先月に引き続き、歌舞伎鑑賞教室を観劇。入りは先月よりは良かったが、まぁ五分の入りと云ったところだったろうか。ただ筆者的には先月の荒川区民会館より、こちらのティアラこうとうの方が馴染みがある。八神純子のライヴや、東京シティフィルのコンサートなどで何度か訪れた事があるからだ。国立劇場さん、今後も出来ればこちらでお願いします(笑)。
最初はお約束の「歌舞伎のみかた」。先月の宗之助同様、芝居には出ていない玉太郎が解説。やはり先月と同じく見得や黒御簾音楽・竹本などの解説をして、『義経千本桜』の大筋を説明する。初めて歌舞伎をご覧になる方は手をあげて下さいと客席に促したところ、かなりの人の手があがっていた。それだけでもこの鑑賞教室の意義があると云うものだ。筆者は別に松竹の関係者ではないが、これで歌舞伎沼に嵌まる人が一人でも増える事を、願っている。
休憩を挟んでいよいよ『義経千本桜』から「河連法眼館の場」、通称「四の切」だ。この体力の必要な役に、還暦間近の芝翫が初役で挑んだ。配役はその芝翫の忠信・源九郎狐、新吾の静御前、福之助の義経、歌女之丞の飛鳥、橋之助の次郎、歌之助の六郎、松江の法眼。昼は橋之助が忠信・源九郎狐を演じており、芝翫は法眼に回っている様だ。橋之助が演じるのは二度目らしく、インタビューで芝翫が「倅に教わる」と云っていたのが面白い。無論、冗談だろうが。
その芝翫だが、まず本物の忠信が良い。会場的にしょぼい花道ではあるが、如何にも丸本らしいたっぷりした風情を漂わせている。舞台に廻り義経に静は如何したと問われるも、身に覚えなしと答え、裏切りを疑われる。そこに静を伴って忠信が来たと告げられ、偽物を捕縛せんと刀の下げ緒をほどいて縛り縄にするところのキッパリとした所作も素晴らしい。そして新吾の静御前が花道を出て来る。拵えは赤姫だが、娘ではない艶を漂わせて、こちらも結構な静御前。
次郎・六郎に連れられて忠信が退場。義経は静に忠信の詮議を命じる。そして初音の鼓を打つと、正面三段に狐忠信が現れる。ここは初日故にかあまりスッキリとは行かなかった。基本的に芝翫の狐忠信の所作は、例えば猿之助などと比べて重々しいものとなっている。狐言葉も甲の声を使ってはいるが、あまり狐感を強調したものではない。今まで何度も書いてきたが、芝翫は当代きっての丸本役者であると筆者は考えている。しかし芸風的には高麗屋や播磨屋の系譜に連なる英雄役者である。その意味でこの狐忠信は芝翫のニンではない。所謂ケレン的な所作や科白廻しは、普通にイメージする狐忠信のそれとは異なっている。
しかし芝翫の狐忠信の価値はそこではない。狐的な風情には欠けていても、生きとし生けるものの普遍の感情である子が親を思う心情と云うものは、きっちりと出せているのだ。「何ぼ愚痴無智の畜生でも、孝行と云う事を知らいで何と致しましょう」の科白は真に迫り、観ている者の心を揺さぶらずにはおかない。作者が意図した、畜生ですら肉親の情があるのに、人間の兄弟同士がいがみ合う現実への痛烈な皮肉を、芝翫が全身で体現している。そしてその心情にうたれた義経から初音の鼓を下げ渡された時の無邪気に喜ぶ姿。大柄な芝翫が身体を丸めて子供に返って感激する。筆者は思わず涙ぐみそうになった。役が肚に入っているからこそ、観ている者の心を打つのだ。ニンではないがそこは流石は芝翫。初役乍らまずは見事な狐忠信であったと思う。
今回は法眼戻りからきっちりやってくれていて、その点でも好感が持てる。松江の法眼は筋書で松江自身が「老け役だが、よぼよぼ爺さんではない」と語っていた通り、少し若い作りで、貫禄には多少欠けるものの悪くない。雀右衛門に教えを乞うたと云う新吾の静御前は、狐を憐み思わず涙ぐむところ、情の深さをしっかり感じさせてくれる良い静。高砂屋に教わったと云う福之助の義経は、源家の若大将らしいスッキリとした所作と科白廻しで、初役乍ら健闘していた。舞台上に芝翫・橋之助・福之助・歌之助と成駒屋の役者四人が揃った姿は実に壮観。見応え充分の「四の切」であった。
今月は他に歌舞伎座の昼夜を観劇予定。昼は團十郎、夜は幸四郎の奮闘公演。大いに期待したい。