fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

四月大歌舞伎 第三部 松嶋屋・大和屋の『ぢいさんばあさん』、大和屋と成駒屋兄弟の『お祭り』

歌舞伎座第三部を観劇。まん防法はとけたが、感染者数は増えもしないが減りもしないと云うところで、またいつ次の波が押し寄せて来るか判らない状況が実に気掛りだ。この後GWもあり、またぞろまん防法が適用されるか、予断を許さない現状である。そんな中だが歌舞伎座に玉孝が揃うとあって、いい入りの三部。そして狂言の内容も期待に違わぬ素晴らしいものだった。

 

幕開きは『ぢいさんばあさん』。筆者的には明治の鴎外、大正の谷崎、昭和の三島が近代小説の三巨人だと考えている。三人とも作品が歌舞伎化されている(三島は歌舞伎化ではなく、歌舞伎作品を書いているのだが)のも共通項。その森鷗外の短編を「昭和の黙阿弥」宇野信夫が脚色した作品。去年菊之助勘九郎のコンビで観たばかりなのでまたかの感はあったのだが、これがまた見事な出来。松嶋屋の伊織、大和屋のるん、隼人の久右衛門、歌六の甚右衛門、橋之助の久弥、千之助のきく、伊織の友人、主悦・民之進・恵助・小兵衛に松之助、片岡亀蔵権十郎、秀調と手練れが揃った配役。まず当代この狂言でこれ以上の配役は望めないだろう。

 

しかし筆者は今回の狂言全体を正しく書く事が出来ない。と云うのも大詰の「伊織屋敷の場」が始まってからは泣き通しだったからだ(苦笑)。何度も観ている芝居だから筋が判っていて、それが頭にあるので幕が上がって橋之助の久弥と千之助のきくの揃った姿を見ただけでもうダメだった。またこの橋之助がいい若侍で、この時期の役者にしか出せない若々しさと清々しさで、いい役者になってきたと感じさせられた。去年辺りから大和屋に徹底的に鍛えられたものが出て来ているのだろう。いい役者ぶりだった。

 

松嶋屋と大和屋は共に古希を過ぎているのだが、序幕の若夫婦姿に何の違和感もない。ベテランの役者が若い役を勤めるのは歌舞伎ではままある事なのだが、それにしてもこの二人は異常だ。若い頃から踊りで鍛え上げられた身体のシルエットに、些かの弛緩もない。この線の若さがあるから、若夫婦の役にも違和感がないのだ。そして三十七年が過ぎて後の老夫婦は年齢通りの役なので、役柄としてはこちらが本役。「三十七年、長かったなぁ」の述懐にこもる厚みが、失礼乍ら去年観た勘九郎とは違う。

 

筋書で大和屋が「ことさら演じようと思わなくても、お互いすっと入れる役」と語っている様に実に自然でいて、彫の深い芝居になっている。離れている間にもお互いを想い続けた気持ちが舞台一杯に広がり、涙なしでは観られない狂言となっていた。脇では歌六の甚右衛門が、手強さがあり乍ら悪人ではなくただの嫌味なしつこい人間像をしっかり出していて、流石の出来。この甚右衛門がいいから、この狂言の持つ悲劇的な部分がより際立って来る。それが大詰の「甚右衛門の墓にも参ろう」と云う松嶋屋の科白に繋がっているのだ。隼人の久右衛門も含め、全員本役の見事な芝居だった。

 

打ち出しは『お祭り』。大和屋の芸者、福之助・歌之助の若い者と云う配役。去年七月に大阪で松嶋屋が演じた時と同様、大向うがない中での「待っていたとは有難い」はやはり肩透かし。もういい加減に大向うは解禁して貰いたいものだ。マスクをしているのならそれ程問題はないと思うのだが・・・。べらべらしゃべる訳ではないのだから。しかしさっき迄老婦人を演じていた同じ役者とは思えない美しい芸者ぶり。冒頭部分の仇っぽさ、惚気る時の艶っぽさ、見事なものだ。成駒屋兄弟は、大和屋について行くのが精いっぱいと云った感じだったが、前幕で流した涙が爽やかに乾く実にいい打ち出し狂言だった。

 

松嶋屋と大和屋の至芸を堪能出来た充実の第三部。残る部は観劇の後改めてまた綴りたい。一部・二部とも花形役者の芝居が実に楽しみだ。