fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

歌舞伎座 吉例顔見世大歌舞伎 第一部 愛之助・壱太郎の『神の鳥』、高麗屋・魁春の『井伊大老』

歌舞伎座一部を観劇。国立と違い歌舞伎座はまだ入場規制が継続されている。桟敷にも人が入っていて、入りはまずまずと云ったところか。先頃来年一月からは、全エリアにおいて、間隔を空けた二席並びにすると発表があった。徐々に規制を緩めて行く方向性の様でいい傾向だとは思うが、引き続き場内の飲食と大向うは禁止の様だ。完全に元通りになるのには、まだ道半ばと云ったところ。延期されている團十郎襲名は規制を撤廃しない限り実施はされないだろうから、待ち遠しい限りだ。

 

幕開きは『神の鳥』。コロナの前迄は毎年上演されていた出石「永楽館」での歌舞伎の為に愛之助が作り上げた狂言。行ってみたいと思いつつまだ「永楽館」に足を運んだ事のない筆者には、初めて観る狂言愛之助が右近と鹿之助の二役、壱太郎の左近、種之介の仁木入道、吉弥の柏木、東蔵の満祐と云う配役。出石の時とは仁木と満祐が替わっている様だ。

 

作としては、『暫』と『京鹿野子娘道成寺』を取り入れた狂言になっている。幕が開くと舞台中央に赤松満祐がおり、傾城柏木や家臣達が居流れている。そこは『暫』を写した形だが、生贄の神の鳥を入れた大きな鳥籠が中央やや上手寄りに吊るされている。これは「道成寺」の鐘を思わせる作りだ。そこに狂言師右近・左近が花道から現れる。まずこの花道での踊りがイキがぴったりで実にいい。

 

舞台に廻って満祐に所望され連れ舞いになる。これが鞨鼓や鈴太鼓迄取り込んだ「道成寺」の様な踊り。踊りつつ気持ちが鐘、でなく鳥籠に行くのも「道成寺」を模している。そこで二人がこうのとりである事を見顕され、立ち回りになる。鳥籠のこうのとりは、この夫婦こうのとりの子供であったのだ。追い詰められてこうのとりも最早これ迄かと思われた所に、踊りの途中から雄鶏を他の役者に替わらせていた愛之助の鹿之助が押戻し的に現れ、満祐の家来達を打ち倒す。こうとのり親子を助けた鹿之助は、花道を六法を踏みながら揚幕に入って幕になる。

 

一時間程の出し物だが、内容盛りだくさんで楽しめる狂言愛之助・壱太郎の踊りも素晴らしく、最後花道の六法も力感一方でなく、気品すら感じさせるいかにも愛之助らしい六法。これはまた今後歌舞伎座での再演もあるだろう。ただ東蔵の満祐はニンでなく、この名人をもってしても流石に無理があった。加えて鹿之助に扮する為、雄鶏の愛之助が他の役者と替わって引っ込まなければならないのだが、替わったのが判り易くバレる感じはあったので、そこらあたりはもう少し上手くやるか、演出に工夫を加える必要はあるかもしれない。

 

打ち出しは『井伊大老』。北條秀司作の名狂言高麗屋の直弼、魁春のお静の方、高麗蔵の雲の井、歌六の仙英禅師と云う配役。先代白鸚歌右衛門が何度も演じて練り上げた芝居。それをそれぞれの息子当代白鸚魁春が演じる。この様に歌舞伎と云う芸術は代々受け継がれて行くのだと、しみじみ感じさせる座組である。しかし三部制の弊害とも云えるが、前段を大幅にカットしたショートバージョンである。

 

三年前に播磨屋が演じた際も「濠端」をカットしたショートバージョンで、このブログでも苦言を呈したのだが、今回は更に「奥書院」迄カットした超ショートバージョン。いくら見どり興行とは云え、ここまでカットしては原作者の伝えたかった意図は伝わらないと云うか、間違って伝わってしまう恐れなしとしない。「濠端」があればこそ、この「下屋敷」が生きて来る。「濠端」での国を背負う政治家としての直弼の強烈な矜持あるから、この場の唯一心を許せるお静の方へ見せる一人の弱い男としての心情が、しみじみと伝わってくるのだ。この「下屋敷」のみだと、大老としての直弼の矜持とその孤独、その一方にある弱さ、人間と云う生き物は一筋縄でいくものではないと云う人物の厚みが出てこない。

 

しかしその一方で前もってこの芝居を知って観てみれば、高麗屋が抜群の技巧で直弼の心の襞を細やかに表現しており、名品としか云い様のない舞台に仕上げている。去年の四部制の時に、やはり高麗屋が「大蔵卿」の「檜垣」をカットして「奥殿」のみを出した事があった。その時もぶつぶつ文句を並べたものだが、悔しい(?)事にその圧倒的な「奥殿」に感動させられた自分がいたのも事実だ。そしてまた今回もまた同様の思いを抱かされた。

 

抑え気味のトーンでの科白廻しが絶妙としか云い様がない上手さ。「濠端」がない以上直弼の剛直な面は出し様がないが、大老としての大きさと孤独が切々と胸に迫って来る。糟糠の妻とも云うべきお静の方に心情を吐露する「帰りたいのぅ」や、「生まれ変わっても大老だけにはならぬものだ」の科白廻しが抜群。その一方で自分を裁くのは歴史であり、今の世に知己はいないと云う、政治家としての覚悟も滲ませる。凡庸な役者ではとても手におえない難役だろうと思うが、高麗屋はその大きさ、練り上げた技巧、全くもって見事なものであった。

 

歌六の仙英禅師は完全にこの優の持ち役。世捨て人的な雲水の剽げたところと、お静の方が弟子にして欲しいと頼み入る様な、高徳な禅師としての清濁併せ呑む大きさもしっかり表現しており、当代この役をやらせては歌六の右に出る役者はいないだろう。魁春のお静の方は、今までこの優からあまり感じた事のなかったチャーミングな味わいがある。大和屋の様な女そのものと云ったお静の方とはまた違った造形で、あくまでも大老の第二夫人としての品格を湛え乍ら、一人の男としての直弼を一途に愛する心情をしっとりと表現していて、これまた見事。

 

ぶつぶつ文句を云いながらも、素晴らしい舞台に感動させられてしまった。この調子で「濠端」から出ていたら、腰を抜かしていたかもしれない(笑)。高麗屋には遠くない将来、通しで改めて見せて欲しいと心から願う次第。その意味でも、一日も早く通常の上演形態に戻って貰いたいものだ。

 

若手花形から大幹部迄うち揃った、充実の歌舞伎座第一部。その他の部は観劇後、また改めて綴りたい。