fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

南座 吉例顔見世興行 第一部 壱太郎の『晒三番叟』、成駒家兄弟の『曽根崎心中』

南座一部を観劇。二部同様大入りの盛況。この部は亡き山城屋三回忌追善狂言と銘打っての上演。そうか、もう一年たったのか・・・と感慨一入。筆者が山城屋を観れたのは今から思うともう晩年だったが、幾つかの素晴らしい狂言を観る事が出来た。殊に印象深かったのは、もしかしたらこれを観れるのは最後かもしれないと思い、奮発して一等桟敷で観劇した「帯屋」。扇雀・壱太郎との三代共演で、十八番の和事芸だったが性根としては辛抱立役。観ているこちらが切なくなる程胸に迫る素晴らしい芝居だった。今回顔見世で子と孫がうち揃っての追善供養。天国の山城屋も目を細めている事だろう。

 

幕開きは『晒三番叟』。壱太郎の如月姫、虎之介の行氏、鷹之資の貞光と云う若手花形による三番叟だ。亡き山城屋が復活させた女形が三番叟を踊ると云う珍しい趣向の舞踊。追善に相応しい狂言と云えるだろう。しかし三番叟と云っても、それらしいのは鈴の段がある前半のみ。後半は三番叟とは全く違う踊りになる。いかにも歌舞伎らしい展開だ。

 

規矩正しく踊る前半と、「布晒し」が出て派手派手しくなる後半と、壱太郎は見事に踊り分けている。しかも一緒に踊っているのが従弟の虎之介と、かつて祖父とコンビで扇鶴ブームを巻き起こした亡き天王寺屋の忘れ形見鷹之資。歌舞伎芸と云うものは、この様にして次代へ受け継がれて行くのだと、つくづく感じさせる狂言。見事な布捌きを見せる壱太郎を見ていると、この優の持つ天性の華を感じる。いい役者になって来たと思わずニンマリとさせられる舞踊だった。余談だが、当日先斗町でスーツ姿の壱太郎とすれ違った。私服でもスターのオーラを感じさせていたのが印象に残った。

 

打ち出しは『曾根崎心中』。云う迄もなく生前千四百回以上演じた、山城屋生涯の当たり役。TVの「徹子の部屋」で扇雀が語っていたが、お初は山城屋・成駒家の役者しか演じた事がないそうだ。これほどメジャーな役どころで、一家が独占して演じている芝居も珍しかろう。今回は鴈治郎の徳兵衛、扇雀のお初、亀鶴の九平次、虎之介の茂兵衛、寿治郎のお玉、松之助惣兵衛、梅玉の久右衛門と云う配役。中では徳兵衛がここ十五年程は鴈治郎以外に演じた役者はいない。もう完全に自家薬籠中の役だ。

 

そしてその徳兵衛がやはり素晴らしい。まずニンである事も大きいが、実直で伯父である久右衛門への恩義と孝心は紛れもない徳兵衛が、お初への一途想い故に転落して行く、そのせつなさがきっちりと表現されている。亀鶴の九平次が憎々しく真に手強い出来で、そのドラマチックな展開の濃度をより深めているのも実に良い。今回の亀鶴、大当たりだ。

 

今転落と書いたが、大詰「曽根崎の森の場」を観ていると、死出の旅を歩む徳兵衛とお初にとって心中は堕ちるのではなく、汚い俗世間からの離脱としての魂の浄化であるのだと云う事を思わずにはおれない。今までの幕切れは、合掌するお初を徳兵衛が正に刺さんとする所で幕となっていたが、今回は徳兵衛がお初を刺し、扇雀が海老ぞりになるところに自らを刺した徳兵衛が折り重なると云うエンディングだった。従来の幕切れの方が芝居としての余韻は残るが、二人にとって死は終わりではなく、魂の浄化への入り口なのだとすれば、より徳兵衛の意思を鮮明に感じさせる今回の幕切れは効果的であったと思う。

 

扇雀のお初も無論素晴らしい。山城屋は実にはんなりとした古風な味わいのあるお初だったが、扇雀はすっきりとしたより現代的なお初で、これは芸風に預かる所もあるが、容貌の違いと云う部分も大きいだろう。「天満屋の場」における自分の足に喉元を押し付けて死への覚悟を伝える徳兵衛の想いをひしひしと感じたお初が、万感の想いで閉じていた目を、カッと見開いて九平次に切る啖呵の鮮やかさは、この芝居のクライマックス。円熟期に入った成駒家兄弟の芝居の上手さは、実に見事なものだった。

 

東京から駆けつけた梅玉の久右衛門も大店の亭主としての格と、甥に厳しく接しつつも九平次をどやしつける科白に情のある所を感じさせる結構なものだったが、声に力がなく、科白も聞き取り辛い。体調でも悪かったのだろうか。来月の歌舞伎座出演も発表されている梅玉、健康にはくれぐれも留意して貰いたいものだ。

 

成駒家総力を挙げての山城屋への追善供養狂言の第一部、じっくり堪能させて頂きました。残る三部はまた改めて綴ります。