東京五輪が先日幕を閉じた。パラリンピックはこれからだが、宴の後的な寂寥感を感じている。空前のメダル・ラッシュに列島が沸いたが、メダル如何に関わらず、健闘した全てのアスリート、関係各位に感謝を捧げたい。そんな最中に相も変わらず歌舞伎観劇。その第二部の感想を綴る。
幕開きは『真景累ヶ淵』から「豊志賀の死」。云わずと知れた落語界中興の祖、三遊亭園朝の作。この人は歌舞伎で云えば九代目團十郎みたいな人。この方作で今でも普通にホール落語等で取り上げられる噺が幾つもある。そして歌舞伎のレパートリーになった作品も多い。歌舞伎的には受け継がれている型を多く残した人、みたいな感じだろうか。今回は七之助の豊志賀、鶴松の新吉、児太郎のお久、勘九郎のさん蝶、扇雀の勘蔵と云う配役。何と全員初役の様だ。
この芝居で一番素良かったのは七之助の豊志賀。筆者的には福助の名演が記憶に新しいが、七之助はその福助に教わったのだろうか、口調迄似ているところがあった。まぁ叔父甥の関係だから似てもいるだろうが。若い男に惚れた中年女の哀しみみたいなものが、新吉に縋り付く所作に滲み出る。若いお久に嫉妬し、辛く当たるところもいい。ただ福助の様な愛嬌に欠ける為、「ちょいと新さぁん」と甘えるところなぞは福助だと場内が大いに沸いたものだが、七之助だとそこまでは行かない。怪談噺に愛嬌なぞ必要ないと云う向きもあろうが、ただ怖がらせるだけではない今回の様な演目には、メリハリが欠かせない。しかし初役にしては上出来で、今後練り上げればいずれ福助の域に到達するのではないか。
鶴松の新吉は抜擢に応えた力演だったが、これは手に余った。新吉は年増の豊志賀に飽きがきていて、お久に気がある。そこをしっかり見せて見物を納得させるには色気が必要だが、それが鶴松には希薄。ただの初心な男と云う印象に留まっている。そして七之助同様愛嬌に欠けているので、客席が今一つ沸かない。やはり福助・勘九郎のコンビが恋しくなってしまう。その勘九郎は今回さん蝶に回っていてソツない出来だが、やはり新吉は勘九郎で観たかった。
児太郎のお久、扇雀の勘蔵は手堅く、まず文句のない出来。ことに児太郎は初心な町娘の感じがニンにも合い、実に結構。しかし全体としては七之助の存在感が全面に出て芝居的なバランスに欠けている。鶴松にはもう一段勉強して貰い、兄貴分の抜擢に応えて欲しいと思う。楽日近くなればもう少し練れてくるかもしれないが。
打ち出しは『仇ゆめ』。北條秀司作の舞踊劇。勘九郎の狸、七之助の深雪太夫、虎之介の師匠、扇雀の亭主と云う配役。深雪太夫を想う狸が踊りの師匠に化けて逢いに来るも最後は正体が顕れ、その想いを不憫に思う深雪太夫に抱かれて息を引き取ると云う話し。しかし物語の構成に無理があり、今一つ思い入れられない。
致命的なのは踊りの師匠に化けている狸と、本物の師匠がまるで似ていないと云う点。違う役者が演じているので当然なのだが、今回の勘九郎と虎之介は余りにも違い過ぎる。古典と違いこう云う作品にはある程度のリアリティを必要とする。姿形は似ていなくても例えば師匠を猿之助か松緑あたりがやればもう少し違った結果になったかもしれない。今回の虎之介には荷が重すぎた。踊り一つとっても、七之助の方が格段に上手く、どちらが師匠か判らない。色気も薄く、深雪太夫が焦がれる様な男には見えないのも辛い。
勘九郎と七之助の連れ舞いは流石でここは楽しめたのだが、芝居全体としては無理があり、満足と云うには程遠いものだった。これは師匠と狸は二役でやると云う工夫をした方が良いと思う。今のままの演出では難しいとは思うが、今後上演する際には一考の価値はあるのではないかと考える。今月は大歌舞伎ではなく花形歌舞伎なので若手を抜擢したと云うのはいいと思うが、どちらの演目も若手がその抜擢に充分応えられたとは云えない出来だったのは残念。若手花形の今一層の精進に期待したい。