fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

壽 初春大歌舞伎 夜の部 福助、幸四郎・松緑親子の『鶴亀』、梅玉・扇雀・芝翫の「対面」、高麗屋三代の『息子』、壱太郎の「道成寺」

歌舞伎座夜の部を観劇。国立の芝居は観ても、やはり歌舞伎座初芝居を観ない内には年は明けない。祝樽が積まれ、いかにもお正月の雰囲気も良い。筆者が観劇した日は満席に近い入りであった。元旦から大変な事になってしまった令和六年。新国立劇場に募金箱があったので筆者もささやか乍らご協力させて頂いたが、これ以上犠牲が広がらず、被災地の一日でも早い復興を願うばかりである。

 

幕開きは『鶴亀』。謡曲を元にした歌舞伎舞踊で、天下泰平と五穀豊穣を祈念する踊り。『三番叟』などと並び、新年に相応しい狂言である。配役は福助の女帝、幸四郎の鶴、松緑の亀、染五郎・左近の従者。新年早々福助の元気な姿が見れたのは、喜ばしい限り。やはり右半身は利かない様だが、その存在感は流石の一言。それに幸四郎松緑親子が付き従う形である。

 

高麗屋紀尾井町音羽屋と云う、当代の歌舞伎舞踊を支えていると云っても過言ではない二家の踊り比べ。幸四郎松緑もきっちり踊る芸風なので、形の美しさと見事な所作が、観ていて実に心地よい。倅二人も余計な当て込みなどせず、神妙に親父に付いて行っている感じで、行儀の良い踊り。それがこの『鶴亀』と云う舞踊には似つかわしい。この二家にはこれからも組んで当代最高の踊りを見せて欲しいものだ。福助と五人で極まった舞台絵は、息を飲むばかりの美しさであった。

 

続いては『寿曽我対面』。筆者的には全ての狂言の中で、一番観劇した回数の多い演目かもしれない。こちらも新年に相応しい狂言だ。梅玉の祐経、扇雀の十郎、芝翫の五郎、高麗蔵の少将、松江の小藤太、虎之介の三郎、錦吾の景時、桂三の景高、彌十郎の朝比奈、東蔵の新左衛門、魁春の虎と云う配役。それぞれ何度も演じていると思いきや、高麗蔵の少将と彌十郎の朝比奈は初役らしい。

 

梅玉の祐経は本来的にはニンではない。この狂言の中で梅玉がニンなのは十郎だろう。事実何度も演じており、今勤めても見事な十郎であろうとは思う。しかし年齢的にも、貫禄としても、今は祐経が順当だろう。この座組の中では頭一つ抜けた貫禄を見せてくれていた。芝翫の五郎、扇雀の十郎は正にニン。ただこの二人で組んだ「対面」は初めての様だ。扇雀の、柔らかさがあり乍ら兄貴らしい貫禄も滲ませた十郎、芝翫の力感たっぷりで太々しい描線に加え、前髪らしい稚気もきっちり出せている五郎、何れも見事。魁春の虎はもう何度も勤めて自家薬籠中の物。東蔵の新左衛門が高股立だったのが若干珍しい。役者が揃ったいい「対面」であった。

 

続いて『息子』。華やかな「対面」から一転、実に渋い科白劇だ。小山内薫による大正時代の作品の様で、筆者は初めて観る狂言。登場人物も三人のみで、白鸚の老爺、幸四郎の金次郎、染五郎の捕吏と云う配役。高麗屋三代揃い踏みだ。当然全員初役かと思ったが、幸四郎染五郎時代に歌六を相手に一度勤めている様だ。僅か三十分程の小品だが、これが実に味わい深い芝居であった。

 

番小屋にお尋ね者の金次郎が逃げ込んで来る。火と煙草を勧める老爺と会話して行く内に、お互いが生き別れになっていた親子であると気づく。ただ互いにそれをはっきりと云いだそうとはしない。この云うに謂われぬ親子の二人芝居が、滋味溢れ実に見事。役者自身が実の親子と云う事もあり、科白一つ一つが胸にじんわり染みて来るのだ。染五郎の一癖ある捕吏も良い。最後迄親子の名乗りをせず、立ち去る幸四郎金次郎の背中に「早く行け。達者でいろよ」と声をかける白鸚の老爺。少し震える声が父親の情愛を示している。白鸚の七十年にわたり練り上げた水際立った技巧が、いぶし銀の様な底光りを放つ。傑作としか云い様のない素晴らしい芝居であった。

 

打ち出しは『京鹿子娘道成寺』。云う迄もなく、女形舞踊の最高峰の大曲。それに成駒家の御曹司壱太郎が初役で挑んだ。配役はその壱太郎の花子に、廣太郎・玉太郎他の所化。筋書きで壱太郎が「祖父の様な道成寺を目指したい」と云う趣旨の発言をしていたが、本当に山城屋を彷彿とさせる様なこってりとした実に結構な花子。殊に筆者は壱太郎が投げた手拭い迄ゲット出来たので、ご機嫌の観劇となった。

 

時間の関係だろうか道行がカットされ、幕が落とされると花子が舞台にいる形。ここは少し残念で、やはり道行は見せて欲しかった。しかし踊り自体は初役とは思えない見事さ。まだ後見とのイキが合わず、手順がすっきりしない部分はあるものの、それは日を追えば改善して行くだろう。この花子は、立役が演じると技術で踊り、女形は気持ちで踊ると云われるが、正に気持ちが全面に出て来る花子。

 

勿論若い乍ら舞踊吾妻流家元の壱太郎。技術的にもしっかりしているが、〽恋の手習いのクドキで見せるしっとりとした女心の表出などは、如何にも女形の花子で、とても初役のそれではない。毬唄に合わせて手毬をつく所作の可愛らしい娘ぶりから〽恋の手習いを経て山尽くしへと進み、鈴太鼓を使った振りから徐々に妖しさを漂わせて行くあたりも、実に見応えたっぷり。最後、引き抜きから鐘の上に極まって幕となる迄、舞台に引き込まれっぱなしの五十分間であった。まだ七之助ですら歌舞伎座では踊った事のない「道成寺」に壱太郎(と右近)が抜擢された事実を見ても、松竹サイドのこの二人にかける期待の大きさが判る。今後も競い合って、一層練り上げて行って欲しいと思う次第。

 

丸本狂言がないのが些か寂しいが、それは新国立劇場で観れたので良しとしよう。今月は残る昼の部と浅草歌舞伎も観劇予定。今年も芝居漬けの新年である。