fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

壽 初春大歌舞伎 夜の部 白鸚の「五斗三番叟」、猿之助・團子の『連獅子』、中村屋兄弟の『鰯賣戀曳網』

続いて観劇した歌舞伎座夜の部の感想を綴りたい。

 

幕開きは『義経腰越状』。白鸚の五斗兵衛、芝翫義経猿之助の六郎、男女蔵の次郎、錦吾の太郎、歌六の泉三郎と云う配役。筆者は初めて観る狂言義経の話しにしてはあるが、実際は豊臣秀頼を諷しているらしい。五斗兵衛が後藤又兵衛、泉三郎が真田幸村と云う事の様だ。

 

話しとしてはとりたてての事はない。遊興に耽る義経を諫める為、泉三郎が優秀な軍師だと云って五斗兵衛を連れて来る。頼朝に通じている太郎・次郎は義経をこのまま堕落させたいので、五斗兵衛を会わせたくない。そこで兵衛が酒好きと聞き、酔っぱらせようとして酒を飲ませ、酔った兵衛が三番叟を踊ると云うもの。歌舞伎役者の踊りや酔態を見せる芝居だ。

 

筋書きで白鸚が「今年は初役を勉強しようと思います」と語っていた通り、これは初役。八十近くにもなって尚初役に挑むその心持が凄い。そしてこれがまた見事であった。最初は酒をすすめられても妻と約束したと云って断るのだが、太郎・次郎が目の前で上手そうに酒を呑む姿に堪えきれず、酒を注がれるままに呑む。そしてどんどん量が増え、酔っぱらっていくのだが、この酔っていく姿が実に見事なのだ。杯か進むにつれ、満員の客席に熟柿の香が漂い始める。こちらまで酔ってしまいそうな位だ。「魚屋宗五郎」でもそうだったが、この酔態が実に素晴らしい芸。

 

そして酔ったまま三番叟を踊る。この踊りがまた素晴らしい。高齢の白鸚だが、角々のきまりのきっちりした、楷書の舞踊。ところどころに酔いの姿を少し見せながら、舞踊としてしっかり見せる。この名人芸を観ながら思い出した事がある。昭和の大名人と称えられた落語家・六代目圓生師が「包丁」と云う噺を高座にかけた後、女性客が楽屋に来た時の話しだ。

 

「包丁」と云う噺は、酔って小唄を唄いながら、女を口説く場面がある。その女性客が、「実に見事な出来でしたが、あの小唄を唄う場面は酔っていませんでしたね」と云って帰ったと云う。傍らに弟子の先代圓楽がおり、圓生は「お前今の話しを聞いていたか」と聞いた。圓楽が「はい」と答えると、「あの人のおっしゃる事は正しい。しかしこれは芸の上の嘘なのだ。へべれけの小唄などは客に聴かせられる物じゃない。しかしそれを感じさせてしまうのは、まだ私の芸が拙いからだ」と云ったと云う。今回の白鸚の三番叟は、酔いを見せながら踊りとしてはきっちり見せる。正に六代目圓生が目指した芸の様ではないか。正に名人芸の「五斗三番叟」だった。

 

続いて『連獅子』。猿之助の親獅子、團子の仔獅子だ。去年高麗屋親子で観たばかりだが、今回は澤瀉屋バージョン。二畳台を三枚使って石橋に見立てた舞台設定になっており、振りの手数も多い。我が子を千尋の谷に突き落とすくだりも、高麗屋は舞台下手の方に転がすのだが、澤瀉屋は上手に転がすなど、違いも多い。家によって同じ狂言でも作法があり、その相違を観るのも歌舞伎観劇の大きな楽しみだ。

 

