fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

三月大歌舞伎 第二部 歌六の「河内山」、菊五郎劇団の『芝浜革財布』

今月の歌舞伎座公演も幕が開き一週間程過ぎた時、歌舞伎界に激震が走った。松嶋屋倒るの報には、播磨屋の事があっただけに、本当にその病状が心配された。息子の孝太郎がブログを更新し、「今すぐ命どうこうと云う状態ではない」とコメントがあったので一安心だったが、何せ八十歳近い高齢。播磨屋の早すぎる死も無理がその遠因ではないかと推察されるだけに、ゆっくり静養して欲しいと思っていた。十日間程の休演で復帰した様だが、SNSでの書き込みなどを見ると、まだ足腰が辛そうとの事。くれぐれも無理だけはしないで欲しいものだ。

 

そんな中で歌舞伎座二部を観劇。客席は大入りと迄はいかないがいい入り。幕開きは「河内山」。筆者が観た時はまだ松嶋屋が休演だったので、歌六が代演。鴈治郎の出雲守、高麗蔵の数馬、坂東亀蔵の小左衛門、千之助の浪路、吉之丞の大膳、権十郎の清兵衛、秀調のおまきと云う配役。松嶋屋で観れなかったのは残念だったが、歌六が河内山を演じるのは多分今後はないと思われるので、その意味ではかなり貴重な舞台となった。

 

しかし出来としてはニンでない事もあり、感心出来なかった。歌六と云う人は職人的な技巧を持っている優である。脇では当代この優でなければと云う役も数多い。しかしやはり座頭の人ではないのだ。ハナからこう云っては身も蓋もないのだが、特にこの河内山と云う役は山っ気と云うか、芝居にはったりが効かなければダメなのだ。歌六の芝居は流石に上手い。ことに序幕の「質見世」のところは初役をものともせずしっかり世話物らしい見事な芝居を見せる。しかし二幕目の「松江邸書院の場」で北谷道海となってからは厳しい。

 

河内山が化けた北谷道海はお数寄屋坊主から一転、東叡山寛永寺門主の使僧と名乗り乗り込んで来る。筆者は花道がよく見える席で観劇したのだが、揚幕から出て来た姿がいかにも小さいのだ。無論歌六は小柄なのだが、それを感じさせない大きさが出ないとこの役は勤まらない。これは技巧だけではどうにもならないものの様だ。加えてこの役に必要な愛嬌にも欠けている。悪の中に愛嬌を滲ませる、非常に難しいところだと思うが、ここは高麗屋が正に絶品とも云うべき味を出してくれる。しかし実直に技を積み上げて今日の大を成した歌六の芸風では、やはり高麗屋や亡き播磨屋の様な座頭の風格、大きさが出てこないのだ。

 

大詰「松江邸玄関先の場」における例の長科白になると、もうこれはどうにもならない。筋書で松嶋屋が「リズムを大切にしながら、リアルさを失わないように緩急をつけて話す」と発言していたが、歌六の科白廻しはこのリズムと緩急両方ともに欠けている。ぶつぎれになり、黙阿弥調独特の謡い調子にもなっていない。歌六の長科白を聞きながら、筆者はどうしても高麗屋の名調子を思い出してしまっていた。役によっては当代これ以上のものはないと思わせる名人歌六にして、やはり河内山は無理があった様だ。しかし急な代役と云う事もあり、気の毒な役回りだったろうとは思う。

 

しかし同じ代役であった亀蔵の小左衛門は健闘していた。花道の出の小ささはまだ年齢的な事もあり如何ともしがたいが、凛とした科白廻しは名家松江藩の家老としての品格があり、この優の特徴であるよく通る声は、見事に場を引き締めていた。これは将来持ち役になるのではないか。その他高麗蔵の数馬は何度も演じて完全にこの優のものにしている。いかにも歌舞伎調の科白廻しは聞いていて実に心地良かった。鴈治郎の出雲守も傑出した出来。この優は梅玉に次ぐ当代屈指の殿様役者だと思っているが、自儘にならない浪路を手討ちにしようとする短気な性格乍ら、大名としての確かな位取りもあり、流石の芸を見せてくれた。歌六には厳しい事を云ったが、本役でないので致し方なかったろう。松嶋屋には健康を取り戻した暁の再演を期待したい。

