力もまた、素晴らしいものであった。その他梅枝・孝太郎・萬次郎・歌六と、脇も充実していて、実に見事な「御浜御殿綱豊卿」。先の「寺子屋」に少々不満を云ったが、そんなものはどうでもよくなる程の素晴らしさであった。

 

今月はこの後の夜の部に加え、京都南座も観劇予定。その感想は観劇後、改めて綴りたい。

 

歌舞伎座 三月大歌舞伎(写真)

三月大歌舞伎に行って来ました。ポスターです。

 

昼の部、絵看板です。

 

同じく夜の部。

 

勘三郎と同じく、京屋も十三回忌ですか。早いものです。

 

二階では、パネル展示もありました。

 

三月に入って冬に逆戻りの印象で、寒い中観劇して来ました。感想はまた改めて綴ります。

歌舞伎座 猿若祭二月大歌舞伎 昼の部 中村屋兄弟の『籠釣瓶花街酔醒』

前回に引き続き、勘三郎追善興行昼の部の感想を綴る。打ち出し狂言は『籠釣瓶花街酔醒』。次郎左衛門は亡き勘三郎がその襲名公演でも演じており、先代勘三郎からの当り役。今回勘九郎が初役で挑んだ。一方女形の大役八ッ橋に、これまた初役で七之助。この役は平成以降、福助・大和屋・先代、当代の雀右衛門・山城屋・菊之助しか勤めておらず、しかも山城屋と当代雀右衛門はそれぞれ一度きりしか演じていない。殆ど大和屋と福助が専売特許の様な形で演じてきたものだ。

 

配役は中村屋兄弟に加え、児太郎の九重、橋之助の治六、芝のぶの七越、鶴松の初菊、歌女之丞のお辰、梅花のお咲、桂三の丈助、片岡亀蔵の丹兵衛、松緑権八時蔵のおきつ、歌六の長兵衛、松嶋屋の栄之丞と云う大一座。中では彌十郎に教わったと云う松緑初役の権八が目をひく。亡父の追善公演で初役の大役に挑む中村屋兄弟を支えるべく、当代最高の布陣で固めて来たと云う印象だ。

 

この狂言歌舞伎座でかかるのは八年前に亡き播磨屋が次郎左衛門を演じた時以来。この役も八ッ橋同様あまり多くの役者が演じられるものではない。平成以降では播磨屋高麗屋親子・勘三郎音羽屋五人のみ。しかも音羽屋と当代幸四郎は一度きりだ。回数の多さでは断然播磨屋だが、筆者としては十五年程前、福助の八ッ橋を相手に勤めた高麗屋が忘れがたい。高麗屋の次郎左衛門は愛嬌もありながら、いかにもお大尽の風格漂うもので、絶品としか云い様のないものであった。

 

今回の勘九郎は、基本的に父勘三郎の往き方に沿ったものだ。父の次郎左衛門で治六を勤めており、間近でその至芸を見ていたであろう。兎に角、父同様愛嬌のある次郎左衛門である。しかし才気煥発で、何でも自分流にこなしてしまう勘三郎が作り出す次郎左衛門と違う手触りがあるのは、その作りあげた人物像である。勘九郎の次郎左衛門は、嘗て筆者が観た次郎左衛門の中で最も好人物として描かれている。序幕「吉原仲之町見染の場」の華やかな吉原に感嘆しているところから、一転馴染み客となっているところまで、実に"いい人"なのだ。

 

この前半部分の好人物ぶりがきっちり出せているところが、後段になって効いてくる。すっかり身請けの話しが出来上がっていたところに、万座の中で八ッ橋に縁切りされる。その屈辱をグッと堪えての「花魁、そりゃああんまり袖なかろうぜ」の科白が生きる。播磨屋高麗屋の様な所謂歌舞伎調ではなく、よりリアルに肺腑から絞り出す様な科白廻しが今回の次郎左衛門にぴったりだ。まだまだ若い勘九郎高麗屋の様なお大尽の風格はない。その弊害として、下男治六との貫禄差があまり出ていない恨みは残る。しかし今はこれで良いのだと思う。

 

その如何にも好人物であった次郎左衛門が、大詰「立花屋二階の場」に至ってキレる。しかも「縁切の場」から数か月たっているのにも関わらずだ。好人物であるだけにその恨みは深く、大きい。この「縁切りの場」から大詰に至る次郎左衛門の怒りの大きさの真実味をよりリアルにする効果をもたらしているものが、前半部の"いい人"ぶりなのだ。初役乍ら今回の勘九郎次郎左衛門、実に見事なものであった。花形では幸四郎も手掛けている役なので、令和の時代にこの二人の芸が深化して行く中で二つの次郎左衛門を観れるのは、これからの歌舞伎見物の楽しみが一つ増えたと云える。ぜひ近い内に、幸四郎の再演にも期待したい。

