歌舞伎座昼の部を観劇。團十郎が歌舞伎座に出る貴重な月である。近年の團十郎は、襲名公演は別として、團菊祭のある五月とこの七月しか歌舞伎座に出ないと云う形が続いている。松竹としても、どこへ行っても客を呼べる團十郎を、わざわざ歌舞伎座に出す必要はないと考えているのかもしれない。しかし歌舞伎の総本山とも云うべき歌舞伎座に、梨園の総帥とも云うべき團十郎があまり出ないと云うのも寂しい話しだ。入りは流石に満員に近い盛況であった。
今月は昼夜とも通し狂言なので、出し物は『星合世十三團』のみ。五年前に初演された團十郎のオリジナル狂言とも云うべき芝居だ。『義経千本桜』の主要な役柄十三役を、團十郎独りで早替わりにて勤めると云う、意欲的と云うべきか無謀な挑戦と云うべきか、兎に角こんな事は團十郎しか思いつかないのではないだろうか。この優は、他の役者と考えている事が違う様に思える。その事に詳しく触れる余裕はこの項にはないが、いずれにしても、稀有な役者である事は間違いない。
配役は團十郎が、藤原朝方・卿の君・川越太郎・武蔵坊弁慶・銀平実は知盛・入江丹蔵・小金吾・権太・弥左衛門・弥助実は維盛・佐藤忠信・忠信実は源九郎狐・覚範実は教経の十三役、雀右衛門の静御前、右團次の五郎、児太郎の小せん、廣松が八郎と若葉の内侍の二役、男寅の三郎、莟玉が十郎とお里の二役、青虎の六郎、九團次の次郎、市蔵の大之進、家橘の作兵衛、男女蔵の景時、魁春のお柳実は典待の局、筆者が観劇した日は高砂屋休演で、松也の義経であった。
筆者は初演も観ているので、早替わり自体にはさほどの驚きはなくなっている。発端だけで三役早替わりなので、とにかく出たり入ったり、斬ったり斬られたり、目まぐるしい事この上ない。團十郎自身も百も承知であろうが、芝居をじっくり見せると云う趣向ではない中で筆者的な関心は、それではどの役が一番良かったかと云う点になる。十三役の内、ニンとしては権太であろう。「椎の木の場」における、いかにも一癖ありそうな眼つき、子供と戯れるところの優しみ、いずれも團十郎らしい権太で結構なもの。
続く「釣瓶鮨屋の場」の、母親に甘えながら金の無心をするところの自然な愛嬌もまた素晴らしい。しかし肝心の、父に刺されての戻りの場面は、刺す方の弥左衛門と、刺される権太を両方團十郎が演じているので、屏風で隠したり奥に引っ込んだりと忙しなく、芝居に入り込めない恨みが残る。これは役を兼ねる以上致し方なかったろうとは思うが、部分部分で垣間見せる権太像が見事であったので、今度は正調の「鮨屋」を観てみたい。結構なものになると思う。
その他の役で時間をかけてじっくり演じた役は、碇知盛と、狐忠信と云う事になる。この二つで素晴らしかったのは、知盛だ。これは團十郎も十三役の中で最も力を入れて演じていた様に思われる。血まみれの満身創痍で花道を出て来たところの凄絶な迫力。身体に刺さった矢を抜いて舐める松嶋屋型がより一層の凄みを出している。舞台に廻って義経に対峙し、敗れたと思い乍らもせめて一太刀と暴れまくる気迫満点の所作も素晴らしい。「三悪道」はカットであったが他に大きなカットもなく、この場にかける團十郎の思いが伝わって来る見事な知盛。
ここで蛇足だが、この狂言の解釈について一言述べておきたい。知盛は、安徳帝に義経のお陰で命が助かったのだと諭されると、「やれ嬉しや」と怒りを鎮め、帝の行く末を義経に頼んで入水する事になる。ここがこの場の肝で、知盛は「昨日の敵は今日の味方」と云っている。源平のレベルでは敵同士の知盛と義経だが、その上に天皇が出て来ると、帝の臣下として敵でも仇でもないのだと云う事になる。江戸時代に書かれた狂言だが、ここに作者の武士批判、戦批判が込められている。この狂言を常に勝組につく天皇制への批判と解釈している向きもある様だが、それは違う。武士より上位の天皇を持ち出す事により、長く庶民を支配し続けた武士階級による封建制への批判となっているのだ。何度もこの芝居を観て来て、筆者にはそうとしか思えない。まぁ純粋に芝居を楽しめば、それで充分ではあるのだが。
閑話休題。
最後の入水の場も迫力満点。團十郎渾身の演技で、長い狂言であるが、ここがクライマックスの場であったと思う。これもまた改めて正調の「大物浦」として観てみたいものだ。その他脇を支えた魁春の典待の局は流石大歌舞伎の素晴らしさであったし、高砂屋代役の松也義経もニンであり、見事な位取りで急な代演とは思えない立派な義経であった。この場は本当に見応えがあり、流石は團十郎と思わせる知盛であったと思う。
もう一つの狐忠信。ここは今月芝翫で観ており、まさかひと月の間に二つの「四の切」が観れるとは思わなかった。團十郎のニンとしては、本物の忠信の方が適している。しかし今回の忠信は刀の下げ緒をといて縛り縄にする所作もカットされており、出の見事さはあるものの、特に為所がないのが残念。團十郎の狐忠信は芝翫と真逆で狐言葉をかなり強調した科白廻しとなっている。これはこれで正しい演じ方ではあるが、その肝心の狐言葉の狐感が強調され過ぎていて、些か聞き辛い。見物衆からも時として笑いが起こっていたのは、その余りに強調され過ぎた科白廻し故であったろう。
ケレン的な所作は芝翫より遥かに軽やかで、團十郎の身体能力が充分に生かされている。初音の鼓に頬ずりするところもこの優天性の愛嬌が滲み、微笑ましさを感じさせる。全体としては悪くはないのだが、ニンでない事もあり、知盛や権太の様には行かなかった様に思う。もしまた狐忠信を演じる際には、狐言葉に更なる創意工夫を望みたい。最後は忠信の團十郎が教経と朝方の團十郎を大立ち回りの末討ち果たし、幕となった。
兎にも角にも十三役を演じ分けた團十郎大奮闘の狂言。流石の團十郎も、五十を過ぎれば演じるのが厳しくなる可能性もある。その意味では、團十郎が演じるには今が旬の狂言であったのかもしれない。来年の正月には新橋演舞場で「忠臣蔵」を『双仮名手本三升』として今回の様に通しで上演すると云う。楽しみでもあり、恐ろしくもあり(笑)、と云ったところであろうか。