fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

秀山祭九月大歌舞伎 Bプロ夜の部 芝翫・松緑・錦之助の「車引」、菊五郎・米吉の「賀の祝」、高麗屋親子の「寺子屋」

続いて歌舞伎座夜の部Bプロを観劇。こちらも昼の部同様満員の盛況。開場前の入口には長蛇の列が出来ており、熱気一杯。連日これだけ入れば、役者の方も自然と力が入ると云うもであろう。芝居としても昼の部より盛り上がりのある場が多いので、映画「国宝」の影響で歌舞伎座に来られた方には、こちらの夜の部の方が入りやすいかもしれない。いずれにしても、多くの方々に歌舞伎リピーターになって頂きたいものだ。

 

幕開きは「車引」。本行の文楽では大した場ではなかったものを、歌舞伎で一つの大きな場とした芝居。これを歌舞伎化した人は、天才ではないかと思う。如何にも歌舞伎的魅力が横溢している場で、極論すればこの場が判らない人に、歌舞伎の魅力を理解するのは難しいかもしれない。Bプロの配役は芝翫の松王丸、松緑の梅王丸、錦之助の桜丸、廣太郎の杉王丸、権十郎の時平。芸達者の役者で固めており、最近の芝居としては珍しく、初役が誰もいない。初演時には芝翫は亡き三津五郎に、そして松緑は先代團十郎の教えを受けたと云う。結論から云うと、師匠二人は残念にも早逝してしまったが、その魂はしっかり受け継がれていると感じさせてくれる、素晴らしい「車引」であった。

 

松緑の梅王丸は、この優らしい形の良さと力感が絶妙にマッチした見事な梅王。荒事の役なのだが無用な力みはなく、芝居の中の自然な流れで江戸の荒事を実現してくれている。若い役者が演じると、荒事と云うだけで変に力みを感じさせてしまいがちであるが、流石に松緑は違う。黙阿弥調や荒事と云うものは、現代青年が実生活上で出会ったり感じたりする事柄とは隔絶している。それだけに若い役者がこなすのは難しいものだと思う。しかし松緑は、現代の役者の中では珍しい、昔ながらの感性を持っているのではないかと思う。多分この優は、芝居の神様と云うものを信じているのではないだろうか。そんな事を感じさせる昔ながらの本寸法な梅王丸であった。

 

そして錦之助の桜丸。これがまた傑作とも云うべき素晴らしさ。最近観る桜丸は女形役者が勤めている事が多いと云う事情もあるのだが、和事と云う事に頭が行き過ぎているのか、妙に柔らか過ぎ、まるで女性の様な造形であるケースが見受けられる。和事ではあるのだが、桜丸はあくまで立役である。柔らかさの中に男性らしい芯がなければならない。その点錦之助の桜丸は、中心にピシッと一方芯が通っている。しかもその所作は和事らしい柔らかさを決して忘れない。そして自らの軽率な行動で菅丞相が流罪になってしまった事への慙愧の念もしっかり表現されている。これはもう当代の桜丸と云って良いだろう。

 

最後に「やぁ~れ暫く、おん待ち下されぃ」の声と伴に表れる芝翫の松王丸。筆者にとってこの場最高の松王丸は高麗屋なのだが、今回の芝翫はその高麗屋に肉薄する素晴らしさ。舞台一面に響き渡る上記出の声の朗々とした科白廻しの見事さは、これだけであぁいい松王だなと思わせてくれる。そして三人並んでの所作事に於いて、自然と表出される兄貴分としての貫禄。角々の極まりのきっちりした豪快な見得の数々。高麗屋が高齢でもうこの松王丸を演じる機会がないとすれば、こちらも当代の松王と云えるのではないだろうか。

 

