fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

團菊祭五月大歌舞伎 昼の部 海老蔵・松緑・菊之助の『勧進帳』

團菊祭五月大歌舞伎昼の部を観劇。まず『勧進帳』の感想を綴る。

 

 去年このブログで「来年あたり久々に歌舞伎座海老蔵の弁慶が観たい」と書いたが、年明け早々に来年の團十郎襲名が発表になり、襲名では必ず弁慶をやるだろうから、それ迄お預けかと思っていた矢先に、成田屋の『勧進帳』が團菊祭で実現。以前に幸四郎の滝流し付き弁慶が観たいと書いたら京都で観れたし、松竹関係の人がこのブログを見ている事はないだろうが、言霊ってあるのだろうか。書いてみるものです。

 

この狂言で三之助が揃うは20年ぶりとの事。これからの團菊祭を睨んだ配役だろう。最近は高麗屋系の弁慶ばかりを観ていたので、成田屋の弁慶が実に新鮮だ。花道の出の姿が以前より大きくなっていて、まず驚かされる。前半はことさら表情を消して、海老蔵の特徴たる大きな目力を使わない様にしている。

 

舞台に回って富樫の「勧進帳ご所持なき事はよもあらじ。勧進帳を遊ばされ候へ、これにて聴聞仕らん」を受けた時に、初めて大目をむいて「何、勧進帳を読めと仰せあるか」となる。今まで抑えてきた分だけ、ここが実に良く効いている。そして読み上げから山伏問答となるが、以前より科白が明瞭になり、昔あった独特の癖の様なものも完全ではないが取れてきていて、ここも実に聞きごたえがあった。

 

強力呼び止めから、打擲。ここはパッと打ち下ろしていたお父さん團十郎とは少し違い、高麗屋の様な思い入れはしないが、一拍間を置いて表情を歪めて振り下ろす。團十郎型と白鸚型の中間の様なテイスト。これはこれで海老蔵の一つの見識だろう。詰め寄りは迫力満点で、力感に溢れたこの優の持ち味が良く出ている。

 

「判官御手を」は何と云っても菊之助が素晴らしく、手を差し延べたところ、その形、その気品、天下一品の義経海老蔵は熱演してはいるが、義経に喰われた格好。まぁこれほどの義経だから、それも致し方ないだろう。

 

延年の舞は、幸四郎の様な踊りとしての見事さは薄い。弁慶は踊りの専門家ではないのだから、ここは上手く踊る必要はないと云う意見もあるので、どう評価するかは難しいところ。筆者的には、魅せる芝居である以上、弁慶が踊りの名手ではないと云う所をリアルに拘る必要はないと思うが。海老蔵は酔った上での座興の踊りとして捉えている様だ。

 

一行に立つ様に促すところは、小さくさりげない仕草。荷を背負って花道に向かうところ、滑る様なスピーディーな動きで、流石に身体が良く動く。そしていよいよ幕外の飛び六法。ここはもう独壇場の素晴らしさ。豪快且つ力感漲る引っ込みは、海老蔵ここにあり、と云った所。満場万雷の拍手の内に幕となった。

 

総じて海老蔵の弁慶は、高麗屋系の心理描写を掘り下げる行き方ではなく、荒事味の強い弁慶。七代目と九代目の團十郎の弁慶を観て、「七代目は勇者の弁慶。九代目は智者の弁慶」と評した人があったと云うが、その意味では海老蔵の弁慶は「勇者の弁慶」。目力を最大限に生かした見得の数々も素晴らしい迫力。以前このブログで書いたが、かねてより海老蔵は二代目や七代目團十郎への憧憬を口にしている。その意味では自らの志向を見事に具現化した弁慶だったと云えるだろう。

 

松緑の富樫も、山伏問答の迫力と云い、「判官殿にもなき人を、疑えばこそかく~」から思い入れと云い、品位を保ちながらもエーモーショナルで、海老蔵相手に一歩も引かない。この富樫あってこそ、弁慶も生きる。そして菊之助は今更云う迄もなく、天性の義経役者。義父播磨屋との「熊谷陣屋」の義経も素晴らしかったが、今回もその魅力を遺憾なく発揮。花道での〽︎山隠すの位取りと憂愁、そして源家の若大将としての気品と美しさ。申し分ない出来。主役三人の芸格も揃って、見事な「令和の勧進帳」になっていた。

 

来年はいよいよ團十郎襲名。成田屋系と高麗屋系の弁慶が並び立つ令和の舞台が、これから愈々楽しみだ。長くなったので、その他の演目に関してはまた別項にて綴る事にする。