fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

二月大歌舞伎 第二部 松嶋屋・大和屋の『於染久松色読販』、『神田祭』

残る歌舞伎座二部を観劇。久々の玉孝共演とあって、入場制限下ではあるが、大入り満員の盛況。やはり見物が多いと役者も燃えるのではないか。どちらの狂言も素晴らしい出来だった。その感想を綴る。

 

幕開きは『於染久松色読販』。大和屋のお六、松嶋屋の喜平、権十郎の清兵衛、福之助の亀吉、彦三郎の太郎七、吉之丞の久作、音羽屋の愛孫寺嶋眞秀君が長太で出た。二人で何度も演じている印象があった狂言だが、松嶋屋仁左衛門を襲名した以降では今回で二度目だと云う。しかし実に結構な出来であった。

 

所謂「お染久松」物の大南北バージョン。筋としては大した事はない。喧嘩をタネに怪我が元でお六の弟が死んだと偽って、油屋から百両を強請り取ろうとする喜平夫婦。だが死んだはずの遺体が息を吹き返した上に、死んだと偽っていた久作が油屋にやって来てしまい悪事露見。駕籠を担いで退散すると云うもの。筋より役者で魅せる歌舞伎らしい狂言だ。

 

筋書きで大和屋がお六について、「悪いことはするけれど、それは私利私欲ではないと云う事が根幹になければならない」と云っていた。前進座河原崎國太郎に教わったと云う。旧主の為に百両が必要になり、「どうぞしてこの百両の金、手に入れる方はないものかねぇ」の科白にその辺りの心情が滲む。油屋での強請りも最初は低姿勢で入って行くが、一転弟を殺されたと言い寄る「ぶち打擲をしなすったんだねぇ」の凄みの効いた科白廻しは、自家薬籠中の役だけあって、お見事の一言。喜平に甘える仕草も艶っぽく、メリハリの効いた素晴らしいお六。

 

松嶋屋の喜平は、花道の出から如何にも南北物の悪党らしい風情を出している。この出の風情はやはり長年培ったものがないと出せない味。こちらは女房と違い芯から金欲しさなのだが、凄んでいても所詮は小悪党。何とも云えない愛嬌があり、それが南北物にある陰惨な印象の狂言に出て来る人物とは一味違うところ。『絵本合法衢』の太平次なども得意にする松嶋屋だが、人物像をしっかり演じ分けている。強請りの場での煙管を持って斜に構えた形の良さ、花道での剃刀を咥えて決まるところを始めとした数々の見得の見事さ、どこを取っても当代一の喜平。如何にも南北物を観たと云う手応えのある素晴らしい狂言だった。

 

打ち出しにご馳走とも云うべき『神田祭』。松嶋屋の鳶頭に、大和屋の芸者。二十分ばかりの短い清元舞踊だが、二人の熱々ぶりに満場当てられっぱなしと云った感。まぁとにかくその艶っぽい事艶っぽい事。延寿太夫の清元も云わずと知れた天下一品。大入りの見物衆も酔えるが如く醒むるが如しの体で、二人共古希を過ぎているとはとても思えない若々しさ。とくに筆者が観た日は出来が良かったのか、大和屋がうっすら微笑み乍ら嬉しそうに踊っていたのが印象的だった。こう云った狂言を観ると、大向うが禁じられているのが残念でならない。筆者も心の中で「ご両人!」と叫んでいた。芝居がハネた後、「ご両人と云いたかったわね」と話している女性のお客がいた。本当にいつになったら大向うが解禁されるのやら・・・やはり歌舞伎には大向うが欠かせないと、改めて思わされた。

 

かつてあるフランスの文学者が、「老いと云うのは悪癖である。意欲を持っている人間は、七十でも若い」と云っていたが、正にこの二人がそうだと思う。いつまでも二人の素晴らしい芝居を見せて欲しいものだ。久々の玉孝の共演、大満足の歌舞伎座第二部だった。