権十郎の時平はニンではないので国崩しらしい大きさに若干欠けており、線の細さを感じさせる部分はあるものの、古怪な科白廻しで悪くない出来。廣太郎の杉王丸は何度も演じていて完全な持ち役。総じて兎に角三兄弟を演じた三優全力の芝居が実に見事で、筆者が今まで何度となく観て来た「車引」の中でも傑作としか云い様のない出来。これぞ正に当代の「車引」と評して、些かも差し支えない素晴らしい場であったと思う。

 

続いて「賀の祝」。夜の部の中で、ここは中々掛からない場。歌舞伎座での上演は十年ぶりの様である。Bプロの配役は菊五郎の桜丸、米吉の八重、萬太郎の梅王丸、種之助の春、新吾の千代、彦三郎の松王丸、歌六の白太夫菊五郎以外は初役の様だが、歌六までも初役と云うのは些か驚いた。筋書に記載がなかったので、それぞれ誰に教わったのかは不明であるが、彦三郎は父楽善から何らかのアドバイスは仰いだであろうと推測される。

 

内容としては、「車引」で三兄弟が云っていた父白太夫七十歳を祝う一家の集まりでの物語である。三兄弟は、今後それぞれどんな身の振り方をしようと、父の賀を祝う迄はと思っている。梅王丸は遠島になった菅丞相の後を追おうと、松王丸は勘当して貰おうとそれぞれ思っており。そして唯一参着していないと思われた桜丸が最後に奥から現れて、丞相流罪の責を負い、自害すると云う場である。

 

この場では何と云っても菊五郎の桜丸が逸品である。まずニンに適っている事が大きい。そして憂いを湛えた出から、縋りつく女房を押さえての自害に至る迄気品があり、その中にも揺るがぬ決意の強さも感じさせる見事な桜丸。菊五郎は格調高い芸風なので舎人としては品が良すぎるところがあるかもしれないが、観ていてこれ程美しい桜丸は他にないし、切腹の所作も変にリアルに流れず、丸本の芝居としては申し分のない出来。今後菊五郎は大家としての幅を一層身につけて行くであろうと思うが、幾つになってもこの桜丸を演じられる役者であり続けて貰いたいと願っている。

 

彦三郎の松王丸と萬太郎の梅王丸も、前髪らしい稚気溢れる役作りで、米俵を使った喧嘩の場も見物衆が大いに沸いており、初役乍ら立派な出来。米吉の八重は、三人の妻の中で唯一振袖姿で、この夫婦がまだ新婚であろう事を感じさせる可憐な姿。その美しさが夫を先立たせる哀しみをより一層際立たせており、こちらも結構な八重。歌六の白太夫義太夫味たっぷりの実に渋い芝居で、流石の技量。桜の枝が折れ、神籤の扇も桜を引く事が出来ず、万策尽きて倅を切腹させる事になる嘆きの深さを、叩く鉦の音一音一音に込めている見事な白太夫。この名人役者には、初役など関係なかった様だ。前後の場に比べて地味な印象の場であるが、立派な「賀の祝」であった。

 

最後は皆さんお待ちかねの「寺子屋」。こちらは単独で何度も掛かっている場。名だたる役者が演じて来た歌舞伎の代表的な芝居である。今回の配役は幸四郎の松王丸、染五郎の源蔵、時蔵の戸浪、錦吾の玄蕃、種太郎の小太郎、秀之介の菅秀才、吉之丞の三助、橘三郎の吾作、男女蔵の涎くり、高麗蔵の圓生の前、雀右衛門の千代。中ではごちそうの男女蔵は兎も角、染五郎雀右衛門が初役。こちらも雀右衛門が初役とは驚きである。染五郎は父幸四郎に、雀右衛門魁春の教えを受けたらしい。

 

