fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

壽 初春大歌舞伎 第三部 幸四郎・七之助の「十六夜清心」

コロナが中々収束しない中、今年も無事歌舞伎座の幕が開いた。まずはめでたい限りである。團十郎襲名があり客足が戻ってきて欲しいところだろうが、筆者が観た日の三部は六分の入りといったところだったろうか。花形の中でも立役と女形のトップ役者である幸四郎七之助の共演ともなれば、もっと入って欲しいと思っていたが、残念な事だった。しかし芝居は素晴らしく、まだ今年始まったばかりだが、果たしてこの後これを超える狂言が観れるものだろうかと思わせる見事な出来であった。

 

三部はこの「十六夜清心」通しの一狂言のみ。配役は幸四郎の清心後に清吉、七之助十六夜後におさよ、壱太郎の求女、亀鶴の杢助実は塔十郎、錦吾の佐五兵衛後に西心、男女蔵の三次、高麗蔵のお藤、高砂屋の白蓮実は正兵衛。後にとか実はとかが多いのがこの狂言のキモになっていて、芝居自体も実に面白い狂言幸四郎七之助・壱太郎・高麗蔵・高砂屋は初役だと云う。序幕の稲瀬川の場はよくかかるが、二幕目以降が歌舞伎座でかかるのは二十年ぶりの様だ。筆者もこの場は初めて観たが、楽しく観劇させて貰った。流石黙阿弥作だけの事はある。

 

筆者は以前より、幸四郎七之助の組み合わせは令和の孝玉だと考えている。他を圧する美貌、舞踊で鍛え磨かれた美しい所作、気品溢れる佇まい、この二人の相性は抜群だと思う。二人が組んだ「吉田屋」の素晴らしさは、今でも筆者の網膜に強烈な印象で焼き付けられている。南北の『盟三五大切』も絶品だった。しかし七之助は兄勘九郎と組む事が多く、幸四郎との組み合わせは多くない。勘九郎とはほっておいても中村屋の巡業や平成中村座があるのだから、歌舞伎座ではぜひこの二人も組ませて貰いたいと思う。

 

序幕「稲瀬川百本杭の場」の出からして、二人の美しさは歌舞伎座の大舞台を圧するばかりだ。七之助は廓を足抜けして清心を探す心細さがしっかり表現されており、幸四郎は寺を追放されて人目を避ける境遇である事をしっかりとその所作で感じさせる。そして巡り合った二人の清元に乗った心中に至る二人芝居の素晴らしさを、どう表現したらいいのだろう。踊りの様で踊りではなく、しかしその所作の素にはしっかり舞踊があり、科白のやり取りも情味に溢れ、間然とするところがない。この場の美しい芝居があるからこそ、大詰の二人の居直りが生きて来る。実に見事な「稲瀬川」となっていた。

 

続く「川中白魚船の場」。高砂屋初役の白蓮。何と云っても亡き播磨屋の当り役。あの素晴らしさが記憶に生々しいので、その意味では損な役回りの高砂屋。この役は二枚目役者のニンではないと思う。播磨屋の白蓮は大きさと悪の凄みを漂わせ、最後の「悪かねぇなぁ」の科白に色気を感じさせる見事なものだった。高砂屋はその芸風からあっさりした味わいなので、播磨屋の様な手強さは出てこない。しかし俳諧師らしいある種の軽さがあって、これはこれで悪くない白蓮だ。

 

「百本杭川下の場」。この場の大半は清心と求女の二人芝居だ。孝太郎に指導を仰いだと云う壱太郎初役の求女がこれまた初役と思えない見事さ。女形の壱太郎だが、嫋やかな二枚目ぶりで、幸四郎の清心との渡り科白もイキの合ったところを聴かせてくれている。揉み合う内に求女を殺めてしまった清心。腹を切って死のうとするも死にきれないところは、幸四郎生来の愛嬌が出て見物衆を笑わせた後「しかし、待てよ」でがらっと悪への変心を見せる変り目が鮮やかで、見応えたっぷり。「一人殺すも千人殺すも、取られる馘はたった一つ」の黙阿弥調もたっぷり聴かせて、申し分のない出来だ。そして白蓮に伴われた十六夜とすれ違うも、互いに気づかずすれ違って行く。ここのだんまりがまた実にコクがあり、これ程見事なだんまりの場は近年ちょっとお目にかかれていないくらいのものだ。

 

二幕目「白蓮妾宅の場」。十六夜は元の名のおさよに戻って白蓮の囲われ者になっている。下男杢助の亀鶴が、引っ込みでちらっと捕手の本性を漂わせるのも大袈裟にならず上手い。この場はおさよの心根に打たれて姉妹の盃を交わすに至る高麗蔵のお藤が、世話の味を出していて結構な出来。そして美しい女形を尼にしてしまう黙阿弥の底意地悪い(?)趣向が芝居として実に面白い。亡き清心の回向をしたいと云うおさよの望みを受け入れ、餞別迄持たせて父西心と旅立たせる白蓮の高砂屋は流石に大きい。ここの感動的な場が情味に溢れているので、次の大詰が芝居として実に面白い場となる。

 

大詰「白蓮本宅の場」。前幕で涙ながらに旅立ったおさよが、剃りこぼった頭が少し伸びて散切頭の様になって出て来る。緑の黒髪→尼→散切と替わるおさよの姿が見た目にも面白く、流石作劇の神様黙阿弥といったところ。清心も元の清吉となって、悪の本性(小者ではあるが)丸出しで、まるで蝙蝠安の様な出で立ち。こちらも真に気持ちの良い変りっぷりだ。そして僅かな金でおさよを叩き出したと因縁をつけて白蓮とお藤を強請る。ここら辺りの展開も実に黙阿弥らしく、役者も揃って世話の味を醸し出しており、芝居のテンポも実に心地よく、これぞ令和の黙阿弥劇とも云うべき見事な出来だ。

 

白蓮が渡した金の封印から、かつて清心として勤めた寺から盗まれた祠堂金だと判明。盗んだ三千両を返せと迫る清吉に自分の素性を明かす高砂屋白蓮の黙阿弥調もこの優らしくサラリとして粘らず、心地よい名調子。この場の幸四郎清吉も素晴らしい黙阿弥調を聴かせてくれており、ここまで見事な黙阿弥調が頻出する芝居も近年記憶にない。いい役者の手にかかると、令和の御代でも黙阿弥劇が再現可能だと証明されたのは大収穫。結局白蓮と清吉は兄弟であった事が判明し、下男と思っていた杢助が盗賊詮議の捕り方大寺正兵衛であり、捕手が踏み込んで来たのをあしらいつつ、三人が舞台上に極まって幕となった。

 

些かご都合主義的ではあるがドラマチックな展開に加え、各役揃って素晴らしい芝居を見せてくれた実に見事な「十六夜清心」。まだ席にゆとりはあるだろうから、未見の方にはぜひ、とお薦めしておきたい。新年早々傑作とも云うべき舞台を観れて、大満足の歌舞伎座第三部であった。