fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

平成中村座 十月大歌舞伎 第一部 勘九郎・七之助の「角力場」、獅童・勘九郎・扇雀の『極付幡随長兵衛』

平成中村座第一部を観劇。コロナ禍により開催されていなかった平成中村座が、浅草の地に帰って来た。江戸時代の芝居小屋を模して造られた会場は客席と舞台が近く、実にいい雰囲気。ついでにチケットも歌舞伎座よりはリーズナブル。いい事尽くしの公演だ。これを観ない手はない。そして会場の良さだけでなく、芝居も各優力のこもった熱演で、歌舞伎を堪能。大向うがないのが残念だったが、客席も熱気に溢れていた。

 

幕開きは『双蝶々曲輪日記』から 「角力場」。勘九郎の長五郎、虎之介の長吉、新悟の与五郎、七之助の吾妻と云う配役。何と全員が初役らしい。虎之介と新悟は幸四郎に、勘九郎白鸚に教わったと云う。まるで高麗屋の監修狂言だ。いかにも平成中村座らしい配役と云えるだろう。この様に歌舞伎芸と云うものは伝承されて行くものなのだと云う、見本の様な出し物と云える。

 

勘九郎は二年前の歌舞伎座で、高麗屋の濡髪を相手に放駒を演じている。自身もその時の、高麗屋演じる人間としての大きさに溢れていた濡髪が印象的だったと云う。筆者も観劇したが、この世の者とは思えない大きな物が舞台上に現れ、圧倒されたのを覚えている。その時のインパクトがあまりに強烈なので、やはり今回の勘九郎濡髪は線が細く小粒な印象になってしまうのはやむを得ない。当代きっての名人高麗屋が何度も手掛けている濡髪と、勘九郎初役の濡髪を比較するのは当人には酷な話しだと思う。今のところ、勘九郎はニンとしては放駒の方が合っている。

 

しかしこれが歌舞伎の面白さで、高麗屋相手の勘九郎放駒が釣り合っていた様に、勘九郎濡髪に対するには虎之介の放駒が芸格としてはまっているのだ。勿論スケールダウン感は否めないが、虎之介放駒に対する勘九郎濡髪はいかにも大きく、人物的に圧倒しているのだ。その大きさに懸命に対抗しようとする虎之介放駒の健闘ぶりが観ていて心地よい。しかも舞台が歌舞伎座よりも大分小さい中村座なので、その意味でも舞台にしっかり嵌っている。最後舞台上に極まったところは実に絵になっており、両優の手一杯の芝居を楽しめた一幕だった。

 

脇では新悟が慣れないつっころばしの役を好演。幸四郎に全てが可愛らしく見えなければいけないと教えられたそうだが、正にその通りの与五郎。七之助の吾妻はこの中に入ると流石の貫禄。その美しさは舞台を圧していた。若々しい配役で、観ていて実に気持ちの良い狂言となっていた。今度はもっと芝居を大きく練り上げて貰い、歌舞伎座での再演に期待したい。

 

打ち出しは『極付幡随長兵衛』、通称「湯殿の長兵衛」。ご存じ黙阿弥の代表作で、筆者も大好きな狂言。これが観たくて来たと云う部分もある。配役は獅童の長兵衛、勘九郎の十郎左衛門、七之助のお時、新悟の頼義、虎之介の清兵衛、鶴松の柏の前、片岡亀蔵が公平と登之助の二役、扇雀の権兵衛、そして獅童の愛息陽喜君が長松を勤める。七之助は二度目らしいが、獅童勘九郎は初役。しかしこれが実に立派な出来であった。

 

筋書によると叔父である萬屋錦之助の子分役で出た事が印象に残っていると云う。筆者もその芝居は映像で観たが、惚れ惚れする様な長兵衛だった。その錦之助の血筋を引く獅童、初演にあたり高麗屋に指導を仰いだと云う。高麗屋からある有名な外国映画が参考になるとアドバイスされ、それが役作りのものすごいヒントになったらしい。如何にも歌舞伎のみならず現代劇にも精通した高麗屋らしい教え方だと思う。