猿之助が親獅子を歌舞伎座で踊るのは意外にも初めてだと云う。團子の仔獅子は勿論初役。この澤瀉屋の叔父甥の『連獅子』もまた見事なものだった。何より二人共勢いがあり、華やかだ。イキの合い方は高麗屋親子に一日の長があった様に思うが、とにかく振りの手数が多い澤瀉屋バージョンは豪快だ。客席も大いに沸いていて、歌舞伎座の大舞台狭しと動き回る狂い舞いは圧巻だった。多分中車が踊る事は難しいと思われるので、今後もこの二人で澤瀉屋の『連獅子』をどんどん磨き上げて行って欲しいものだ。

 

打ち出しは『鰯賣戀曳網』。勘九郎の猿源氏、七之助の蛍火、男女蔵の六郎左衛門、種之助の次郎太、禿を筆者が観た日は勘太郎東蔵のなあみだぶつ、傾城に笑也と笑三郎と云う配役。これも実に結構な狂言だった。

 

『鰯賣戀曳網』は個人的に大好きな狂言で、肩の凝らない筋立てながら構成がしっかりしており、きっちり竹本も入っている。基本的に深刻な天才三島由紀夫が、「百万円煎餅」や「橋づくし」などで稀に見せる軽い剽げた味が反映されているいい作品だ。笑わない人がたまに見せる笑顔の様な感じか。

 

勘三郎の数多い芝居の中でも、この猿源氏が筆者は一番好きだった。それを息子の勘九郎が演じる。実に感慨深い。歌舞伎と云う枠を軽々と飛び越えてしまう勘三郎に対して、勘九郎は実に実直に演じているのがいい。必要以上に笑わせようとせず、父の呪縛から解き放たれたかの様だ。女形である七之助に比べ、同じ立役である勘九郎は、何につけ父を意識してしまう事が多いと思う。観客もまた勘九郎の姿に、亡き勘三郎を重ねてしまうところがあるだろう。これは偉大な父を持った役者の宿命みたいなものだ。

 

今回の勘九郎は、大げさに演じて笑いを取る様な事をしない。作が面白いので場内は笑いに包まれはするが、勘三郎の時の様な爆笑にはならない。これは役者の腕が悪いからではなく、勘九郎がこの狂言と向き合い、笑わせる事が目的ではないと感じ取ったからだ。だから父と違った独自の猿源氏を創出する事に成功出来たのだ。父に比べ(勘九郎不本意だろうが、どうしても比較してしまう)、蛍火への慕情が実に真摯で、ほのぼのとした味わいとなって客席に伝わる。そう、猿源氏は笑いに逃げているのではなく、真剣に行動している事が、傍からは可笑しく思えてしまうだけで、蛍火への想いは初恋の様に素朴で純粋なものなのだ。それがひしひしと感じられる。実にいい猿源氏だった。

 

七之助の蛍火もいい。「五条東洞院の場」で襖を開けて出たところ、その美しさに客席からジワが来た。貝合わせの場では、その口跡・仕草に玉三郎の匂いが濃厚に漂い、七之助らしさが感じられなかったが、猿源氏が宇都宮弾正と偽って入って来た後の二度目の出以降は、実に可愛らしい七之助なりの蛍火になっており、上々の出来。あくまで自分は宇都宮弾正だと言い張る猿源氏に、「では鰯売りではなかったか」と云って泣き伏す姿などは、美しく且つ哀れさが滲み、実に素晴らしい蛍火だった。

 

脇では、東蔵のなあみだぶつがニンでもあり、抜群の出来。初役だと云うが、名人東蔵には関係なかった様だ。親父に突き飛ばされる勘太郎も禿を可愛らしく神妙に勤めていて、感心させられる。男女蔵の六郎左衛門も軽くサラリと演じていて、今月三役を勤めた中で一番の出来だったと思う。

 

時代物狂言こそなかったが、お正月らしい目出度い狂言立てで、昼に負けず劣らず楽しめた夜の部だった。

 

来月は松嶋屋の神品菅丞相が出る。加えて音羽屋の「文七元結」もある。今から実に楽しみだ。今年もいい芝居が沢山観れそうだと思わせてくれる、素晴らしい歌舞伎座の正月興行だった。