続いて秀山祭夜の部もう一つの狂言『勧進帳』。云わずと知れた歌舞伎十八番の筆頭演目である。七代目團十郎が作り、九代目が完成させた狂言。しかし記録によると七代目も九代目もそれ程多く演じてはいない様である。この狂言を歌舞伎最高の人気狂言にしたのは、九代目の高弟七代目幸四郎。生涯で千六百回演じたと云われる。以後成田屋も勿論演じているが、高麗屋の上演が群を抜いて多い。謂わば高麗屋の家の芸とも呼べる狂言である。
当代では何と云っても現白鸚が千二百回近く演じて、平成の弁慶と云えば白鸚の感があった。筆者も何度か観たが、それはそれは素晴らしい弁慶であった。そしてそれを受け継いだのが、当代幸四郎である。「弁慶を演じたいが為に歌舞伎役者になったと云っても過言ではない」と発言している幸四郎。四十過ぎ迄演じていなかったのでトータルの上演回数では当代團十郎には及ばないものの、幸四郎襲名以降は頻繁に演じて完全に自分のものとしている。
配役はその幸四郎の弁慶、菊之助の富樫、高麗蔵・歌昇・種之助・友右衛門の四天王、染五郎の義経。高麗屋の『勧進帳』で常陸坊と云えば錦吾と云うのが定跡であったが、今回は友右衛門。初役の様だ。筋書によると友右衛門は、先代白鸚の弁慶の時に太刀持ちを勤めたのが初舞台だったと云う。その後亀井六郎を最初に勤めたのが当代白鸚の幸四郎襲名の時で、今回幸四郎の弁慶で初役の常陸坊を勤める事となった。高麗屋三代の弁慶に付き合っている友右衛門。改めてその長い芸歴を思わせる。ぜひ元気で長生きして頂き、いつか染五郎が弁慶を勤める時にも常陸坊で支えてあげて欲しいものである。
幸四郎は九年前に初めて弁慶を演じた。その後暫く演じる機会がなく、次に演じたのが六年前の一月、幸四郎襲名公演の時であった。その時富樫を演じたのが亡き播磨屋。流石にその貫禄に圧倒されている感があった。その後襲名興行で七月の大阪松竹、十一月の南座と立て続けに演じた。筆者はその全てを観たが、大阪での弁慶が一月に比べて格段に進歩していた。その際にこのブログで「これ程出来るなら、ぜひ滝流しを付けて欲しい」と書いた。筆者の思いが届いたのか(全く関係ないと思うが)南座で滝流し付きの弁慶を観る事が出来た。見事な出来であった。
その後五年前と三年前にも歌舞伎座で演じており、その全てに滝流しが付いていた。しかし今回は滝流しはナシ。幸四郎によると「叔父は滝流しを付けていなかった。今回は叔父を偲んで滝流しはつけない」との事。叔父への追悼の思いが伝わって来る。幸四郎が丸本狂言を演じる際にも書いたが、父の様な天性の名調子を持ち合わせていない幸四郎なのだが、自分の声を完全に把握し、その中で何が出来るかを試行錯誤の末に掴んだと思える今回の弁慶であった。
父が名調子を聞かせてくれた「読み上げ」でも、必要以上に声を張らない。しかしだからと云って逃げている訳ではない。勧進帳の読み上げとして違和感のない実に自然な読み上げ。團十郎の様に声がある人は張れば良いし、なければないで自分の往き方で演じれば良いのだ。無論張らなければならない箇所はある。例えば読み上げ最後の「帰命稽首、敬って申す~」のところなどはその後に長唄で〽天も響けと、読み上げたり、とある。ここは張らなければならない。しかしそこは幸四郎の出せる範囲の甲の声で、音が割れる事なく、きっちり張れている。幸四郎が自分の声を把握したと思える場面である。幸四郎の声は低音なので、呂の音は厚みのある声が出る。それを使って実に緊張感のある読み上げを聞かせてくれていた。
高麗屋の弁慶は、兎に角義経を護ると云う一念に貫かれた弁慶である。その思いが溢れ、裂ぱくの気迫となって弁慶の身体全体から立ち昇る。一方成田屋はこの家らしい荒事味が強調された弁慶で、より古風な味わいがある。その意味で高麗屋の弁慶は近代的な弁慶と云える。その正統的な後継者として幸四郎は、熱い思いが溢れる見事な弁慶である。「山伏問答」に於ける富樫とのやり取りに、その気迫が最も顕著に表れる。富樫演じる菊之助は元々クールな芸風なのだが、幸四郎の思いに応えるかの様に、ここは迫力満点の詰め寄り。芸格の釣り合いもよく、実に見応えたっぷりな場となっている。
義経に似ていると指摘された合力(本当に義経なのだが)を打擲する場は、何の躊躇いもなく金剛杖を振り下ろす。ここは父白鸚は思い入れをして振り下ろしていた場で、よく批判されていた。あれでは富樫にバレると云うのだ。しかしこれは松羽目物である。所作をリアルに捉える必要はあるまい。あれは白鸚の一つの見識で、批判されてもやめる事はなかった。團十郎も白鸚程ではないが、ほんの僅かに思い入れをして振り下ろしている。しかし幸四郎は躊躇しない。これも幸四郎なりの見識であろう。
そして「判官御手を」の場の主君を打擲した事への恐懼。その思いが客席にも響いて来る。染五郎の義経がまた気品に溢れ、形の良さは流石高麗屋の跡取り。観ていてため息が出る程だ。続く戦物語もまた見事。唯一ツケの入る「石投げの見得」の形の良さは、幸四郎らしさ全開である。そして筆者が常々書いている幸四郎弁慶の最大の見せ場「延年の舞」。舞踊の名手幸四郎の長所が最も発揮されている場で、きっちりとしていながら大きさもあり、そして形の良さは無類のモノである。扇を花道のツケ迄豪快に飛ばして踊る幸四郎弁慶。幸四郎の高い身体能力が遺憾なく発揮されている。ここは筆者が今まで観た弁慶の中でも、最高としか云い様のないものだ。
義経達を先に立たせて、一番最後に花道にかかる。七三で振り返り、富樫を見る。富樫が袖を巻き上げて幕が引かれ、富樫と天に深々と礼をして、いよいよ最後の「飛び六法」。花道を目一杯使った豪快な六法。ここの運動量の多さは、壮年期でなければ出来ないものであろう。荒事味もしっかりあり、ここでも形の良さが実に見事。緊張感も漲っており、引っ込みの背中に、これから陸奥への旅に降りかかるであろう幾つもの困難に立ち向かう覚悟の様なものさえ感じさせる、素晴らしい「飛び六法」であった。
菊之助を始めとした各優も実に見事で、これぞ令和の『勧進帳』。年に一回位は観たいものだ。それ位のペースで演じて行かないと、中々お父っつぁんの回数には達しないし(笑)。前幕の「吉野川」と云い、この『勧進帳』と云い、本当に充実した狂言立てで、歌舞伎を満喫できた令和六年の「秀山祭」夜の部であった。