fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十一月吉例顔見世大歌舞伎 第二部 幸四郎の『矢の根』、新團十郎の『助六由縁江戸桜』

いよいよ世紀の興行團十郎襲名の本公演が始まった。二年半待たされた身としてはようやくか、と云う思いが強い。満員御礼の垂れ幕が下がり、場内はぎっしり一杯の見物客。巷間チケットの売れ行きが芳しくないなどと云う報道がなされていたが、今月のチケットは完売との事。巷では何かと批判が多い新團十郎だが、ネットなどで批判している人の多くは舞台を観ずに云っているのではないか。一度その舞台を観さえすれば、芸の巧拙を超えた團十郎の華、オーラの様なものを感じる事が出来るはずだ。それを最良の形で見せてくれるのが、この部の「助六」だろうと思う。

 

幕開きは歌舞伎十八番の内『矢の根』。幸四郎の五郎、巳之助の十郎、吉之丞の畑右衛門、友右衛門の文太夫と云う配役。筋書によると、幸四郎は当初予定されていた一昨年團十郎襲名公演の時に、亡き播磨屋に教わる予定だったと云う。それが延期になり、その後播磨屋が亡くなってしまったので教わる事が叶わなかった。今回播磨屋に直接教えを受けた歌昇に教わったと云う。これは凄い話しだと思う。幸四郎くらいになれば、誰に教わらなくても五郎は出来るだろう。それを亡き叔父に教えを受けたとは云え大分後輩の歌昇に教えを乞う、中々出来る事ではない。おそらく歌昇も大分恐縮した事だろう。しかしやるからには我流ではなく、演じた経験のある優に、先輩・後輩の垣根を超えて教わる。この精神が、歌舞伎芸を脈々と繋いできているのだ。

 

幸四郎は今最も乗っている役者であり、襲名以来その芸境の深まりは素晴らしいものがある。しかしその幸四郎の唯一と云ってもいい弱点が声である。甲の声が父白鸚の様に伸びやかに出ず、聞きづらさを感じさせる事がままある。二枚目系の役の場合は問題ないが、荒事には向かない声である。そこで今回の五郎であるが、幸四郎が科白廻しを考え抜いて、自分の声が出る範囲での精一杯の科白を聞かせてくれている。ムキに高音を張るのではなく、言葉は悪いが上手く抜いて科白を云っているのだ。表現が難しいが、手抜きと云うのではなく、上手く音を逃がしていると云うべきか。おそらく出来る中での最善の策であったろう。その分荒事本来の科白廻しからすると迫力を欠く部分があるのはやむを得ない。しかしその所作はこの優らしくキッバリとしていて且つ美しく、高い身体能力を生かした「背ギバ」も見事で、荒事としての力感にも不足はない。稚気愛すべき愛嬌も充分で、トータル的に実に見応えのある『矢の根』となっていた。

 

続いては『口上』。いつもの襲名披露口上と異なり、高麗屋音羽屋・高砂屋高島屋松嶋屋と云う五人の大名題のみによる口上。人数こそ少ないが、幹部役者が並んだ光景は壮観の一言。高麗屋が親戚代表としてご披露役。「先輩の云う事をよく聞き、同輩とは舞台の上で芸の火花を散らし、後輩には大きな心で接して欲しい」と心のこもった口上に客席からは笑いも起きていた。見物衆も、海老蔵時代に色々あった新團十郎のキャラクターを思い合わせたのだろう。芸は名人揃いの幹部役者連だが、松嶋屋新之助を六代目と云ったり、色々云い淀む事も多い口上だったのはご愛敬か。同世代の役者が揃っていたと云う事もあってか、亡き先代團十郎の思い出話が多く、今更乍ら先代の大きな芸風が偲ばれた。高麗屋も云っていたが、新團十郎には先代に負けない大きな役者になって貰いたい。

 

そして高麗屋に促されて成田屋だけに許されている「睨み」。新團十郎が「型だけではございますが」と云って齊入が運んできた三方を左手で掲げて、あの大きな目玉を見開いてぐっと睨む。実に迫力満点だ。江戸の昔、團十郎に睨まれると無病息災と謳われた伝統の睨みで、このコロナなどは吹き飛ばして欲しいと心底から思った次第である。将来的に新之助の「睨み」も歌舞伎座の大舞台で観てみたいと思う。

