fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十二月大歌舞伎 十二月大歌舞伎 第三部 中村屋親子の『舞鶴雪月花』、大和屋・七之助・團子の『天守物語』

続いて歌舞伎座第三部を観劇。大和屋が十年ぶりに富姫を演じるとあってか、超満員の入り。古希をとうに過ぎている大和屋だが、その人気と美貌に陰りは見られない。誰かが書いていたが、大和屋と同時代に生きていると云う喜びは、何ものにも代えがたいものだ。映画やドラマと違い、生の舞台は一期一会。時代が前でも後でも巡り合えないものなのだ。この幸福感が末永く続く様、祈るしかない思いだ。

 

幕開きは『舞鶴雪月花』。十七世勘三郎の求めに応じて作られた変化舞踊で、三役を一人の役者が踊り分けるのは、初演された昭和三十九年以来との事。十八世も歌舞伎座で三役を踊った経験はない様だ。今回は勘九郎が桜の精・松虫・雪達磨の三役を踊り、次男の長三郎が松虫を父と一緒に踊ると云う趣向。筆者は初めて観る舞踊である。

 

十七世と十八世勘三郎は、外見は親子としてはそれ程似ているとは思えない。外見は十七世の愛娘波野久理子さんの方が似ているであろう。しかしその天性の愛嬌は、正にDNAを感じさせる。見物衆の心を一瞬で鷲掴みにしてしまうその明るさ。これぞ千両役者とも呼ぶべきものであった。その芸風は十八世に外見も酷似している勘九郎に、しっかり引き継がれている。この舞踊には、その明るさ・愛嬌が実に良く生かされているのだ。

 

女形をする機会があまり多くはない勘九郎だが、最初の桜の精の踊りはきっちりとした女形舞踊になっている。所作の柔らかさといい、しっかり腰が落ちているところといい、実に見事なものだ。そして桜の精が姿を消した後、舞台中央から松虫の長三郎がせり上がって来る。子役の役者が親や他の役者とせり上がって来るところは何度も観ているが、一人でせり上がって来るのはかなり珍しい。齢十一歳にして、堂々たるものだ。そして父勘九郎が顔や衣装を替えている間、舞台を一人でつないでいる。どれほど理解して踊っているかは判らないが、この歳で歌舞伎座の大舞台を独占している姿は殆ど感動的である。

 

そして親子二人の踊りになる。父の松虫が倒れる姿を悲しむ子の松虫。親子だけに、その所作に込められた思いが、一入感じられる。最後は勘九郎一人でコミカルな雪達磨の舞踊。勘九郎の愛嬌が最大限に発揮されており、観ていてこちらも踊り出したくなる見事な舞踊だ。最後は日が昇って雪達磨が溶けてしまい、幕となる。そのコミカルな姿が妙に哀愁をそそる。勘九郎の芸質が良く生かされた実に結構な舞踊三題であったと思う。

 

打ち出しは『天守物語』。泉鏡花作の戯曲で今は代表作の一つと評価されている作品だが、鏡花の生前に舞台で上演される事はなかった。初演は昭和二十六年の新橋演舞場で、新派での上演であったらしい。歌舞伎化されたのは昭和三十年で、六世歌右衛門の富姫、十四世勘彌の図書之助、扇雀時代の坂田藤十郎が亀姫と云う配役だった様だ。その後昭和五十二年に大和屋が受け継ぎ、以降四十年以上にわたって大和屋以外に富姫を演じる役者はいなかった。上演回数的にも、大和屋の代表作と云っていい。それを去年七之助が受け継ぎ、二度演じた。特に去年のやはり十二月に歌舞伎座で上演された際には、大和屋が初役の亀姫で付き合い、完全に受け継がせたと思われていた。

 

