fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

秀山祭九月大歌舞伎 Aプロ昼の部 歌昇・新吾の「加茂堤」、松嶋屋・幸四郎の「筆法伝授」、松嶋屋親子・松緑・菊五郎・魁春の「道明寺」

歌舞伎座九月秀山祭Aプロ昼の部を観劇。切符売り場の前に売り切れの看板もあり、大入り満員の大盛況。松嶋屋十八番中の十八番菅丞相が出ると云う事も勿論あるだろうが、話題の映画「国宝」の影響も無視出来ないのではないかと思う。あの映画をきっかけに歌舞伎に親しむ人が増えてくれるのは嬉しい事だ。しかし最初に観る歌舞伎が『菅原伝授手習鑑』だとしたら、少々ハードルが高い様な気もする。しかしこれを乗り越えられるお客であったら、今後頻繁に歌舞伎に接してくれる様になるのではないか。ただチケットが少々入手し辛くなっているのは困った事態だが(苦笑)。

 

今月は三月の「忠臣蔵」に続いて松竹創立百三十年通し狂言第二段『菅原伝授手習鑑』。云わずと知れた三大狂言の一つで、幸四郎曰く「義太夫狂言の最高傑作」。まず幕開きは「加茂堤」。後の三兄弟の悲劇に繋がる重要な発端の場だが、春ののどかな風景を背景にしたコミカルな味わいもある一幕だ。配役は歌昇の桜丸、新吾の八重、左近の苅屋姫、米吉の斎世親王坂東亀蔵の清行。亀蔵以外は若手花形で固めた布陣。米吉と亀蔵以外の三人は初役。左近は孝太郎の教えを受けたと云う。

 

この春うららかな中で、桜丸・八重の夫婦が良かれと思って段取りした斎世親王苅屋姫の逢瀬が皮肉な結果を招いてしまうのだが、それを感じさせない長調の調べを持った芝居が実に結構な場。見せ場としては夫の白丁を借りた八重が空の牛車を曳くところ。先月も見事な芝居を見せてくれた新吾が、大柄な身体を生かした愛嬌たっぷりな所作が観ていて実に微笑ましい。歌昇の桜丸は小柄なので新吾と並んだところはバランスが悪いが、こちらも愛嬌があり、主人斎世親王の為に尽くす真っ直ぐな気持ちがしっかりと表現されていて、こちらも結構な出来。

 

米吉の斎世親王は気品と位取りがきっちりしているところは良いが、科白廻しが女形寄りでもう少しキリっとしたところが欲しかった印象。左近の苅屋姫は行儀良く、義太夫狂言の姫らしさがあって初役としては立派なもの。亀蔵の清行はご当人が筋書で「立ち位置としては敵役だが強くなり過ぎてはいけず、品格も必要」と発言していた通りの役作りで、品がありながらも軽さと敵役らしいところも兼ね備えた見事な清行。若手花形の中にあって、存在感を発揮していたあたりは流石であった。

 

中幕は「筆法伝授」。初段の切に当たる場で、能書家としても知られる学問の神様らしく、自らの奥義を弟子の源蔵に伝授する場である。配役は松嶋屋の菅丞相、幸四郎の源蔵、時蔵の戸浪、橋之助の梅王丸、秀乃介の秀才、坂東亀蔵の清行、吉之丞の主税、吉弥の水無瀬、橘太郎の希世、雀右衛門圓生の前。秀乃介の初役は当然乍ら、吉弥と雀右衛門が初役と云うのは少し意外であった。当代菅丞相を演じられる役者は松嶋屋しかおらず、それだけにあまり掛からない場だと云う事なのであろう。その意味でも、今回の上演は実に意義深いものだ。

 

松嶋屋の芝居は後段の「道明寺」でまとめて感想を述べるとして、この場で見事であったのは幸四郎源蔵と時蔵戸浪の夫婦である。全ての狂言で役者の出と云うものは大事であるが、ここの場ではとりわけ重要。そしてこの二人の花道の出が実に素晴らしい。源蔵夫婦は不義の為に勘当になっているが、菅丞相に久々に呼び出されて現れると云う場面である。ここの二人が、自分たちが不義をした事で丞相の怒りに触れている事態に対する恐懼の念と、もしかしたらお許しが出るのかもしれないと云う思いとがない交ぜとなった絶妙とも云うべき芝居を、その所作で見せてくれている。二人の落剝した姿を見て憐みの言葉をかける雀右衛門の芝居も、夫は怒ってはいるものの、夫婦になったのだから仲良く元気で暮らして欲しいと云う思いのこもった、女性らしさを感じさせる芝居が実に上手い。

 

そして続く「菅原館学問所の場」に於いて、菅丞相から近況を問われ子供に手習いを教えて暮らしていると答える幸四郎源蔵の科白が、やや震えている様に思えるところもまた幸四郎の上手さ。そして丞相に命じられた清書を見事に書き上げ、神道秘文の一巻を伝授すると告げられる。これは勘当が許されるのではないかと思った源蔵が伝授の感謝を申し上げつつ許しを請うと、丞相は「伝授は伝授、勘当は勘当」と冷然と突き放す。この一連の芝居の中で恐れと喜び・期待、そして絶望と揺れ動く源蔵の心境を見事に表現し尽くす幸四郎の芝居は、見事と云うしかない。これは当代の源蔵と云っても良いであろう。最後は宮中から参内を命じられ花道を去って行く菅丞相を見送った源蔵夫婦と、残された圓生の前との涙交じりの別れで幕となった。そしてこの伝授の場が、松嶋屋しかやり手のないこの菅丞相と云う役を、今後は幸四郎に託すと云う寓意も含まれている様に思われ(筆者の勝手な思い込みだが)、実に感慨深い場面となっていた。