 

打ち出しは歌舞伎十八番の内『助六由縁江戸桜』。今回の襲名公演の演目は歌舞伎十八番にフォーカスしているところが、如何にも新團十郎らしい。配役は團十郎助六新之助の福山かつぎ、菊之助の揚巻、松緑の意休、幸四郎の口上、梅枝の白玉、又五郎の仙平、齊入のお辰、鴈治郎の里暁、東蔵の三浦屋女房、魁春の満江、高砂屋の新兵衛、松嶋屋の門兵衛と云う配役。平成の三之助が久々に舞台に揃い、高砂屋松嶋屋が脇を固めると云う、実に魅力的な配役だ。

 

しかしつくづく襲名は魔法だと思う。と云うのは今回の新團十郎助六の素晴らしい事と云ったら、とても筆者の拙い筆力では表現しきれない程だ。海老蔵時代の助六も勿論観ており、ニンに合った結構な助六ではあったが、今回の助六海老蔵時代とは比較にならない素晴らしさだ。元来新團十郎海老蔵時代から天性の助六役者ではあったが、今度の助六はこれこそ助六だと断言出来る見事なもの。改めて思ったのは、この「助六」と云う役は出端が全てだと云う事だ。

 

筋書で團十郎が「花道からの出端が大切。出端は踊りではなく語りだと云う九代目の口伝がある」と語っているが、正にその通りの出端。踊りの様に流れるのではなく、助六と云う人物をその所作で"語る"のだ。江戸一の伊達男らしい色気、荒事らしい力強さ、和事の柔らか味、若者らしい傲岸不遜なところ、その全てをこの花道の所作で見せる。ゆっくりと見せる所があるかと思えば、唐突に激しく豪快に動く。そこがやはり通常の踊りではなく語りと云われる部分なのだが、團十郎助六はその全てが助六になり切っており、役が肚に落ちているからこその所作である思う。この出端をここまで出来れば、後はどうとでもなるくらいなものだ。

 

舞台に廻って以降も天性の愛嬌と色気。荒事の力感と和事の柔らかさ。その全てが体現されており、科白廻しも海老蔵時代の癖が取れ、聞き惚れるばかりの名調子。松嶋屋高砂屋を相手にしても全く引けを取らず、やはりこの優は天性の助六役者なのだと思わされた。亡き父先代團十郎も実に素敵な助六だったが、ニンとしては新團十郎だろう。こうやって書いていても、とてもこの助六の素晴らしさを伝えきれないのがもどかしい。実際観て貰うしかないが、もう今月のチケットは完売との事。未見の方には、来月も演じる助六は必見と申し上げておきたい。この役は年齢重ねれば良いと云うものでもないので、もしかすると今が最旬かもしれないのだ。

 

歌舞伎座では初めてと云う菊之助の揚巻と、松緑初役の意休も素晴らしい。ことに菊之助の揚巻は舞台を圧するばかりの美しさと、歌舞伎座の立女形と云っても過言ではない貫禄で、実に見事な花魁ぶり。「間夫がなければ女郎は闇」のたっぷりした科白廻しも絶品。満江との二度目の出では世話女房の気分も漂わせて、とても歌舞伎座初役とは思えない素晴らしさ。来月の大和屋を観てみないと即断は出来ないが、当代の揚巻と云っていいかもしれない。松緑の意休も実に手強い出来で、三之助が舞台で極まったところを観れたのは感無量の思いだった。

 

松嶋屋高砂屋は云う迄もなく見事な出来。ことに高砂屋の新兵衛の和事味は天下一品の素晴らしさ。團十郎との年齢差を全く感じさせない流石の芸だった。鴈治郎の里暁が、十代から愛用していると云うラルフローレンの香水迄持ち出して舞台を大いに盛り上げていたのも印象深い。梅枝の白玉も菊之助揚巻との芸格の釣り合いも良く、これまた結構な出来。各役全てが本役で、これぞ令和の「助六」とも云うべき実に素晴らしい狂言だった。

 

一部には新之助の『外郎売』と團十郎の『勧進帳』が並ぶ。『勧進帳』は先日松嶋屋・大和屋で観ているが、同世代の幸四郎猿之助との組み合わせも楽しみだ。