fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

歌舞伎座 三月大歌舞伎 昼の部 菊之助・愛之助の「寺子屋」、先代京屋追善『傾城道成寺』、松嶋屋・幸四郎の「綱豊卿」

歌舞伎座昼の部を観劇。今月も歌舞伎座は追善興行。今月は先代雀右衛門の十三回忌だ。傘寿を過ぎて尚若々しく、三姫や道成寺を得意としていた先代京屋。晩成だった人で、歌右衛門とほぼ同世代乍らその真価が発揮されたのは平成になってからだった(歌右衛門がその芸と美貌に嫉妬して、抑え込んでいたと云う説もあるが)。大正生まれにも関わらず、平成を代表する女形と云っていいだろう。しかし芸風は古風で、正に名人女形の名に相応しい名優であった。

 

後先を考えず、今回はまずその追善狂言『傾城道成寺』から。先代京屋の長男友右衛門の妙碩・次男当代雀右衛門の清川実は清姫の霊に、松緑安珍実は維盛、廣太郎の経胤、廣松の三郎、亀三郎の花王、眞秀の駒王、音羽屋の尊秀と云う配役。筆者は初めて観る狂言雀右衛門松緑以外の役は、今回新たに書き加えられたものの様だ。江戸時代からある古い狂言の様だが上演が途絶えていて、戦後になって復活された道成寺物らしい。

 

まず雀右衛門がやはり素晴らしい。本当に亡き父先代京屋に似てきたと云う印象。親子だから風貌が似ていると云う事もあるが、古風な雰囲気が先代生き写しである。道成寺物は女形が演じると女性の妄執を感じさせる事が多いが、この優だとそこはかとなく儚さが漂う。妄念と云うより報われない切ない慕情と云った雰囲気があるのだ。これが当代の持ち味の一つで、舞踊の技術がしっかりしているのは当然なのだが、この儚さが他にない個性になっている。当節、真に得難い女形であると改めて思わされた。

 

他は本当にこの雀右衛門を引き立てる役なので、松緑ほどの舞踊の名人を使い乍ら特に為所はない。しかし京屋と姻戚の明石屋が舞台に揃う事も少ないので、これは追善らしい貴重な舞台絵。最後音羽屋の尊秀が現れ、その歌舞伎座の大舞台をも圧する貫禄で全てを持って行ってしまうのは、やはり役者の格と云うものであろう。殆ど座っている役であったので、正月に少々危なげであった足の状態は判らなかったが、元気な舞台姿が観れたのは嬉しい限り。音羽屋にはいつまでも元気であって欲しいものだ。

 

続いてその前に演じられた『菅原伝授手習鑑』から「寺子屋」。近年岳父の亡き播磨屋の芸を継承する事に傾注している菊之助。正月の梶原に続き、今月は本命とも云うべき松王丸を持って来た。配役はその菊之助の松王、愛之助の源蔵、新吾の戸浪、鷹之資の涎くり、橘太郎の吾作、萬太郎の玄蕃、梅枝の千代、東蔵圓生の前、加えて菊之助の愛息丑之助の小太郎。愛之助東蔵・鷹之資以外は初役の様だ。世代交代の時期にさしかかっている歌舞伎界。最近は本当に初役が多い印象だ。大名題が元気な内に芸を繋いで行くのは、伝統芸能として大切な事であろう。

 

そしてその菊之助松王だが、結論から書くと残念乍ら万全とは云い難いものであった。まず何よりニンでない。ニンでない役をしおおせるには、やはり経験が必要であろう。女形も兼ねる菊之助なので、どうしても線の細さが気になってしまうのだ。芝居上手な菊之助なので、後半の松王二度目の出からは情味溢れる松王を見せてくれる。この狂言は時代物乍ら、松王二度目の出からは時代世話的な場になる。ここは流石菊之助、芝居の上手さで感動的な場にしている。我が子を失い、泣き崩れる妻千代に向かい「御夫婦の手前もある。泣くな」と自らも涙ながらに諭す場は、観ているこちも思わず涙が出そうになる。

 

しかし前半が厳しい。松王らしい描線の太さがなく、義太夫味も薄い。この前半はかなり様式的なので、義太夫味が薄いのは致命傷なのだ。五十日鬘姿もぴたりと嵌まっておらず、出からして軽い印象。玄蕃を前にして咳込むところもリアル過ぎて義太夫狂言らしくない。玄蕃と共に源蔵宅に入り、「生き顔と死に顔は相貌の変わるもの」の科白も義太夫味に欠ける。源蔵が首桶を持って戻って来たところで「源蔵夫婦を取巻き召され」をカットしているのは本文に沿ったのかもしれないが、播磨屋高麗屋もここはカットしていない。この辺りも義太夫味の薄さを自覚しての事なのかもしれない。

