fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

秀山祭九月大歌舞伎 Aプロ夜の部 高麗屋親子・左近の「車引」、時蔵・壱太郎の「賀の祝」、松緑・幸四郎の「寺子屋」

今月の最後、Bプロ夜の部を観劇。他の部同様、大入り満員の大盛況。本当にいつも開場前の入り口には、長蛇の列が出来ている。今月は初代吉右衛門の功績を称える秀山祭なので、播磨屋亡き後は濃厚な親類の高麗屋が中心となっている興行。ただ松緑も縁戚であるし、菊五郎播磨屋の娘婿と云う関係なので、幸四郎松緑菊五郎と云う豪華な顔ぶれがここ数年続いている。更に今年は松嶋屋も加わる大一座。一年の中でも襲名を除けば、最も豪勢な顔合わせ興行になっている。

 

幕開きはBプロ同様「車引」。このAプロは高麗屋三代揃い踏みが、何と云っても話題である。配役は幸四郎の松王丸、染五郎の桜丸、左近の桜丸、廣太郎の杉王丸、白鸚の時平。廣太郎以外は、Bプロとは違う役者が勤めると云う形になっている。中では染五郎・左近・白鸚が初役。白鸚は体調の関係で演じられる役柄が限定的ではあるものの、最近は初役ばかりの印象。染五郎幸四郎に、左近は音羽屋に教わったと云う。

 

幸四郎の松王丸は六度目とあって、流石の安定感。親父さんや芝翫の様な大きさにはやや欠ける印象だが、この座組では自然と兄貴分の貫禄が出ている。元々舞踊で鍛えた形の良さには定評のある優。しっかり腰も落ちており、指先までぴっしりと意識が行き届いていて、観ていて実に美しい。荒事の力感にも欠けておらず、これはもう完全に持ち役と云って良いであろう。いつか幸四郎の松王・松緑の梅王・菊五郎の桜丸と云う組み合わせが観てみたいものだ。さぞ見事な「車引」になるであろうと思う。

 

染五郎の桜丸は、父譲りの形の良さは流石ではあるものの、荒事を意識する余り力みが目立つ。これは若手の初役としては致し方ないであろう。殊にBプロの松緑を観た後であったので、余計である。しかしこれも経験。父に必死に喰らいつこうとする姿は、観ていて実に清々しい。左近の桜丸は憂いがあり、舞踊藤間流の惣領らしい柔らかな所作は、初役らしからぬ見事なもの。こちらも絶品とも云うべき錦之助を観ているので印象としては損をしているが、立派な桜丸であったと思う。

 

白鸚の時平は、流石に無類の大きさ。しかし筆者の席からは牛車に車椅子で入る高麗屋の姿が見えたので、痛々しい気持ちになってしまった。立ち上がりはしなかったものの、座ったままでも国崩しの大きさをしっかり出しているのは、練り上げた芸の賜物。その声に衰えは見えず、歌舞伎座の大舞台を揺るがすかの様な科白廻しで、格の違いを見せつけてくれていた。今後も高麗屋には健康には充分留意して頂き、例え立てなくともその大きな舞台姿を見せ続けて欲しいと願っている。

 

続いて「賀の祝」。こちらAプロの配役は時蔵の桜丸、壱太郎の八重、橋之助の梅王丸、種之助の春、新吾の千代、歌昇の松王丸、又五郎の白太夫。Bプロとは、三兄弟と八重、白太夫が替わっている。Wキャストの時蔵・壱太郎・橋之助歌昇又五郎は全員初役らしい。中で時蔵は父萬壽に、歌昇幸四郎の教えを受けたと云う。そして又五郎は、自身が賀の祝の年齢たど筋書で語っていた。

 

こちらはBプロに比べて渋い芝居の印象。菊五郎に比べて時蔵が派手な芸風ではないので、それが狂言全体の印象を定義しているとも云える。しかし八重の壱太郎共々、若い乍ら義太夫味がしっかりあり、こちらの方がより古風な芝居だと感じる。ただ壱太郎がたっぷりした上方の芸風であったので、他の東京の役者の中に入ると、多少の違和感はあった。しかし以前にも書いたが、将来的には女形として東の時蔵・西の壱太郎と併称される様になると思っている両優の共演は、筆者的には嬉しかった。

