fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

六月博多座大歌舞伎 昼の部 彦三郎・萬太郎の『橋弁慶』、菊之助の『鷺娘』、音羽屋の「すし屋」

続けて博多座昼の部を観劇。入りは大体夜の部と同じ位だったろうか。夜の部は大作二演目だったが、こちらは三演目。本当に今年の博多座はいい演目が揃っている。これだけの狂言と役者が並んでいると、東京からでも行きたくなると云うものだ。毎月こんな狂言をかけてくれるなら、博多に住みたくなる(笑)。

 

幕開きは『橋弁慶』。彦三郎の弁慶、萬太郎の牛若丸と云う配役。松羽目物だが従来と違い五条橋に柳、松林の大道具で、かなり印象が変わって見える。いい工夫で、筋書によると彦三郎の提案なのかもしれない。京都の夜の雰囲気を味わって貰いたかったと云う。若い乍らも踊りが達者な二人、イキも合っていい舞踊を見せてくれている。彦三郎の弁慶は豪快さよりもキリっと引き締まったすっきりした作り。萬太郎は若いので身体がよく動き軽快で、後に伝説の八艘飛びを見せたと云われる牛若丸らしい所作で、実に結構な二人舞となっていた。

 

中幕は『鷺娘』。云わずと知れた大和屋十八番中の十八番。正に国宝級の名品とはこの大和屋の舞踊を指す。踊り納めてしまったのが残念でならない。その『鷺娘』に菊之助が挑んだ。「宗五郎」同様、本興行では初めてだと云う。今回の博多行きを決めたのは、演目に「関扉」とこの『鷺娘』があった事が大きい。大いに期待していたが、それを裏切らない素晴らしい出来だった。

 

大和屋の鷺の精は、この世のものとは思われない美しさと神秘性を備えており、言語など必要としない完結性がある。ポーランドの巨匠映画監督アンジェイ・ワイダを始めとする世界の文化人を魅了したのもその点が預かって大きいと思われる。その意味で日本的な美しさの枠を飛び越えたものがある。本当に人間が演じているとは思えない神秘的な美である。その点では今回の菊之助は紛れもなく人間の手触りを感じさせるものだ。

 

踊りの内容としては鷺の精が人間に姿を変えていると云う設定なので、大和屋の行き方はその前提に沿うものだ。しかしこの精は人間に恋をすると云う、人間の感情を持っている。菊之助はそこに軸足を置き踊っている。大和屋の様な神の領域には到達出来ないのでそうなったとも云えるかもしれないが。しかしこれは菊之助としての立派な鷺娘となっている。踊りの腕に間違いはなく、満場息をのむ様な美しさもある。華やかな傘尽くしから舞台が暗転しての地獄責めになり、苦し気に翼を羽ばたかせて遂に息絶える終幕に至る迄、静かなクレッシェンドとデクレッシェンドを繰り返し、息もつかせない。本興行では初役とも思えない見事な『鷺娘』であった。やはり現状では宗五郎より鷺娘の方が菊之助のニンに適っていると云えるだろう。

 

打ち出しは『義経千本桜』の内から「すし屋」。音羽屋の権太、時蔵の弥助実は維盛、梅枝のお里、米吉の内侍、橘太郎のおくら、権十郎の弥左衛門、芝翫の景時と云う配役。歌舞伎三大名作の一つで、丸本の傑作であるのは云うまでもないだろう。『義経千本桜』は時代物の大作だが、この「すし屋」は世話場。所謂「時代世話」だ。音羽屋は今の菊之助と同じ年齢の頃に、先々代の松緑に教わったと云う。それ以来練り上げて、世話の名人当代菊五郎として今日の見事な権太を作り上げた。

 

音羽屋は同じ年代の高麗屋と違い、幾つになっても初役に挑むと云うタイプの役者ではない。自らのニンに適った役、家の芸などを繰り返し演じ、芸を深めてきた役者である。これはタイプの違いであり、優劣ではない。この音羽屋の様な型の役者は、芸域は広くはない。しかし磨き上げたその世話の芸は当代無類のものだ。今年に限ってみても『芝浜革財布』で見せた芸は、名人としか云い様のないものだった。今回の権太を観ていて、つくづく世話はイキと味の世界であると思った。

 

弥助とお里が話しているところに音羽屋の権太が現れる。今回の「すし屋」は江戸の型なので、所作が如何にも江戸前で鯔背。しかしその目つきには悪の性根が垣間見える。何でもない様なところだが、世話はこう云う細かい芸の積み重ねなのだ。母親おくらとのやり取りも親に甘える子供の性根と愛嬌で、何度も観た狂言なのだが実に面白く見せてくれる。相方の橘太郎は筋書で「まさか菊五郎旦那のおっかさんを勤めさせて頂くとは思ってもいませんでした」と述べているが、実年齢が年下である事を感じさせない見事な芸だ。

 

梶原が現れ、詮議になる。ここは梶原の登場で、世話場の中でも少し時代がかる。音羽屋も「一番緊張する場」と云っているが、本当の性根を内に蔵しつつ、若葉の内侍と六代君(実は女房小せんと倅善太郎)を梶原に指しだす。ここもあくまで銭が欲しいと云ういがみぶりがしっかりしているので、後の「モドリ」が実に効果的になる。首と人質を引き連れて梶原一行が去る(実は全てを悟っていた梶原の芝居だったことが、後に明らかになるのだが)。倅の不実ぶりに立腹した弥左衛門が権太を刺す。ここでクライマックスの権太の述懐「モドリ」となる。

 

ここがまた実に見事。同じ今わの際の科白でも侍の「忠臣蔵」勘平と違い、床に手をつき身体を少し崩している。ここら辺りも芸が細かい。そして弥左衛門の科白を受けて、刺され乍らの「父っつあん、父っつあん、父っつあん」の少し間をつんだ絶妙なイキ。この呼吸を是非菊之助にも学んで貰いたい。これが世話の科白廻しなのだ。家族に囲まれ、命を救われた維盛と内侍が合掌する中、息を引き取る権太。流石三大名作、作も良く出来ている。幕が下りても暫く拍手が鳴りやまなかった。

 

脇では弥助と維盛をメリハリ良く演じて見事な時蔵義太夫味溢れる梶原の芝翫、世話の味が効いている弥左衛門の権十郎と各役手揃いで、博多で素晴らしい江戸前の世話芸を見せて貰えた。地元の皆さんも満足だったのではないか。歌舞伎座でも毎月とは云わないが、たまには二部制で手応えのある大作狂言が観たいものだと、改めて思わされた六月博多座公演であった。