 

首実験の場は、首桶を開ける手が僅かに震える辺りに父親の情が滲み、菊之助の芝居の上手さが光るが、それとて全体を救うには至っていない。しかし菊之助が発言していないので判らないのだが、今回の初演に対し一体誰に教わったのだろうか。播磨屋に直接教わっていたとは思えない。かと云って高麗屋に教えを乞うたとも思えない。他に指導を仰ぐとしたら松嶋屋だろうが、それなら松嶋屋のおじ様に教わったと云いそうなものだ。もし映像と過去の自分の共演経験だけで演じたとしたなら、余り良い事ではないと思う。復活狂言ならともかく、こう云う古典の大役の初演は、しっかり誰かに教えを乞うて勤めるべきであろう。ましてや自分のニンにない役なら猶更だ。その意味でも、改めて播磨屋の急逝が惜しまれてならない。

 

対する愛之助の源蔵は、松嶋屋マナーをきっちり守って良い出来。充分とはいかないが義太夫味もあり、この役の背負っているものをしっかり感じさせる源蔵。女房の新吾戸浪とのイキも合っており、この源蔵夫婦は結構な出来であった。そして何より立派であったのは、梅枝の千代。こいつまた梅枝かと云われそうだが、良いものは良いので仕方がない(苦笑)。義太夫味もきっちりあり、その所作は見事にイトに乗っている。息子を失って嘆くところも丸本の節度を守って大袈裟にならず、それでいて母親の情味はしっかり出ている。六月に時蔵襲名が発表されている梅枝。初役とは思えない見事な千代であった。

 

菊之助に厳しい物云いになってしまったが、筆者としては基本的に大好きな優。再演の際には、より深化した松王を見せて貰いたいと願っている。最後に一つ付け加えると、小太郎を演じた丑之助は、やはり只者ではない。本当に出番は短いのだが、師匠である源蔵の前に手をついて見上げた時のその表情に、子供乍らこの後自らが辿る運命への覚悟が感じられる。すなわち役が肚に入っているのだ。音羽屋と播磨屋の最強DNAを受け継いだ丑之助。今この子が示しているものが今後見事に開花したならば、令和の歌舞伎界はとんでもない役者を手に入れる事になるであろうと、一応それらしく予言しておく。

 

打ち出しは『元禄忠臣蔵』より「御浜御殿綱豊卿」。云う迄もなく、松嶋屋十八番中の十八番。松嶋屋高砂屋と云う個性の違う名人役者二人の綱豊卿が観れたのは、筆者の歌舞伎観劇の思い出の中でも特別なものとして記憶に深く残っている。配役はその松嶋屋の綱豊卿、幸四郎の助右衛門、梅枝のお喜世、孝太郎の江島、萬次郎の浦尾、由次郎の九太夫歌六の勘解由。中で久々に由次郎の元気な姿に接しられたのは嬉しい限り。

 

松嶋屋の綱豊卿に、筆者が今更どうこう云う事もない。その艶、位取り、気品、謳うが如き名調子と相まって、名人芸としか云い様のないものだ。筆者が観劇した日は歌六に科白が充分入っておらずハラハラさせられる部分もあったが、その勘解由を前にして「討たせたいのぅ」と赤穂浪士に対する真情を吐露する科白廻しに万感の思いが溢れ、実に聴きごたえたっぷり。自分に食ってかかる助右衛門に、「助右衛門、そちゃオレに憎い口をききおったぞ」と云い残して座敷を去る姿は、正に千両役者のそれである。

 

大詰の吉良少将と思い違いをして槍を繰り出してきた助右衛門を取り押さえての長科白は、もはや聴き惚れるしかない。対する幸四郎の助右衛門も、この優らしく真っすぐな心情を変に拗ねる事なく綱豊卿をぶつけていて、「御浜御殿元の御座の場」に於けるこの二人の芝居は実に見応えたっぷり。助右衛門が嫌味でも皮肉でもなく、正面から自分にぶつかってきて、六代将軍の座を望む故の作り阿保であろうと綱豊卿の急所を突いたので、それまで助右衛門をあしらっていた綱豊卿が激高するのだ。ここの場の迫力もまた、素晴らしいものであった。その他梅枝・孝太郎・萬次郎・歌六と、脇も充実していて、実に見事な「御浜御殿綱豊卿」。先の「寺子屋」に少々不満を云ったが、そんなものはどうでもよくなる程の素晴らしさであった。

 

今月はこの後の夜の部に加え、京都南座も観劇予定。その感想は観劇後、改めて綴りたい。