fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

壽 初春大歌舞伎 第一部 中村屋兄弟・獅童の『一條大蔵譚』、『祝春元禄花見踊』

今年も初春大歌舞伎を観劇。今月から入場規制を前月迄の50%から68%に緩和。18%の違いだが、印象は大分違う。入りも良く、初春らしい賑わいをみせていた。しかもこの部は獅童の息子陽喜君の初お目見え。確かにこれでお客が入らなければ、問題だろう。コロナは明確に第六波の兆候を見せているが、何とか乗り切って行きたいものだ。

 

新春一発目の芝居は『一條大蔵譚』。いきなり筆者大好きな義太夫狂言。ご機嫌な幕開けだ。勘九郎の大蔵卿、獅童の鬼次郎、七之助のお京、歌女之丞の鳴瀬、扇雀常盤御前と云う配役。勘九郎が浅草で初演した際にも獅童が鬼次郎だった。それから二十年、勘九郎獅童共、芸の見事な進境ぶりを見せてくれた。

 

筆者にとっての大蔵卿は、何と云っても高麗屋、次いで松嶋屋である。この二人が素晴らしいのは、芝居の奥にこうとしか生きようがなかった大蔵卿の哀しみ、そして人間が見えて来るのだ。この二人は作り阿呆と、本性を顕した時の大蔵卿に大きな凹凸はつけない。ドリフの亡き志村けんが、バカ殿の造形の際に参考にした様な大蔵卿ではないのだ。これはあくまで筆者の推測だが、志村けんが参考にした大蔵卿は、十七世の勘三郎なのではないだろうか。バカ殿が始まった昭和五十年代に、主に大蔵卿を演じていた役者は先代中村屋だからだ。

 

そして中村屋の大蔵卿は、作り阿呆と本性を顕した大蔵卿に大きく凹凸をつける行き方である。これは天性の愛嬌と、抜群の技巧を誇った十七世のニンにぴったりであったし、十八世もまた同様だった。その大蔵卿を、勘九郎は忠実に受け継いでいる。まだお祖父さんやお父さんに比べると、若干作為的な部分はある。しかしこの家のDNAに組み込まれている愛嬌と明るさは、高麗屋松嶋屋とは全く別種の大蔵卿を造形しており、この狂言のまた違った面を見せてくれている。正確には、この行き方で演じる人の方が多いと思う。

 

この行き方だと「檜垣」が派手で見物にも受けが良く、盛り上がる。お京を見る目もまるで珍獣を見るかの様で、この場での大蔵卿は本性を顕さないので、愛嬌溢れる芝居を存分に楽しめる。その分「奥殿」には高麗屋松嶋屋の様な人生は感じられず、芝居としては若干浅くなる。本性を顕した後に阿保に戻ったりして人物造形が行き来するので、人間像に如何にも芝居らしい矛盾点が出て来るのは避けられない。しかし派手な芸風の中村屋には似つかわしい行き方であり、お祖父さんやお父さんの様に阿保と本性の替り目をもう少し自然に出来れば、今後勘九郎の当たり役になると思う。

 

獅童の鬼次郎は、その古風な役者顔が義太夫狂言にぴたりと嵌る。常盤御前への打擲の手強さ、そしてその本心を知った時の恐懼の気持ち、いずれもしっかり表現出来ており、二十年ぶりとは思えない見事なもの。七之助のお京も、大蔵卿に所望されての舞いが実に見事であり、獅童とのイキもピッタリで、いいお京。扇雀常盤御前も気品ある位取りの確かさを見せてこれまた結構な出来。総じて爽やかで実に後味の良い「大蔵卿」だった。

 

打ち出しは『祝春元禄花見踊』。獅童の久吉、勘九郎の山三、七之助阿国に、成駒屋三兄弟が若衆で加わり、獅童の息子陽喜君が奴喜蔵を勤めると云う配役。陽喜君の初お目見えを親類の中村屋成駒屋が盛り上げる形。舞台中央から獅童親子と中村屋兄弟がせり上がって来ると、満員の客席は大盛り上がり。一月の歌舞伎座でお目見えが出来ると云うだけでも、松竹の期待の高さが分ろうと云うもの。父そっくりの容貌で、役者向きだと思う。

 

獅童を舞台に残したままで、忍び侍と花道に行き、見得と六法を披露。側に父がいないにも関わらずしっかり見得を決めるあたり、やはり血だなと思わされる。どんな名優も子役には敵わないと云うが、この日一番の声援を受けて、立派な初お目見えだったと思う。今後は獅童も息子さんに負けない様に、歌舞伎座で大きな狂言を勤めて行って貰いたい。

 

丸本と舞踊狂言でのお披露目と云う、新春芝居に相応しい狂言立てを堪能した歌舞伎座第一部。今月は二部・三部と国立も観劇予定。その感想は観劇後また改めて。