幸四郎の松王丸は、もう何度か手掛けた役。出の重量感が増し、義太夫味も以前よりたっぷりとして来ている。ここ数年、幸四郎の丸本に於ける芝居は深化し続けており、自分の声域を完全に把握して無理な発声をしなくなったのが良い。前半のやつしの部分の彫りの深い芝居は、この優の義太夫狂言に対する理解度の深さを示すものだ。憎体な芝居に徹しきっているが、我が子の首が入っていると思われる首桶にかけた手が僅かに震え、底割れにならない程度にその心境を垣間見せる。そして蓋を開けて首をじっと見つめ、ひと間おいて「菅秀才の首に相違なし、相違ござらん。出かした源蔵よく討ったな~」の科白が丸本の枠を外れず、しかも深い慟哭に満ちていて、実に見事。

 

後段の戻りになってからの芝居は、桜丸に対する兄としての思い、我が子を身替りにした父親としての思いが深く重なり、嘆きの芝居が真に迫る迫力。幸四郎の我が子を失った泣き笑いの芝居を観ていて筆者は、亡き勘三郎の松王を思い出していた。二人の芸風は異なるが、ここの場の嘆きの深さには世代を超えた二人の役者の、この場の芝居に於ける共通の思いが感じられた。「寺子屋」の松王丸は、高麗屋四代にわたる謂わば家の芸とも云える役柄。それを当代幸四郎は完全に自家薬籠中のものとした事が感じ取れる、素晴らしい出来であった。

 

そうしてもう一つ驚くべき事だが、染五郎初役の源蔵がこれまた実に見事であったのだ。昼の部で演じた源蔵でも少し触れたが、この優は弱冠二十歳にして、丸本の何たるかを理解している様に思えるのだ。義太夫狂言に於ける科白廻しは難しく、一朝一夕に出来るものではない。しかしこの場に於ける染五郎源蔵の科白廻しは、竹本と見事にシンクロしており、実に立派な丸本の科白廻しとなっているのだ。有名な「いずれを見ても山が育ち」や、「せまじきものは、宮仕えじゃなぁ」のたっぷりとした科白廻しは、丸本の土台を支える竹本と一つになって、ただただ聞き惚れるばかりである。

 

寺入りしたばかりの小太郎の首を討ち、実検に供える。その首桶を松王が開けようとする際には、もし顕れたら一刀のもとに切り捨てると云う覚悟が、その所作と気組みに満ち溢れており、染五郎はここまでの芝居が出来る役者になったのかと、筆者は感慨深い思いで観ていた。一回り以上も年長の時蔵と組んでも違和感のない大きさもあり、同じ年齢だった頃の親父さんより、確実に上等な丸本を見せてくれていると思う。この優の将来は洋々たるものであると、確信させられた立派な源蔵であった。

 

こちらも初役雀右衛門の千代もまた素晴らしい。「寺入り」での小太郎との覚悟した別れの場に於ける、底割れにならない芝居の中に感じさせる母の思い。戻った後に事が露見するのを恐れた源蔵に斬りつけられ、刀を机文庫で押さえての「若君管秀才様の御身替わり、お役にたてて下さったか。」で「若君」の後に一拍おいて「管秀才様」と行く辺りのイキも絶品。その後に続けて「ただしは未だか」と詰め寄るところ真に迫った迫力。我が子の死を確認した後の嘆きの深さは、丸本の枠ギリギリの愁嘆芝居で、これ以上泣くと、芝居そのものを壊してしまうと云う一歩手前でおさめている。流石雀右衛門、初役をものともしない見事さであったと思う。

 

時蔵の戸浪も若い染五郎源蔵と並んでも違和感のない芝居で、義太夫味もしっかりあり、何とかこの場を切り抜けたいと云う必死の思いが、その所作一つ一つにこもっている。死んだのが松王夫婦の子小太郎であったと顕れた後に見せる、夫婦の気持ちを思いやる芝居もまた見事。この優の丸本は本当に安心して観ていられるものだ。持ち役とも云うべき錦吾の玄蕃も実に手強い出来で、各役揃って秀山祭に相応しい名品「寺子屋」であったと思う。今月残るAプロ夜の部の感想は、また別項にて。