fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

四月大歌舞伎 第三部 高麗屋親子の「荒川の佐吉」、梅玉・又五郎・成駒家兄弟の「時鳥花有里」

歌舞伎座第三部を観劇。入りは他の部より劣るが平日としては悪くはない、そこそこの入りと云った感じだろうか。しかしこの部を観ていない芝居好きは勿体ない事をしたものだと思う。白鸚がようやく今年初めて歌舞伎座に登場。『ラ・マンチャの男』ファイナル公演の為に正月公演にも出なかった高麗屋だが、その『ラ・マンチャの男』がコロナの為にほんの数公演を除いて中止となってしまった。その心中察するに余りある。チケットを押さえていた筆者にとっても、痛恨の極みであった。文字通り満を持しての感で、倅幸四郎と素晴らしい芝居を見せてくれた。

 

時代物を得意にしている真山青果としては珍しい股旅劇。配役は幸四郎の佐吉、右近の辰五郎、魁春のお新、孝太郎のお八重、亀鶴の徳兵衛、錦吾の仁兵衛、高麗蔵の清五郎、梅玉の郷右衛門、白鸚の政五郎。中で魁春・右近・亀鶴が初役の様だ。役者が揃って当代の、とも云うべき実に見事な出来の狂言となっていた。

 

幸四郎の佐吉がまずもって素晴らしい。当代佐吉と云えば松嶋屋だが、その松嶋屋直伝と云う幸四郎も負けていない。この芝居の大きなテーマの一つは、佐吉と云う人間の成長過程を追うと云う部分にある。序幕「岡もと家の前」の場に於ける佐吉は若造のいかにも三下と云った風情である。松嶋屋は何と云ってもあれほどの名人であるし貫禄もたっぷりなので、若造の作りはしていても、そこにある種の大きさの様なものが漂う。その点この場の幸四郎はニンにも叶い、線が細く貫禄の様なものは微塵も感じさせない。それが後段の人物が大きくなった佐吉と大きく異なり、成長物語としての骨格がよりしっかりと浮き出て来る。

 

佐吉は親分である仁兵衛の孫の卯之吉が、母お新の嫁ぎ先である丸総から目が見えない為に実家に戻されたのを引き取って育てる。家庭的なところなど全くなかった佐吉だが、懸命に卯之吉を育てていく。そして目の見えない卯之吉にかえって自分が励まされている事に気づき、とても敵わないと卑屈になっていた心を一擲して、親分の仇である郷右衛門を討つ。子役の子の芝居も上手く、この親子の心の交流が何とも云えず胸を打つ。卯之吉に出会う前の佐吉より明らかに人間的に成長して来ているのが判る。

 

この郷右衛門を討つ「秋葉権現の辺」の場で初めて白鸚の政五郎が登場する。筋書で白鸚がこの政五郎について「『鈴ヶ森』の幡随院長兵衛のよう」と語っていたが、正にその通りの登場シーン。駕籠を開けて姿を現した時の貫禄、これぞ政五郎、これぞ歌舞伎座の座頭である。この相模屋政五郎と云うのは実在の人物で、幕末土佐藩の隠居山内容堂の人物に心酔し、その手足となって働いた。容堂が死去した際には追腹を切ろうとし、危うく板垣退助に制止されたと云う。それ程の人物なので、佐吉などとは人間の格が違う。

 

その違いが次の「佐吉の家」の場で見事に生きる。すっかり貫禄が付いた佐吉の姿は、惚れ惚れする様な男ぶりだ。しかし政五郎がお新を伴って現れ、卯之吉を丸総に返す様に云われると、政五郎の貫禄の前で子供の様に感情を露わにし、「いやだ、いやだ」と号泣する佐吉。お新が自害しようしても、「当てつけがましい事をするな」とどやしつける。しかし政五郎に「オレが育てた、可愛いと云うのは、そこらの隠居が犬猫を可愛がるのと同じだ。荒川の、あの子は人間だよ」と諭される。ここの白鸚の情理備わった科白廻しは正に絶品の素晴らしさ。佐吉は崩れ落ち、辰五郎を呼んで卯之吉を丸総に連れて行けと告げる。「お父つぁんも後で来るの」と云う卯之吉を泣きながら抱きしめて「行くよぅ」と云う佐吉。辰五郎が「もう、たまらねぇ」と卯之吉を連れて場を去る。もうここで筆者の涙腺は決壊していた。芝居自体が良く書けているのは間違いないが、役者が本当に素晴らしい。客席のそこかしこからすすり泣きが聞こえていたのも当然だろう。

 

大詰「長命寺前の堤」の場で、桜散る中江戸に別れを告げて長い草鞋を履く佐吉。政五郎が道中の用心にと脇差を佐吉に渡す。「容堂公から拝領した脇差」と云う原作にない科白を付けたのは、容堂と政五郎のエピソードに基ずいた白鸚の入れ事。この脇差の重みと、それを餞に渡す政五郎の佐吉を惜しむ心情がより確かに伝わる。辰五郎に抱かれて現れた卯之吉との別れは、涙なしでは観れない。佐吉が花道にかかっての「やけに散りやがる、桜だなぁ」のイキも見事で、素晴らしい幕切れ。梅玉の郷右衛門はニンでない役を芸の力でカバーして好演。錦吾の仁兵衛、右近の辰五郎、魁春のお新、孝太郎のお八重、高麗蔵の清五郎と各役手揃いで、間然とするところのない、見事な「荒川の佐吉」となった。

 

打ち出しは「時鳥花有里」。梅玉義経鴈治郎の三郎、又五郎の輝吉、扇雀三芳野、壱太郎・米吉・種之助・虎之助の白拍子と云う配役。六年程前に復活上演された舞踊劇で筆者はその際も観劇したが、今回は白拍子の人数も増えて実に華やか。亡き三津五郎が生前に「日本舞踊の人より歌舞伎役者の踊りが面白いのは、メカニックな動きは大雑把でも、性根を掴んで踊っているからだ」と云う趣旨の発言をしていたが、梅玉鴈治郎の踊りが正にそれ。大した振りが付いている訳ではないが、義経らしい気品と哀愁、三郎らしい武張ったところが実に良く表現されている。

 

扇雀の踊りは流石の貫禄で、立女形の大きさを感じさせる佇まい。又五郎が面を用いての仕方話で、意外と云っては失礼だが器用なところを見せてくれる。目にも鮮やかな若手花形の踊りの中では、壱太郎が一頭地抜けた上手さ。流石は舞踊吾妻流家元の腕前を披露していた。三十分弱の出し物だが、実に華やかで楽しめた舞踊劇。これは今後も上演して行って欲しいと思う。

 

今月は三部とも充実していて、月別に見ると今年最高の粒ぞろいの狂言が揃った興行になっていたと思う。来月は三年ぶりの「團菊祭」。海老蔵が今年初めて歌舞伎座に登場するのが、今から楽しみだ。