 

その初役獅童が実に若々しい立派な長兵衛像を作り上げてくれた。近年長兵衛と云えば亡き播磨屋が思い出される。播磨屋の長兵衛は正に堂々たる大親分で、科白廻しも見事な黙阿弥調で素晴らしいものだった。しかし実在の長兵衛は亡くなった時もまだ三十代。その意味で獅童の、若さと力が科白の端々に溢れる長兵衛は、理に適っているとも云える。歌舞伎なので現実に即する必要は必ずしもないが、今回の獅童長兵衛の行き方は、共感できる。

 

客席から現れた時の颯爽とした姿、花道で金左衛門をやりこめる時の鯔背な所作と科白廻し、初役らしからぬ見事なものだ。ただ二幕目の「長兵衛内の場」は竹本が入る重厚な場で、ここでの「この間から吉原や、相撲・芝居で幾度となく」から始まる長兵衛の心情を吐露する長科白は、まだしっかり肚に落ちておらず今一つコクがない。しかし同じ場のお時や長松との別れの場は、七之助の好演もあり見応えがある。長松が実の息子の陽喜君だったと云う事もあったかもしれないが、「達者でいろよ」の涙混じりの科白には観ているこちらの胸にぐっと迫ってくる真実味に溢れていた。

 

大詰の湯殿での立ち回りは、流石獅童とも云うべきキレのある所作で、ここの迫力はベテラン役者を凌ぐものがある。名門の出乍ら父が役者を廃業した為、他家の御曹司に比べ何かと不遇をかこつ事が多かった獅童だが、この優が積み上げてきたものは本物の手触りがある。それは今回の長兵衛が証明している。最近のインタビューで松嶋屋が「彼には期待している」と語っていたが、年末にはその松嶋屋と顔見世で共演する。今後更に大きな役者となって、幸四郎松緑猿之助などと共に歌舞伎界を支えて行って貰いたいと思う。

 

対する十郎左衛門の勘九郎が、これまた見事な出来。当代十郎左衛門と云えば音羽屋と松嶋屋だろう。この二人の名人役者にかかれば当然の事とは云え、悪の手強さと旗本らしい見事な位取りの芝居は文句の付け様のないものだ。しかし十郎左衛門も長兵衛を殺害した時の年齢はまだ二十代。その意味で今回の勘九郎獅童同様若さ溢れる気持ちの良い(?)悪役ぶり。重厚さはまるでないが、終始旗本の我儘なボンボン気性で押し通しており、筆者的には実に新鮮な十郎左衛門像だった。加えて謡うがごとき黙阿弥調はとても初役のそれではない。獅童とは芸格の釣り合いもバッチリで、二人の火花散る様な芝居が中村座の舞台を覆いつくして、見応えたっぷりだった。

 

脇では先に触れた七之助が、「角力場」の吾妻とは声もきっちり変えて情味溢れる世話女房ぶりで見事な出来。扇雀の権兵衛は流石の貫禄で寧ろ兄貴分に見えてしまうが、上方の役者とは思えない江戸前の科白廻しで、まずは文句のない出来。陽喜君はまだ四歳との事で本当に小さく、長松を演じるにはまだ若干早いのかもしれないが、初々しく愛くるしい所作で見物衆から一番大きな拍手を受けていた。それと面白かったのは、「村山座舞台の場」で公平問答の芝居を桟敷で見物していた十郎左衛門が舞台の長兵衛に声をかけて姿を現す場面。中村座には十郎左衛門が座る桟敷がない。どこから出るのだろうと思っていたら、二階下手の一番後ろに現れて、周りの見物衆を驚かせていた。これなど歌舞伎座では観られない中村座ならではの工夫で面白い見ものだった。

 

時間とお金の関係で二部は観られないが久しぶりの平成中村座、花形の芝居をたっぷり堪能させて貰えて、大満足だった。来月は團十郎襲名のチケット代が高額なので(苦笑)観られないかもしれないが、来年以降もまた浅草での上演に期待したい。