fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

三月大歌舞伎 第二部 芝翫・幸四郎の「十段目」、松緑・鴈治郎の『身替座禅』

歌舞伎座二部を観劇。こちらも八分位の入り。今月は三部とも揃って比較的良好な入りで、全部揃うのはコロナ以降中々なかった事。来月から一般の大向こうも解禁との事で、いよいよ歌舞伎座に日常が戻って来た印象である。春を迎えてわくわく感がとまらない。まことに喜ばしい。

 

幕開きは『仮名手本忠臣蔵』から「十段目」。散々「忠臣蔵」は観ているが、「十段目」の単独上演は珍しい。筆者は単独で観た事がない。前回観たのは七年程前に国立劇場の通しで観た。その時は歌六の義平、高砂屋の由良之助だった。今回の配役は芝翫の義平、幸四郎の由良之助、孝太郎のおその、橘太郎の了竹、男寅の伊吾、松江の文吾、坂東亀蔵の喜多八、福之助の弥五郎、歌之助の重太郎。確かに上演の少ない場だけあって、印象としてはさのみ面白い場とも思っていなかったのだが、今回は実に面白く観れた。

 

何より芝翫の義平が見事。確か歌六で観た時は格子柄の着物だったと記憶しているが、今回は荒磯の衣装。これが実に立派ないで立ちで、貫禄もあり、商人と云うより幡随院長兵衛の様に見える。リアルな芝居としては疑問符がつくかもしれないが、これが大歌舞伎の魅力の一つ。時代狂言の中の世話場だが、この義平と云う役は芝翫のニンに合っている。義父了竹に離縁を迫られるところもきっぱりとした男らしさがあり、惚れ惚れする様な男っぷり。離縁されたのを聞いて女房おそのが駆け付けるが、それを戸口から突き出し乍ら、義平の女房に対する思いが垣間見えるさり気ない思い入れも上手い。

 

捕り手に囲まれて、息子に刃を突き付けられ乍らの「天川屋義平は、男でござる」の名科白もたっぷり聴かせてくれて、満場から大拍手。取り囲んだ捕り手は義平の本心を試す為の由良之助の計略と分る展開は、やはり後味が良くはない。しかし今回は幸四郎の由良之助が実に思慮深い人物像を出せていて、貫目と云う部分では先輩芝翫を相手に苦しい部分もあるのだが、確かな位取りと寡黙な佇まいで対抗して、芝居の後味の悪さを救っている。討ち入りの合言葉を「天」と「川」と定め、「貴殿も共に加わる一味」の科白にはぐっと来る真実味があった。孝太郎のおそのも世話女房の味で、初役とは思えない見事なもの。総じて素晴らしい「十段目」となっており、これなら今後は単独での上演もあり得るのではないかと思う。

 

打ち出しは『身替座禅』。最近毎年の様に違う役者で観れる狂言。コロナ以降に限っても、音羽屋・高麗屋松嶋屋と云う大幹部で観た狂言。今回も最初は音羽屋にアテンドされたが、体調不良で初役の松緑に代わったと云う経緯と聞いた。その他の配役は鴈治郎玉の井権十郎の太郎冠者、新吾の千枝、玉太郎の小枝。何せ近年大幹部で観てきた狂言、初役の松緑にはとてつもなく高いハードルであったろう。

 

今回の松緑鴈治郎のコンビの特色は、何より品位を一番に考えていると云う事だ。大げさな当て込み芝居は一切ない。その分地味な印象となり、見物衆にも大うけと云う感じにはならない。これを物足りないと見る向きもあるかもしれない。しかし主演の二人はこの狂言は松羽目物と云う意識が強いのだと思う。だから実にきっちり、この狂言にともすれば垣間見える(言葉は悪いが)漫画的な部分は一切ない。松緑が筋書きで「笑わせようと思ったらいくらでもオーバーにできます。そうならないよう、あくまでも品良く」と発言している通りの芝居。

 

鴈治郎歌舞伎座で演じるのは初めての様だが、実にチャーミングな玉の井で、筆者が今まで観たこの役では、最も亭主への愛情が感じられる奥方だった。小柄な鴈治郎なので、例えば芝翫が演じた時の様に身体で圧迫すると云う風には物理的にならない。しかしそれがかえってこの人物を可愛らしく見せている。芝翫玉の井は亭主を尻に敷く感じがあるが、鴈治郎にはそれがない。これは良い悪いではなく、役者の個性を元にした役作りの違いであるのだ。違う役者で同じ役を観る醍醐味はここいらにある。そして今回も充分に楽しませて貰った。

 

各部入りも良く、芝居も充実していた三月大歌舞伎。来月からは二部制に戻り、大向こうも再開される。明治座の公演もあり、今から楽しみでならない。