 

そして大和屋に教わったと云う七之助の八ッ橋。今が盛りの美しさで、まずその美貌に圧倒される。花魁道中で現れたところは、客席からジワが来た。不惑を迎えた七之助だが、既にして立女形の貫禄たっぷり。これぞ正に松の位の太夫職だ。そして花道七三での見染の笑いになる。これが素晴らしい。ここはかなり難しい様で、筆者が観た中で見事だったのは大和屋のみ。あの福助でさえ今一つであった。しかし今回の七之助は本当に見事。妖しく艶麗で、この世の者とは思えない何かを漂わせ乍ら、錦絵や人形とは違う、人間としてのどこか温もりも感じさせる花魁八ッ橋の微笑みであった。だからこそ次郎左衛門が一発で参ってしまったのだ。

 

そして圧巻であったのが「縁切の場」。大和屋に教わっただけに、科白廻しは完全に大和屋調。そして筆者が観た八ッ橋の中で、最も不機嫌で冷酷な八ッ橋。栄之丞に俗に云う「ケツをかかれて」縁切りさせられると云う動機としてはそうなのだが、本当に次郎左衛門を嫌っているとしか思えない冷酷さ。七之助のクールな美貌と相まって、次郎左衛門を完膚なきまでに叩きのめす。観ているこちらは心底次郎左衛門に同情を禁じ得ない。こんな結構な身請け話しを本当に断るのかと、その場の皆から迫られての「えぇもう、煩いわいなぁ」に至って八ッ橋の不機嫌は絶頂に達する。凄い迫力だ。座敷を出た後の思い入れに、僅かに次郎左衛門への思いが垣間見れるものの、見事な迄に冷酷な八ッ橋花魁であった。

 

大詰の「立花屋二階の場」で、機嫌を直した(擬態だが)次郎左衛門に、一転本当に申し訳なさげな八ッ橋に、勤めの身の哀しみが漂う。人払いをした後、徳利を差し出しての次郎左衛門「この世の別れだ、呑んでくりゃれ」の不気味な迫力は、流石芝居上手な勘九郎。床の間に置いた刀を抜きはらって「八ッ橋!」と絶叫し乍ら斬りつける次郎左衛門。海老ぞりになって崩れ落ちる八ッ橋に哀れが漂う。仲居迄斬り殺しての「籠釣瓶は、よく斬れるなぁ」は亡父勘三郎の様な狂気漂うとまではいかなかったが、迫力充分。中村屋兄弟、初役乍ら父の追善狂言に相応しい大奮闘であった。

 

脇では松嶋屋の栄之丞が今更云う迄もなく抜群の出来。今月傘寿を迎えるとは思えない若々しい色気。本当に凄い事だ。ただ若いだけでなく、ボンボン感を漂わす絶品とも云うべき科白廻しと相まって、正に当代の栄之丞。そして松緑初役の権八も、悪党なのだがどこか愛嬌も漂わせてこの優独特の味わい。こちらも見事。時蔵歌六と手練れが揃って、見応えたっぷりの「籠釣瓶」であった。

 

客席の入りも良く、各優熱演で大いに盛り上がった勘三郎追善公演。天国の中村屋も息子や孫の奮闘に、快心の笑みを浮かべているのではないか。しかし芸に妥協のなかった勘三郎の事、まだまだだと、厳しい顔をしているのかもしれない。改めて一代の天才役者中村勘三郎の、冥福を祈りたい。

歌舞伎座 猿若祭二月大歌舞伎 昼の部 鶴松・七之助の「野崎村」、獅童・芝翫の『釣女』

歌舞伎座昼の部を観劇。週末であったせいか、大入り満員。こんなに入っていたのは、團十郎襲名公演以来ではないだろうか。改めて亡き勘三郎へ熱い思いを抱いている見物衆が如何に多いかを思い知らされた。それだけに、その早世は惜しみても余りあるものであったと云う事だ。存命ならば来年は古希を迎える歳だ。円熟した素晴らしい芸を見せてくれていたであろうに・・・痛恨の極みとは正にこの事である。

 

幕開きは『新版歌祭文』から「野崎村」。あまり亡き勘三郎のイメージにはない狂言だが、生前に二度程勤めている様だ。そして何と十七代目も晩年に一度演じているらしい。当代では七之助福助のイメージが強い狂言。今回は勘三郎三人目の倅と云われた鶴松がお光に抜擢された。勘三郎の追善興行の、しかも歌舞伎座で主演する鶴松。喜びも一入でおろう。その熱い思いに溢れたお光であった。

 