しかし大和屋曰く、『ヤマトタケル』に出演していた團子の芝居を観て、富姫~図書之助で共演してみたいと思って上演を決めたのだと云う。それは勿論そう云う要素もあったのだとは思うし、それが最大の理由であったのだと思うが、筆者の勝手な推測では、自分の後継者と思っている七之助に、自分が元気な内に本物の富姫を見せてやるから良く見ておきなさい、と云う気持ちもあったのではないかと思う。事実、大和屋十年ぶりの富姫、実に素晴らしいものであった。

 

今回はその大和屋の富姫、七之助の亀姫、團子の図書之助、歌昇の修理、歌女之丞の撫子、吉弥の薄、男女蔵の朱の盤坊、門之助の舌長姥、獅童の桃六と云う配役。中で七之助・團子・男女蔵歌昇獅童が初役だが、中ではやはり團子の図書之助が抜擢人事。團十郎新之助時代にまだ十代で演じているので最年少と云う訳ではないが、大和屋のお眼鏡にかなったと云うのは素晴らしいし、結果もまたそれを裏切らないものであった。

 

去年七之助相手に虎之介が図書之助を演じた時には、熱演は認めるものの未だしの感があったものだった。しかし比較しては申し訳ないが、今回の團子図書之助は素晴らしい。気品溢れる所作は美しく、そして富姫の心を惹きつける事になるその真っ直ぐな気性をしっかりと表現出来ている。富姫たちが棲む天守閣の最上階が天界であり、天守下は人間界の地上である。人間界の人物である図書之助は、主命により天守最上階に昇って来る。最初富姫はここは人間の来るところではないと退散させる。しかしその涼やかな態度が心の隅に鮮やかな印象を残しており、再度図書之助が戻って来た時にはこれを拒絶せず、「帰したくなくった」と告げるのだ。思えばこの間舞台上では十分程しか経過しておらず、下手に演じると唐突感を感じさせてしまうものだ。

 

しかし今回の團子図書之助には、その唐突感は感じなかった。それは團子の素晴らしさではあるのだが、やはり大和屋の力が預かって大きい。富姫に諭されて階下に降りて行く図書之助を見送る富姫の僅かな所作、そしてその目に、図書之助を憎からず思った気持ちがさり気なく漂っている。今回の大和屋は嘗て若き日の團十郎を引き上げて開花させた時の様に、團子を大人の役者に開花させる事に成功している。自らの芸格を落とす事なく、若い役者を引き上げている。これは何人にも出来る技ではなく、流石大和屋としか云い様のないものだ。

 

そして人間界に於いて、無実の罪で討手をかけられた図書之助が三度天上界に現れる。ここでの大和屋は、図書之助團子を包み込む様な大きさで迎え入れる。この場の大和屋の芝居は本当に大きく、母性迄も感じさせる。これは勿論大和屋と團子の実際の年齢差と云う事もあるのだか、やはり大和屋の芝居が大きいと云う事なのだろうと思う。今回の團子の経験は、今後の役者人生に於いて大きな力となるに違いない。歌舞伎芸はこの様にして、四百年の間綿々と継承されて来たのだ。

 

加えて今回は前半部も素晴らしい。男の生首を土産として富姫に会いに来る妹分の亀姫。如何にも鏡花らしい場面だが、ここの大和屋と七之助の芝居も実に見事。天上界に住む人物らしい、世上の垢になど全く染まっていない、しかしただ清らかと云うだけではない不思議で妖しい女性像を見事に演じあげている。二人並んだところは本当にこの世の者とは思えない美しさで、その佇まいだけで幻想的な鏡花世界が歌舞伎座の大舞台に現出するのだ。

 

その他の役者も、門之助は品を失わず不気味な舌長姥を好演。吉弥の薄は奥女中らしい見事な位取りを見せてくれており、男女蔵の朱の盤坊も、大歌舞伎らしい古格さと大きさに加え、絶妙な愛嬌味もある見事な出来。獅童の桃六もこの優らしい描線の太い芝居で、狂言の最後をきっちりと締めてくれていた。各役揃って、正に傑作とも云うべき『天守物語』となった。残る今年最後の芝居見物となる第二部については、観劇後また改めて。