fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十二月大歌舞伎 十二月大歌舞伎 第二部 松緑・勘九郎の「加賀鳶」、七之助の『鷺娘』

今年最後の歌舞伎観劇となった歌舞伎座第二部。入りは一部・三部程ではなかったが、それでも九分近く入っていたであろうか。個人的にはこの二部を今月一番の楽しみにしていたのだが、どうも筆者の好みと世間一般の嗜好は異なる様だ(苦笑)。今年も歌舞伎座の全公演を観る事が出来た。今年の個人的な歌舞伎ベスト10はまた項を改めて綴るが、幾つも印象に残る芝居があった。まぁそれを思い出す為の手づるにする事が、本ブログの趣旨なのだが。

 

幕開きは『盲長屋梅加賀鳶』から「加賀鳶」。黙阿弥作の傑作世話狂言である。今年は本当に黙阿弥イヤーであったと云う印象。ここ二十年位は、高麗屋音羽屋と云う大名題二人が中心となって上演されてきた芝居だ。今回の配役は、松緑が梅吉と道玄の二役、勘九郎の松蔵、権十郎の与兵衛、橘太郎の佐五兵衛、芝のぶのおせつ、鶴松のお朝、雀右衛門のお兼、獅童・彦三郎・男女蔵・松江・精四郎・吉之丞他の加賀鳶。鳶の役者はおくとして、雀右衛門以外の松緑勘九郎権十郎芝のぶ・鶴松は初役の様だ。

 

松緑菊之助は、令和の劇団を牽引していくべき存在で、いいライバルであると思う。劇団と云えば世話物で、欠かせない芝居が幾つもある。その中でもこの「加賀鳶」は重要な狂言だが、菊之助はまだ演じた事がなく、松緑は今回が初役。ニンとしては、梅吉は兎も角、道玄は松緑の方がニンであろうと思う。序幕「本郷通町木戸前の場」に於ける梅吉は、キリっとした鳶頭姿で、踊り上手の松緑らしく所作が鯔背に決まっていて見事な梅吉。勘九郎初役の松蔵もいい貫禄で、世話の上手さが光る。

 

続く「お茶の水土手際の場」。ここの松緑道玄は軽い出から一転金に気づいての殺しになるところ、替り目がきっぱりしており、流石松緑と云う上手さだ。花道にかかった道玄を見とがめての松蔵「あぁ、按摩か」の勘九郎の科白も、余韻が漂いこれまた結構。三幕目一場「菊坂道玄借家の場」は、道玄が楊枝を咥え乍ら出て来たところ、世話の味が漂っていて、ここだけで一気に道玄の世界に引き込まれる。実にいい雰囲気だ。ただこの場の芝のぶ演じるのおせつは、芝居の上手さでもたせてはいるが、ニンにない役なので少々気の毒の感。

 

続く二場「竹町質店の場」。ここはまず橘太郎の佐五兵衛が傑作。何でも出来る得難い優だが、こう云う可笑しみのある世話の役に本領がある。小僧にやり込められる貫目の軽さがあり乍ら、道玄に金を渡して返そうとするところなどには番頭らしさがしっかりあり、流石の芝居。そしてこの場の松緑勘九郎の芝居が本当に素晴らしい。道玄が丁寧な物腰で店に入って来たところから、またしても一転しての強請は、凄みを効かせてはいても所詮小悪党と云うらしさがあり、世話の味わいもたっぷりで観ていてウキウキした気持ちにさせられる。強請科白の「もとより話の根無し草」の黙阿弥調も、実に結構な名調子だ。

 

勘九郎松蔵に計略を見顕されての慌てる芝居も実に軽く、上手い。そしてこの場の勘九郎松蔵が実にキッパリとした芝居で、初役とは思えない見事さ。父勘三郎も演じていない役だが、多分父が演じてもこの嵌まり具合は見られなかったのではないか。何でも自分流に自在に崩して自らのモノにしてしまう勘三郎なら素晴らしく鯔背には演じたであろう。しかしここの勘九郎の様な、背筋に一本の芯の通ったキッパリ感は出せなかったのではないか。やり込められた道玄に、仮にも旦那の名前の入った書き付けと、十両の金をくれてやる科白も所作も粋である。「また療治にでも来ねぇ」「へぃ、お療治に伺います」の二人のやり取りも絶妙なイキであった。