配役は鶴松のお光、七之助の久松、児太郎のお染、彌十郎の久作、東蔵のお常と云う配役。中では七之助の久松が初役との事。筆者も大好きな狂言で、中でも歌舞伎座さよなら公演に於ける福助の熱演が思い出深い。鶴松は当然乍ら七之助に教わったと云う。福助歌右衛門~先代芝翫と受け継がれた成駒屋の型だが、鶴松は六代目から中村屋に受け継がれてきた型であるのが違うところだ。

 

そしてその鶴松だが、抜擢に応えた熱演を見せてくれている。熱演と云っても、力みかえったものではない。なますを抱えた出の浮き浮き感がまず良い。恋しい久松が帰って来てくれた事が嬉しく、祝言をあげられる喜びに溢れている。なますを切っているとほつれ髪が気になり、手鏡と包丁を合わせ鏡にして髪を整える。成駒屋型は鏡台を使う場なので、この型の違いが味わえるのも歌舞伎観劇の一つの楽しみでもある。

 

そして児太郎のお染の出になる。ここも如何にも義太夫狂言のお嬢様らしい所作で、まずは見事な出。しかし今回の児太郎は思いが先行してしまったのだろうか、舞台に廻ってからの科白廻しが、力が入りすぎてやたらキンキンして聞こえてる。久松を追いかけて来て、今回の場にはないが後段で心中してしまう情熱的なお嬢様を表現したかったのかもしれないが、児太郎ならもっと抑えた科白廻しで表現する事も出来たのではないか。

 

対する鶴松のお光は、お染に嫉妬して邪険に扱う所作が愛らしく、鶴松のニンにも叶って見事なもの。立役もこなす鶴松だが、筆者は元々鶴松には女形が合うと思って来た。歌舞伎座での初主演と云うプレッシャーに圧し潰される事もなく、女形の大役をきっちり演じている鶴松。亡き勘三郎の薫陶宜しきを見せつけられた思いがする。一方初役の七之助久松は、お光とお染の板挟みになる二枚目を、柔らかくそして情味深く演じてまずは見事な出来。

 

彌十郎の久作は何度も演じて自家薬籠中の役。大柄な身体をきっちり殺して如何にも百姓家の親爺らしい作り。そして娘へ満腔の思いを持ちながらも、主家に対する義理も感じている難役をきっちり演じて素晴らしい久作。東蔵のお常もいかにも大家の後家らしい雰囲気を出していて、間然とするところのない出来であった。結局お光は久松を諦め、髪をおろす。そしてお常・お染母娘が舟に乗り舞台上手に、久松は一人駕籠に乗って本花道へ入る。哀しい別れの場に、三味線のツインリードによる明るい「野崎」がかかる。音と画を調和させない対位法的な演出が、いつ見ても素晴らしい効果をあげている。黒澤明の『野良犬』のラストで、刑事と犯人が対峙する緊迫した場に、子供達が歌う「蝶々」が流れる場面を想起させる、筆者は大好きな場だ。

 

久松を見送ったお光が呆然と立ち尽くして、数珠を落とす。それを拾ってお光に渡す久作。そこで我に返ったお光が久作の胸に取りすがって泣き崩れ幕となるのだが、号泣する成駒屋型とやや異なり、少し抑えた調子ですすり泣くのが六代目の型。これもまた素晴らしい。今回は勘三郎追善公演と云う事での抜擢であったろうが、これだけに留まらず、今後も折につけ鶴松には大役に挑ませてあげて欲しいと思う。それに応える力もあり、精進も怠らない役者であると、筆者は確信している。

 

続いては『釣女』。松羽目物の傑作喜劇。一昨年松緑幸四郎のコンビが絶品であった。今回は獅童の太郎冠者、芝翫の醜女、萬太郎の大名某、新吾の上臈と云う配役。何て全員初役との事。同じ松羽目物の『身替座禅』で傑作とも云うべき女房ぶりを示した芝翫が、今回は醜女。今月の芝翫は三役全て初役だと云う。還暦近い芝翫だが、その意欲に衰えは見られない。素晴らしい事だ。

 

この狂言は比較的入れ事が出来る芝居だが、今回は獅童芝翫がより自由に演じている。芝翫にキスを迫られた獅童が思わず笑ってしまう場面もあり、これを当て込み過ぎと捉える向きもあるかと思うが、見物衆には大受けで、筆者も楽しめた。獅童芝翫も天性の愛嬌があり、それが如何にもこの狂言に相応しい。新吾も美しく気品があり、萬太郎はこの優らしくきっちり演じて悪くない。何より客席が沸いており、前後の芝居がマイナートーンなだけに、いい清涼剤的な幕になっている。面白く観れた一幕であった。

 

この後打ち出しが中村屋兄弟初役『籠釣瓶花街酔醒』なのだが、長くなりそうなのでまた改めて綴りたいと思う。