fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

三月大歌舞伎 第一部 幸四郎・芝翫・愛之助・雀右衛門の『花の御所始末』

世間はWBCで大盛り上がりの中、歌舞伎座一部を観劇。コロナもマスク規制が緩和され、ようやく日常が戻って来た感がある。そのせいだろうか、平日の昼間にも関わらず八分以上の入り。團十郎襲名公演は別格として、平日これだけの入りはコロナ以降中々なかった事。筆者は松竹の関係者ではないので入りを心配する必要はないのだが、やはり入りがいい方が舞台も盛り上がると云うもの。まずはめでたい限り。

 

第一部は通し狂言で『花の御所始末』の一狂言のみ。昭和の黙阿弥と云われる大劇作家宇野信夫が、当時の染五郎、現白鸚に当て書きしたもの。初演は三田佳子を始めとした女優陣と共演しているので、元々が歌舞伎ではない。それを再演時に歌舞伎化して、今回四十年ぶり三度目の上演となった。シェイクスピアの戯曲「リチャード三世」に着想を得た作品と云う事だが、プロットは確かに似てはいるが、父殺しの主題が付け加えられており、ほぼ完全に近い宇野信夫オリジナルな作品になっている。

 

実在した室町幕府六代将軍足利義教が主人公。自らが将軍職に就く為に父や兄を次々と殺害し、父の愛妾であった北野の方迄自らのものとし、見事大願成就させて将軍に就任する。そして将軍になった後に、策謀の協力者である畠山満家をも殺害し、完全に独裁権を確立する。しかしその後日夜自らが殺した人物達の亡霊に悩まされ、やがてかつて自分が迫害した安積行秀率いる一揆軍に御所を襲撃され、自刃する迄の物語である。配役は幸四郎の義教、芝翫の満家、千壽の北野の方、愛之助の行秀、坂東亀蔵の義嗣、亀鶴の有世、宗之助・廣太郎の珍才・重才、染五郎の左馬之助、高麗蔵の廉子、権十郎の義満、雀右衛門の入江。初演した白鸚の息子幸四郎が同役を演じ、再演時に現楽善が演じた義嗣、先代雀右衛門が演じた入江をそれぞれの息子である亀蔵と当代雀右衛門が演じると云う趣向が面白い。

 

史実の足利義教は歴代の足利将軍の中でも最も強権をふるい、鎌倉公方足利持氏を滅ぼし、叡山を屈服させ、有力大名の一色氏、土岐氏を殺害するなど恐怖政治を敷いた。しかし最後は身の危険を感じた赤松満祐によって、酒宴の最中に殺害されるに至る。この足利義教に目を付けたところが流石宇野信夫である。悪人と云ってもそんじょそこいらの悪人ではない。日本を支配する将軍が大悪党なのだ。とにかく史実の義教も反対派は悉く殺戮する。そしてその為に滅亡に至るのだが、今狂言における義教も全くその通りである。

 

当代、悪人をやらせたら白鸚の右に出る役者はいない。筆者は今回の狂言を観ていて、実際には観劇していない白鸚の義教がまざまざと脳裏に浮かんだ。高麗屋ならこう演じたろうと想像し乍ら幸四郎の義教を観ていた。その意味で点が辛くなってもおかしくはない幸四郎義教だが、しかしこれが実に見事な出来であった。父白鸚なら(多分)狂気に加えて将軍らしい大きさも表出したと思われるが、幸四郎義教は鋭利な刃物を思わせ、しかもその反面で脆さも持ち合わせる複雑な人間像をしっかりと出していた。

 

義教は兄義嗣より自分に愛情を見せていた父義満を殺害し、白装束を朱に染めながら死体処理の為に「珍才、重才」と配下の小者を呼び寄せる。その時の表情が冷徹な中にも暗い狂気を漂わせ、父殺しを楽しんでいるかの様な印象をさえ抱かせる。側近の満家と共謀した暗殺なのだが、自分が将軍に就任出来た秘密を知る人間として、やがて満家が疎ましい人間となっていく。そしてその満家をも殺害するのだが、この「御所内謁見の間」における幸四郎芝翫の二人芝居は圧巻であった。

 

満家は何故自分を遠ざけると義教を詰る。「駄馬に等しい管領を遠ざけるのは当然」と冷然と突き放されるとそれ迄の哀願調から一転、「上様は私を遠ざける事は出来ない。何故ならば私は上様の秘密を握っているからだ」と哄笑する。このがらっと口調が変わる芝翫の芝居が実に上手い。しかしこの時点で義教は満家を殺す気はまだなかった。それは「二度と余の前に顔を出すな」と一喝する科白でも判る。しかし万策尽きた満家が「あなたは親殺しの大罪を犯してはいない。先代はあなたの真の親ではない。あなたの真の親はこの満家だ」と叫ぶ。それを聞いた義教はそれ迄の氷の様な冷たさから一転、「云うな、云うな、云うな」と激怒し、満家を衝動的に殺してしまう。そして珍才・重才を呼び寄せて、力なく「生かしておけない人間だ」と自らに云い聞かせる様に云う。要するに義教は今で云うところのファーザーコンプレックス的な心を持つ一人の弱い人間に過ぎないと云う面が明らかとなる。絶対権力を欲し乍ら、巨大な父の幻影から必至に逃れようとし、それが父殺しと云う異常な形で顕れた。しかし殺した、超えたと思っていた人物が実の父ではなく、目の前の自分に縋り付く卑小な人物が父と知れた時、義教は満家を殺さざるを得なかった。そういう義教を幸四郎は時に冷徹に、時に激情的に演じて、圧巻の出来であった。

 

その後は義嗣・義満・満家の亡霊が次々現れ、義教を責めさいなむ。スッポンとセリを効果的に使って、この場も芝居として実に面白く見せてくれる。最後は第一幕で義教自ら鞭をあげて左目を潰した安積行秀が現れる。「将軍家に鞭打たれ、片目を失い、かえって俺の目が開いた。人間として両の眼が開いたのだ」から始まる愛之助行秀の長科白が、聞惚れるばかりの名調子。松嶋屋の薫陶を受けた愛之助、叔父さん譲りの実にいい声を持っていると改めて感心させられた。一揆に御所を囲まれ、「足利義教、魔道に堕ちても閻魔大王」と絶叫し、壮絶な自刃で幕となった。

 

脇では雀右衛門の入江が、父や兄に翻弄され、最後は兄の没落を見て自殺するに至る人物をこの優らしい哀感漂う所作と科白廻しで演じ、これまた見事。権十郎の義満は芝居は確かであったが些か軽量級で、義教が超えたいと思う人物としては物足りない。義満と云う人物は、史実ではあの信長でさえ一指も触れなかった天皇の御位さえ望んだ程の男。もう少し大きさと手強さが欲しかった。加えて少し残念だたのは、元が歌舞伎でないだけに、音楽が生演奏でなかった点。これは次回上演される際には一考願いたいものだ。

 

幸四郎を始めとした役者達の熱演で盛り上がりを見せた歌舞伎座第一部。久々に宇野信夫らしい芝居を堪能出来て、満足だった。いずれまた再演される事を期待したい。二部・三部の感想は観劇後にまた改めて。