fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

三月大歌舞伎 第三部 大和屋の『髑髏尼』、大和屋・愛之助・鴈治郎の「吉田屋」

歌舞伎座第三部を観劇。大入り満員迄は行っていなかったが、かなりの入り。大和屋人気もあるだろうし、三部は時間的に昼間よりも来易いと云う面もあるだろう。しかし本当にお客が戻って来た様に感じる。そして出し物も大和屋と愛之助が組んだ「吉田屋」とくれば、盛り上がる事は必至。そして期待にたがわず素晴らしい舞台となった。

 

幕開きは『髑髏尼』。筆者は初めて観る狂言。それもそのはず、六十一年ぶり四度目の上演と云うから、殆どの見物衆にとって初めて観る芝居だったろう。しかし大和屋はその六十一年前の歌右衛門・先代勘三郎が組んだ芝居をはっきり覚えていると云うから恐ろしい。作は何と吉井勇。筆者は寡聞にして吉井勇がこう云う芝居も書いている事を知らなかった。筆者にとって吉井勇歌人であり、落語通の粋人と云うイメージだった。亡き黒門町八代目文楽をこよなく愛し、「人はみなわれと同じく祈るらん わが文楽の命ながきを」と詠んだのは、昔からの落語ファンならご存じだろう。

 

配役は大和屋の新中納言局後に髑髏尼、福之助の七兵衛、雪之丞の善信尼、亀鶴の正重、新吾の長門男女蔵の烏男、鴈治郎の印西、愛之助の重衡の亡霊。史上有名な平重衡東大寺焼き討ちに材を取り、その罪障で源氏に討たれた重衡の未亡人新中納言局が息子迄源氏に殺され、尼になり夫の菩提を弔いつつ、源氏を調伏する日々を送っている。ある夜尼の祈りが通じたものか、重衡の亡霊が現れる。そして源氏滅亡迄我が怨念は晴れないと云う。尼は死んだ息子の髑髏を差し出すが、重衡の亡霊は掻き消えてしまう。そこに鐘楼守の七兵衛が現れ、尼を恋い慕う想いを打ち明け一緒に逃げて欲しいと迫る。しかし尼に拒絶されると尼を殺してしまい、血に染まった両手を見て愕然とすると云うのが大筋。まぁ斯くの通り救いも何もない芝居である。

 

筆者の感覚としては、この狂言は歌舞伎ではない。音楽も生ではなかったし、殆ど後半の主役と云っても良い福之助の七兵衛の芝居が現代劇調で、所謂歌舞伎的な芝居になっていない。これはダメだと云っているのではない。これは演出をしている大和屋の示唆であったと思う。戦争の悲惨さ、所詮悟りきれない生身の人間の哀しさを直接的なメッセージとして見物衆に伝えるには、この芝居の福之助は無理に歌舞伎に寄せる必要はないと指示したのだと思う。現代青年の福之助には、自分の欲望を満たす為に髑髏尼に近づき、受け入れられないと知るや衝動的に殺人に走るこの役は、歌舞伎調にするより現代調にした方が、よりリアルにこの芝居の主題がはっきり浮彫になると思ったのだと思う。その意味で福之助の七兵衛は大変な熱演であった。

 

その分大和屋や鴈治郎愛之助、亀鶴の芝居は大歌舞伎の手応えを感じさせ、歌舞伎好きにも受け入れられる様に構築されている。戦争で夫と息子を亡くし、菩提を弔う為に尼となり乍ら、かけがえのない家族を殺した源氏の調伏を念じ続ける髑髏尼は、所詮現世を生きる煩悩世界の人間であり、最後は煩悩の塊である七兵衛に殺害される。重衡も死んだ後も亡霊となり乍ら源氏への恨みを持ち続けており、武士の妄執の深さと死してなお悟りきれない人間の哀れさを痛烈に感じさせる。筆者好みの狂言ではないが、大和屋らしい深い主題を内包した芝居ではあったと思う。

 

打ち出しは『廓文章』所謂「吉田屋」。前幕の『髑髏尼』が暗く陰鬱な芝居であったので、お客を気分よく帰らせようと云う大和屋の配慮(?)であろう。打って変わって何も考える必要のないひたすら明るい上方の和事狂言である。そしてやはり筆者的には、圧倒的にこちらの方が好みである。大和屋の夕霧、伊左衛門は長年相方を勤めた仁左衛門の甥愛之助、歌之助の豊作、松之助の阿波の大尽、吉弥が休演で千壽のおきさ、鴈治郎の喜左衛門と云う配役。

 

大和屋の夕霧はもう三百回以上演じていると云う、十八番中の十八番だ。多分舞踊を除けば、大和屋の中で最も上演回数の多い役であろう。当然の事乍ら素晴らしいの一語に尽きる。出の目の覚める様な美しさは若いころと比べても些かの衰えも感じさせず、松の位太夫職としての貫禄と位取りの確かさは当代無類。これ程の夕霧に、筆者ごときのつたない筆で書くことは何もない。ただ先ほどひたすら明るい芝居と書いたが、大和屋の夕霧はこの長調的な調べの狂言の中で、独り短調的な芝居に終始している。ここが七之助や壱太郎と大きく違う。科白にもある通り夕霧は病んでいる。この狂言ではそこまで演じられないが、やがて夕霧はこの病が元で死んでしまう事となる。大和屋の芝居はそれが肚にある。だから想い人の伊左衛門と久しぶりに逢えても、どこか憂いを含んだままなのだ。加えて去年團十郎相手に努めた揚巻同様、若い愛之助伊左衛門に対する母性を感じさせるところが、仁左衛門を相手にしていた時とは違っていたところだと思う。

 

伊左衛門の愛之助は、歌舞伎座で演じるのは初めてだと云う。しかし松嶋屋型の実に見事な伊左衛門。夕霧の心情など斟酌せず(そこがボンボンらしいところなのだが)、ひたすら夕霧に甘え、万歳傾城と悪態をついて拗ねる。そして勘当が免れたと知って無邪気に喜ぶ、大阪のボンらしさ全開。そんな伊左衛門を愛之助は姿と形の美しさ、常磐津に乗った見事な所作で見せてくれる。当代もう一人の伊左衛門役者幸四郎の伊左衛門は、東京型で清元が入り、三味線を爪弾き乍ら夕霧との逢瀬を思い出す風情に哀感を漂わせるが、松嶋屋型の愛之助伊左衛門はひたすら陽気で且つ美しい。関西型・関東型二つの伊左衛門を、脂ののった花形役者である愛之助幸四郎で観れるのは、令和を生きている歌舞伎好きにはたまらない仕合せであると思う。

 

脇では本当は伊左衛門をやりたかったであろう鴈治郎の喜左衛門が、上方役者のDNAを感じさせるじゃらっとした風合いで、堪らない味わい。久しく観ていない成駒屋型の伊左衛門も観てみたいものだ。吉弥休演による千壽のおきさは健闘してはいたが、おかみではなく女中に見えてしまう。かつて東蔵が「浜松屋」の幸兵衛について、「居るだけで主人に見えなくてはいけない。番頭に見えてしまってはいけない」と云っていだか、ここいらが歌舞伎の難しいところだと改めて思わされた。

 

陰と陽の極め付きの様な狂言二題が並んだ歌舞伎座第三部。大和屋の素晴らしさは申す迄もないが、愛之助が先月のお坊吉三に続いて今月も見事で印象的だった。残る二部の感想は観劇後また改めて。