 

大詰「元の道玄借家の場」。ここもしくじってやけ酒気味に晩酌をしている道玄に、いい世話の味が漂う。お兼演じる雀右衛門は全くニンではないが、芝居は流石に上手い。筆者が今まで観た最高のお兼は亡き秀太郎なのだが、過去にこの役を演じた役者が出していない味を雀右衛門が一つ出している。お兼は打算で道玄と一緒に悪事を働くと云うテイストが今まで観たお兼であったが、雀右衛門が演じると本気で道玄に惚れていて、それ故に悪事でも何でもすると云うお兼になっている。事実筋書で雀右衛門は「道玄のことが心底好き」なのだと語っている。これは一つの見識であろうと思う。前述通り、ニンには敵っていないのだが。

 

最後の大詰二場「加州侯表門の場」に於けるだんまりの所作も、脇の役者達と気が揃っていて、面白く見せてくれる。一旦捕らえられての「俺だ、俺だ」の軽い味わいも良し。ここら辺りの所作の良さは、流石花形きっての舞踊の名手松緑と云ったところ。最後道玄がお縄になって幕となった。初役の役者が多い乍ら、実に結構な世話の味わいが横溢していた、見事な令和の『盲長屋梅加賀鳶』であった。

 

続いて打ち出しは『鷺娘』。云わずと知れた長唄女形舞踊の最高峰の一つだ。明治になって九世團十郎が現行の形にして以降、代々時の代表的な女形が勤めて来た舞踊。平成になってからは大和屋の上演回数が群を抜いていたが、十五年程前に踊り納めてしまっている。その後は七之助が引き継いだが、その七之助自身も踊るのは十四年ぶりの様だ。筆者的には、二年程前に博多座に於いて菊之助で上演されたものを観て以来である。

 

多分二人とも大和屋から指導を受けていると思われるが、菊之助七之助では印象が少し異なる。二人とも比較的クールな芸風ではあるのだが、菊之助の鷺娘は、かなわぬ恋に身を焦がし、雪のなかで静かに死んでいく切なさと云うか、その気持ちが踊りの中心にあった。今の様な自由な恋愛が叶えられる時代でなかった江戸娘のその心、大和屋よりもより古風な娘心を表現していた様に思う。その分大和屋鷺娘に濃厚に漂っている神秘的な面は、減退していた印象であった。

 

今回の七之助は、完全に大和屋マナーである。当人がどう考えて踊っていたかは判らないが、純粋に技術で大和屋に挑んでいた様に思われる。白無垢を引き抜いて赤地の振り袖になったところなども、明るい雰囲気と云うより、雪に氷漬けされた純情と云った風情である。〽添うも添われずあたりからの鳥の本性を顕しての責め苦の所作も、心と云うより形の美しさで行くと云った印象。そしてその踊りは、どこをとっても技術的に非常に高いレベルにある。この優の踊り手としての技量は驚くべきものだ。そして全編を通じて神秘的な雰囲気を纏っており、この世のものとは思えない美しさである。七之助が筋書で「お客様を異次元の世界に誘う」と語っていた通りの鷺娘であったと云えるであろう。

 

勿論七之助鷺娘に心がないと意味ではない。これは狂言へのアプローチの違いである。元々根っこにはクールな物を持っている菊之助七之助だが、同じ舞踊を踊っても上記の様に印象が変わって来るのが興味深い。これは優劣の比較と云う事ではなく、我々としては令和の時代に素晴らしい女形舞踊の踊り手を二人持てた事の幸福を、喜ぶべきであろう。近い内に、まだ実現していない歌舞伎座での菊之助鷺娘の上演を観てみたいものだ。またすぐ歌舞伎座で鷺娘と云う訳にも行かないだろうけれども。

 

世話物に舞踊と云う狂言二題。松緑中村屋兄弟が実に素晴らしく、見応えたっぷりで、大満足の歌舞伎座第二部であった。これで今年の歌舞伎も見納めである。令和六年の極私的歌舞伎ベスト10は、後日改めて発表します。そんな大袈裟なモノではないけれど。