七月大歌舞伎昼の部を観劇。音羽屋の襲名公演に二ヶ月続けて出演した團十郎。七月は例年團十郎の責任興行月ではあったが、流石に今年は出ないのではないかと思っていた。しかし家の芸である新歌舞伎十八番を引っ提げて、七月も歌舞伎座に出演してくれた。團十郎が歌舞伎座に三ヶ月連続で出るのは何年ぶりであろうか。少し大げさかもしれないが、歴史的な事である。新之助・ぼたんも出演するとあってか、ほぼ満員の盛況であった。
歌舞伎十八番に比べ、一部の作品を除いては上演頻度が少ない新歌舞伎十八番。今回四作品を立て続けに観劇して、やはり作的には歌舞伎十八番に比べて見劣りがするのは否めないところだと改めて実感した。しかし中では今回團十郎が演じた『船弁慶』と『紅葉狩』は例外的な作品である。能かがりで、立派な松羽目物であると思った。配役は『船弁慶』が團十郎が静御前と知盛の霊、右團次の弁慶、虎之介の義経、九團次・廣松・歌之助・新十郎の四天王、福之助の浪蔵、巳之助の岩作、高砂屋の三保太夫。『紅葉狩』は團十郎の更科姫実は鬼女、雀右衛門の田毎、虎之介の左源太、廣松の右源太、男女蔵の岩橋、ぼたんの野菊、新之助の山神、幸四郎の維茂。團十郎と幸四郎以外は皆初役の様である。
どちらの演目も、團十郎の前シテは女形である。以前から同様の印象であるが、團十郎の女形は厳しい。まずニンでないのが一番であるが、体型が筋肉質で硬く女形の柔らかさが出せない。能がかりなので他の芝居と違い女形にそれ程の柔らかさは必要とされないが、それにしても静御前とお姫様である。もう少し艶やかさが欲しい。加えてその舞踊も腰高で、女形舞踊としては辛い点数をつけざるを得ない。殊に静御前の方はそうだ。ただ『紅葉狩』の更科姫は後に鬼女となる役なのでその妖しさは漂っており、出来としてはこちらの方が良い。初演した九代目團十郎も、写真を見る限り当代の様な筋肉質体型であり乍らその芝居は絶賛を博したと云うから、その意味で当代は成田屋らしい正統的な後継者と云えるのかもしれないが。
後シテの方はどちらも團十郎が得意としている分野なので、どちらも結構な出来である。そしてこちらも出来としては『紅葉狩』の鬼女の方が良い。描線が太く、松羽目物らしい古怪さもある。力感もたっぷりで流石とも云うべき出来である。『船弁慶』の知盛の霊も悪くはないが、意外に作りがリアルで出来としては若干劣る印象。加えて虎之介の義経が行儀は良いが源家の若大将らしい位取りに欠けており、右團次の弁慶は立派な出来ではあったものの、水っぽさを感じさせる『船弁慶』となっていた。
中で抜群の出来であったのが、『紅葉狩』に於ける幸四郎維茂。ニンである事が大きいが、右源太・左源太を従えて花道を出て来たところ、劇場がパッと明るくなったかの様に感じさせる。姿も所作も実に美しく典雅であり、これぞ平家の公達である。こう云う役をさせたら当代幸四郎に並ぶ役者はいない。更科姫を疑い、心を許さない芝居も緊張感があり、それがそのまま後段の鬼女との立ち回りに繋がっている。昼の部四狂言の中で、團十郎鬼女・幸四郎維茂と二人のニンが揃った『紅葉狩』が白眉の出来であった。
残りの二狂言、『大森彦七』の配役は右團次の彦七、九團次の左衛門、廣松の千早姫、『高時』は巳之助の高時、笑三郎の衣笠、福之助の三郎、新蔵の入道、梅花の渚、市蔵の陸奥守。あまりかからない狂言なので、市蔵以外は皆初役の様である。上演頻度が高くないだけあって、作としてはさのみ優れた狂言とは思えない。『大森彦七』の方は中身が薄く、現代の見物衆の理解を得るのは厳しい様に思う。『高時』の方がまだしも見どころはあるが、こちらは天狗との田楽舞が長く、かなり冗長に感じられる。
中では右團次の彦七が古格な科白廻しが素晴らしく、後半の楠正成の霊が憑依したかと思わせる狂気を装った芝居も真に迫って見事なもの。この優の培ってきた実力に改めて驚かされた。そしてもう一役『高時』の巳之助高時も、権力者であり乍ら世に拗ねた様な少し影のある不機嫌な芝居が上手く、執権らしい大きさには若干欠けるものの、初役らしからぬ出来。團十郎が出ておらず今一つ盛り上がりに欠けた二狂言の中で、筆者的にはこの二人の芝居が印象に残った。
最後に蛇足だが、今回児太郎が休演となった。急な代演であった笑三郎・廣松・雀右衛門(休演の役者よりかなり格上の役者が代演を勤めるのは珍しい)がそれぞれ必死に穴を埋めていた。報道されている事が事実であるとしたならば、どんな理由があるにせよ、女性に手をあげるなぞ男子の風上にも置けぬ。しっかり謝罪反省した後、前にも増して舞台に全力を傾注し、素晴らしい芝居を見せて貰いたいと願っている。