 

打ち出しは『芝浜革財布』。音羽屋の政五郎、時蔵のおたつ、権十郎の梅吉、彦三郎の金太、橘太郎の吉五郎、團蔵休演で荒五郎の長兵衛、東蔵のおかね、左團次勘太郎、そして丁稚長吉に音羽屋の愛孫眞秀君と云う配役。團蔵の休演は残念だが、劇団の手練れを揃えた世話狂言。このメンバーで悪くなる訳はないが、やはりいい出来だった。

 

この狂言は「文七元結」同様、元は落語中興の祖と云われる三遊亭圓朝の作。落語では先々代の名人三木助の口演が古今の名品と云われている。劇団お得意の世話物だが、音羽屋が演じるのは十六年ぶりだと云う。腕はいいが酒に溺れて仕事をしない棒手振の魚屋政五郎が、女房に一刻早く起こされて向かった芝の浜で金の入った革財布を拾う。それを持ち帰って、河岸に行って欲しいと云う女房の小言も聞かず、友達を呼び寄せてどんちゃん騒ぎ。しかし拾った金を遣い込んだらどんなお咎めがあるかと心配した女房が、亭主が酔って寝てしまったのを幸い、財布を拾ったのは夢だと云ってごまかす。

 

それを機に目覚めた政五郎は酒を断ち、仕事に精を出す。その甲斐あって棒手振から立派な店を構える迄になった三年後の大晦日、おたつは政五郎に私の話しを最後迄怒らず聞いて欲しいと云う。へそくりでもしたかと云う政五郎に、実は金の入った財布を拾ってきたのは本当だったと打ち明ける。しかしその金を遣い込めばお上から重いお咎めがある。だから夢だと嘘をついてしまったと打ち明ける。それを聞いた政五郎は怒るばかりかそのお陰で今の暮らしがあるのだと逆に礼を云う。そこへ困った人への奉加帳を持って現れた友人勘太郎に、この拾った金を残らず寄進すると告げ、めでしためでたしとなる。この金を寄進すると云う筋は落語にはなく、実に気持ちの良い幕切れになっている。

 

音羽屋の世話物における良さは今更云う事もない。いかにも江戸っ子の職人らしい粋でいなせな所作と科白廻し。酒にだらしないと云う欠点はあるが、一本気で情に厚い人物像をしっかり描き出して間然とするところのない出来。中盤の友人たちと酒を呑んで女房自慢をしながらどんちゃん騒ぎをする場は、他の配役で観るとダレ場になる事が多いのだが、劇団の手にかかるとここが実にいい。科白のキャッチボールが自然で芝居らしいリアリティがあり、山の神の尻にひかれている奴もおり、女房にデレデレの奴もあり、それぞれの人間が見事な粒立ちで描かれていて、見事なアンサンブルを形成している。

 

中でも傑作だったのは時蔵のおたつ。世話女房らしい情が滲む見事なおたつ。酔いから醒めた政五郎にあの拾った金を出せと云われて夢だと言いくるめる場で、「あれが夢か?」と云う亭主に「夢だよ」と云い張る女房。ここが切所だと思う女房の必死さがその表情に表れ、ほんの一瞬の表情なのだが、舞台に緊張が走る。あからさまではないところが実に上手い。そして三年後、亭主の為とは云え騙して申し訳ないと座布団を外して泣きながら謝るおたつ。政五郎への想いが溢れるおたつの姿に、自然と胸が熱くなった。時蔵一代の傑作となっていたと思う。

 

どちらの狂言も休演が出ていたのは残念だが、時節柄やむを得まい。松嶋屋休演の「河内山」はともかく、「芝浜」は見事な出来で、現代最高水準の世話狂言を堪能出来た第二部だった。最後に付け加えると、「芝浜」に出た眞秀君が河内山~弁天小僧~新三~お嬢吉三と云う名科白のメドレーを披露するご馳走があった。丑之助と並ぶ将来の劇団の大黒柱。小学生とは思えない実に頼もしい限りの科白廻しだった。