fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

南座 吉例顔見世興行 第二部 孝太郎・隼人・芝翫の「三人吉三」、松嶋屋・芝翫の『身替座禅』

京都南座の顔見世二部を観劇。歌舞伎座より入場規制が緩く、七割位は入れていたのではないだろうか。客席は大入りの盛況。時折雪もちらつく極寒の中だったにも関わらず、流石は伝統の南座顔見世。松嶋屋に東京から芝翫と隼人が加わった形。重鎮から若手花形迄が揃い、演目的にも如何にも歌舞伎らしい賑やかな狂言二題。大いに盛り上がった。

 

幕開きは『三人吉三巴白浪』。配役は孝太郎のお嬢、隼人のお坊、芝翫の和尚。筆者的には五月以来今年二度目の演目で、その時と隼人のみ同じだ。孝太郎・芝翫共三度目らしい。二人共初演は一緒に南座でだったとの事。その時のお坊は当時染五郎幸四郎。孝太郎は音羽屋に、芝翫高麗屋に、幸四郎播磨屋に教わり、その三人が揃って舞台稽古を見に来てくれた感激を、二人が「演劇界」で語っていた。筆者的には孝太郎のお嬢は初めて観たが、芝翫の和尚は去年の年末国立で観て以来だ。

 

筆者初見の孝太郎のお嬢だったが、喰い足りない。現代の役者に共通するリアルを意識し過ぎて、黙阿弥調を謡い切れていないのだ。科白がぶつぶつ切れてリズムが悪く、聞いていて心地よく酔えない。う~ん、これでは厳しいと思っていたが、隼人のお坊が出て来て掛け合いになるとリズムが出て来る。「虫拳ならぬ」「命のやり取り」の辺りはいいイキで、やはり相手がいると芝居は違って来る様だ。

 

その隼人のお坊は、五月の時より長足の進歩。五月の時はやはりリズムが悪く聞きづらかったが、今回は良く謡えており、リズムも良い。口跡に所々松嶋屋調が散見されて、初演時誰に教わったかは知らないが、改めて松嶋屋に鍛え直されたのではないだろうか。若しくは松嶋屋の前で演じるに当り、松嶋屋の映像を参考にしてきたと云う事もあったのかもしれない。やはり若いと成長も早い。大富豪同心、天晴れでした。

 

芝翫の和尚は流石の貫禄。やはり喧嘩の止め役にはこれ位の貫禄がなければ収まらない。ニンでもあり、二人を分けて中央で極まった形も実に良く、まずは申し分のない和尚。今の大幹部も播磨屋が亡くなり、音羽屋・高麗屋松嶋屋も老境に入って行く。向こう二十年はこの優が歌舞伎界の重石とならなければならない。今後の芝翫にかかってくる責任は大きいと云うべきだろう。

 

打ち出しは『身替座禅』。松嶋屋の右京、芝翫玉の井、隼人の太郎冠者、千之助の千枝、莟玉の小枝と云う配役。この狂言も今年二度目の観劇。その時は高麗屋の右京を相手に、やはり玉の井芝翫が初役で勤めた。その際は高麗屋芝翫にオファーしたらしいが、おそらく松嶋屋はそれを見ていて好感を持ったのだろう。本来時代物役者の芝翫が、年に二度も女形玉の井を演じる形となった。

 

今回の松嶋屋は分かりやすさを意識したのだろうか、全ての芝居がかなり大掛かりで、仕草も表情も動きが大きい。芝翫玉の井は初演時とそれ程印象は変らなかったが、松嶋屋の右京と隼人の太郎冠者は所作が大きく、派手である。殊に隼人は若く身体も動くので、跳んだり跳ねたりの大奮闘。松嶋屋は大きく動くとは云えその所作は実に艶っぽく、花子との逢瀬を語る場面の科白廻し、その色気、まずもって見事な右京。

 

ただ前述の様に動きが大きく派手派手しいので、松羽目物としての品は若干棄損され、やや漫画的になっているきらいはある。その点では高麗屋は実に品があり、且つくすりとさせられる可笑し味もあったが、今回はマスク越しの見物衆に大受け。松嶋屋は終始上機嫌で演じている様に見受けられたので、今の世間を覆っている閉塞感を少しでも拭い去る為に、敢えてこの派手な演出をとったのかもしれないとも思った。そう、歌舞伎の全てを知り尽くしている松嶋屋。ただのウケ狙いで、考えなしに芝居をする事などはあり得ないのだ。そしてもう一つ、芝翫玉の井が「女と云え、女と」と太郎冠者を問い詰める時の迫力は、時代物役者芝翫の片鱗を見せてくれていたのを最後に付記したい。

 

客席も大いに沸いて、実に盛り上がった南座二部。筆者も楽しませて貰った。他の部の感想は、また改めて。