 

橋之助歌昇の組み合わせは、稚気溢れる前髪ぶりで悪くはないが、Bプロの萬太郎・彦三郎と比較すると芝居がやや小ぶりに感じられる。こうしてみると、昼の部はやはり彦三郎の存在が大きかったのだと改めて思わせられた。昼の部に続いて兄歌六とのWキャストであった又五郎も、情味はあったもののやはり歌六に比べると義太夫味が薄く、やや喰い足りない印象であった。総じて出来としてはBプロには及ばなかった様に思われるAプロ「賀の祝」であった。

 

打ち出しは「寺子屋」。配役は松緑の松王丸、幸四郎の源蔵、孝太郎の戸浪、坂東亀蔵の玄蕃、種太郎の小太郎、秀乃介の菅秀才、吉之丞の三助、橘三郎の吾作、男女蔵の涎くり、東蔵圓生の前、萬壽の千代。吉之丞・橘三郎・男女蔵以外はWキャスト。こちらは初役はなく、各役手練れで固めて来た印象。中で萬壽は、初演時七世梅幸に教えて貰ったらしい。劇団の芸が脈々と受け継がれて来ているのを感じられて、嬉しい限りである。

 

松緑の松王丸は、音羽屋に伝わる銀鼠の衣装で勤めている。そのせいもあってか、幸四郎に比べるとややすっきりした印象。義太夫味はきっちりあるが、幸四郎の様な古格な感じではない。しかしだからと云って幸四郎に比べて劣っていると云う事は決してなく、出から寺子の面改めで「百姓めぇら、ざわざわとぬかさずと、一人ずつ面改め、戻してくりょう」のあたりの科白回しも実にたっぷりしており、手応え充分の松王。首実検で、我が子小太郎の首を確認した時の「源蔵、よく討った」で「でかした」を云わないのは、同じ音羽屋の菊五郎と同様の往き方。やつしの手強さから、後段のもどりの芝居は幸四郎に比べるとぐっと抑えた芝居。その中で子を身替りに立てた親の哀しみがきっちりと表現されている、見事な松王丸。

 

対する幸四郎源蔵は六度目との事で、もう自家薬籠中の役。当人もインタビューで「この狂言の中で、最も思い入れのある役」と語っている通り、花道の出からしてずっしりと手応えのある源蔵。松王丸もそうであったが、この優の丸本は義太夫味が一層深みを増しており、小太郎を身替りに立てると決心した際の妻孝太郎戸浪との「生き顔と死に顔は、相好の変わるもの」からの科白のやり取りは、そのトーンと云い、竹本に乗った絶妙な抑揚と云い、二人揃って実に見事なもの。松緑松王との首実検を挟んだ責めと受けの芝居も、双方ギリギリの緊迫感が漲っていて、見応えたっぷり。これはもう当代の源蔵と云って良いであろう。

 

萬壽の千代は、Bプロの雀右衛門に比べるとより忠実に丸本マナーに則り、節度を保って抑えた芝居の中に、子を亡くした母親の悲嘆がしっとりと表現されている。雀右衛門との優劣ではなく、より古風な手触りが如何にもこの優らしく、古格で立派な千代。二十歳程歳の離れた松緑松王丸と並んでも、全く違和感のないところが芸である。東蔵圓生の前も流石の位取りを見せてくれていたが、足が不自由そうであったのが気になった。高麗屋松嶋屋より更に高齢の東蔵。こちらも体調には充分留意して貰いたい。Bプロも同様であったが、五月菊五郎襲名公演で掛かった時より、「寺入り」で涎くりを机に立たせる場がきっちりあったのは、嬉しい限り。ABプロどちらも甲乙つけ難い、見事な出来の「寺子屋」であったと思う。

 

今月の観劇は、これで終了。来月は通し狂言シリーズ最終公演『義経千本桜』。若手花形が大役に挑む姿を、楽しみにしたい。