fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

壽 初春大歌舞伎 第三部 高麗屋三代の「車引」、芝翫・愛之助の『らくだ』

今月の大トリ、歌舞伎座第三部を観劇。その感想を綴る。

 

幕開きは『菅原伝授手習鑑』より「車引」。白鸚の松王丸、幸四郎の梅王丸、染五郎の桜丸と高麗屋三代が揃う、多分空前にして絶後になるであろう歴史的な「車引」。親子孫三代で三兄弟を演じる。歌舞伎以外では考えられない配役。こう云う芝居が見物出来るのも、歌舞伎観劇ならではの楽しみだ。錦吾の金棒引、廣太郎の杉王丸、彌十郎の時平と云う配役。

 

まず素晴らしいのは何と云っても白鸚の松王丸。上手奥からの第一声「待ぁて~」からして、凄い声。この一声だけで、舞台がピリっと締まる。去年の大蔵卿の出の声もそうだったが、齢八十に近いと云うのに、白鸚は衰え知らず。弟播磨屋の体調が良くないのに比して、元気いっぱいと云った感。そして姿も若々しく、前髪役が全く違和感がない。シルエットがとても老人(失礼)のそれではなく、子や孫と揃った所(役としては三兄弟)も年齢を忘れる素晴らしさだ。

 

「まだこの上に手向いすりゃあ、松王が一討ちだぞ」の科白廻しの古怪さも、当代では他に比するものがない。竹本と完全にシンクロする濃厚な義太夫味。角々のキッバリした見得の大きさ、立派さ、これぞ座頭役者の貫禄である。まず当代最高の松王丸であろう。芸歴七十年、やはり年輪に裏打ちされた芸は厚みが違う。改めて名人白鸚の至芸に驚嘆させられた。

 

幸四郎の梅王丸も見事なもの。当代指折りの踊りの名手だけあり、元禄見得の形の美しさは、比類がない。お父っつぁんが素晴らし過ぎるのでどうしても押され気味にはなるが、声も以前より出ており、呂の声も太々しい。甲の声がやはりまだ多少割れ気味になる点に改善の余地はあるが、所作には力感もあり、よく白鸚の松王に対抗していたと思う。

 

染五郎の梅王丸は、気品に溢れている。所作も美しく、錦絵から抜け出たかの様だ。当人曰く、まだ声変わりが完全に終わっておらず科白が苦しいとの事だったが、これは誰でも通る道。今後経験を積んで行って貰いたい。今はこの形の美しさがあれば充分であろう。脇では錦吾の金棒引が絶品。高麗屋の番頭格であり、齢八十に近い錦吾だが、まだまだ元気なところを見せてくれていたのは嬉しい限り。親・子・孫が揃う年代記ものの「車引」、たっぷり堪能させて貰った。

 

打ち出しは『らくだ』。芝翫の半次、愛之助の久六、松江のらくだ、左團次の佐兵衛、彌十郎のおいくと云う配役。落語の「らくだ」を元にした世話物。落語好きな筆者としては一粒で二度美味しい狂言だが、こちらは悪くはないが最良とは云い難い出来であった。

 

今回は珍しくと云うか筆者は観た事がない、東京型の『らくだ』に、上方弁の久六を持って来ていた。愛之助の拘りの様だが、これが演出上の効果を挙げるに至っていない。必然性が感じられないのだ。

 

芝翫愛之助もそれぞれは上手い。しかしそれが芝居として一つに溶け合っていない。だから本来笑いが取れるところで今一つ盛り上がらない。第二場「家主佐兵衛内の場」になって、左團次彌十郎の掛け合いは流石に盛り上がりを見せはするが、それとて芝居全体を救うには至らず、一つのエピソードに留まっている。要するに座組としてのアンサンブルに欠けているのだ。菊五郎劇団の芝居を観れば判る通り、世話物と云うのはアンサンブルが大事なのである。勿論普段からこなれた劇団と、今回の芝翫一座を同日に比較するのは酷な話しではあるが、これだけの役者が揃っているならば、もう少し練り上げた芝居が出来たはずだと思う。少し残念な『らくだ』だった。

 

ただ一つ、この芝居には画期的な事があった。芝居の内容ではないのだが、再開後の歌舞伎座で、初めて舞台転換が行われた事だ。今までは一幕物か、本来舞台転換の必要がある狂言でも、そこをカット乃至は無理やり転換しない様に前幕のセットをそのまま舞台上に残しておくなどの処置が取られていた。しかし今回はしっかり二度舞台転換を行った。一つ制限が取り払われて、コロナ下での上演が一歩前進出来たのだと思う。

 

色々注文はつけたものの、高麗屋三代の「車引」が観れただけで大満足の第三部。来月は歌舞伎座に玉孝が揃う。コロナの状況は依然予断を許さないが、無事芝居の幕が上がる事を祈りたい。