 

最後は「菅原館門外の場」。ここは芝居として特に肚のある場ではない。しかしここで梅王丸と源蔵が協力して、時平の讒言によって捕らえられた菅丞相の一子菅秀才を救出して匿い、それが後段の「寺子屋」へと繋がって行く事になる。その他の脇では何と云っても橘太郎希世が何度も演じていて自家薬籠中の物。子供っぽい意地悪をするのだが、この優らしい愛嬌と軽さがあり、当代こう云う役をやらせたら橘太郎の右で出る役者はいないであろう。吉弥も局らしい位取りと情味深さを感じさせる水無瀬で、これまた見事なもの。松嶋屋は源蔵を演じる事なく菅丞相となったが、幸四郎は今後どちらも演じる事が出来る。これは令和の歌舞伎界にとって、大きな楽しみが一つ増えたと云えるのではないか。

 

打ち出しは「道明寺」。この長い義太夫狂言の二段目の切に当たる場。菅丞相と愛する娘刈谷姫との別れが描かれ、歌舞伎「三婆」の一つである姫の伯母覚寿も登場し、「菅原伝授」前半のハイライトとも云うべき場である。配役は松嶋屋の菅丞相、孝太郎の立田の前、松緑の太郎、八代目菊五郎の輝国、左近の苅屋姫、松之助の弥藤次、芝翫の宅内、歌六の兵衛、魁春の覚寿。ここ四十年以上菅丞相を演じた役者は十三世仁左衛門と当代十五代目しかおらず、正に松嶋屋家の芸とも呼ぶべき場。魁春・左近・松緑芝翫は初役との事。魁春が初役と云うのは意外。左近は「加茂堤」と同じく孝太郎の教えを受けたと云う。

 

菅丞相を演じる際には、精進潔斎をして勤めていると云う松嶋屋。先の「筆法伝授」でもそうであったが、その気品・位取りは比肩するものがない。源蔵夫婦を呼び出した段階ではまだ自分が時平の奸計にかかり島流しになると云う事態にはなっていなかったが、源蔵に神道秘文の一巻を伝授すると思い立つのは、既に自分の将来を見通していたのではないかと感じさせる思慮深さと哀しみ、例えが正確か判らないが薄羽蜉蝣の様な儚さを、その佇まいや所作に湛えている。これぞ丞相様だとしか云い様のないものだ。

 

松嶋屋が筋書で「大きな見せ場も動きもなく、演技力より心で勤めなければならない」と云っている通り、もうこの菅丞相の松嶋屋は演技と云うものを超越してしまっている様に思われる。禅問答の様になっていまうが、菅丞相として心で居る、と云う境地なのではないだろうか。これ程の丞相様には区々たる批評など、何の役にも立たないであろう。父十三世も神品と讃えられたが、当代もその域に達していると云えると思う。夏目漱石にその芸を絶賛された落語の名人三代目小さんが、自宅の表札に「小心居」と掲げていたと云う。小さんは落語の技術を突き詰めた末に、心で居ると云う境地に辿り着いたのだと云う。そして当代仁左衛門も、歌舞伎芝居の技術を徹底的に追求し続けた果てに、丞相様として心で居ると云う境地になったのではないか。これ程の歌舞伎をこの令和の御代でも観れると云う事は、一種の奇跡ではないかと思えてくる。思わず拝みたくなります(笑)。

 

この「道明寺」は、老女・片はずし・赤姫・敵役・捌き役と歌舞伎の多くの役柄が揃う場。今回それぞれを演じた役者皆見事な芝居を見せてくれている。中でも魁春演じる覚寿は、甥である菅丞相に養子に出した娘刈谷姫の軽率な行動により、謀反の嫌疑をかけられてしまった丞相様を思い、愛娘を折檻する難役。しかしとても初役とは思えない素晴らしさで、武家の女房らしい凛とした強さと、娘への満腔たる愛情を感じさせてくれる見事な覚寿。孝太郎の立田の前もまた武家の女房らしい位取りがしっかりとあり、刈谷姫を思う気持ちが溢れる立派な片はずし。

 

女形以外の役では松緑の兵衛が、敵役ではあるがこの優らしい愛嬌も滲ませる独特の兵衛でいい味わいを出している。芝翫の奴宅内は、描線の太さと軽さを併せ持った、如何にも丸本の奴らしい流石とも云うべき出来。そして菊五郎の輝国は切って嵌めた様なはまり役で、これぞ捌き役としか云い様のないものだ。正に傑作とも云うべきAプロ「道明寺」であったが、Bプロでも主要な役者を入れ替えて同じ場が出る。この神品に幸四郎がどこまで迫れるか。途轍もなく高いハードルではあるが、幸四郎の挑戦を楽しみにしたい。