fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

四月大歌舞伎 第一部B日程 幸四郎・松也の『勧進帳』

今月の残る一つ、一部Bプロの『勧進帳』。その感想を綴る。

 

Aプロでお父さん相手に富樫に回っていた幸四郎が弁慶を演じたBプロ。富樫は松也で、義経・四天王は同じ配役。松也の富樫は初役だと云う。筋書によると音羽屋に教わったらしい。今までこの狂言自体に出た経験は亀井六郎で一度あるきりだと云う。しかし気合十分の見事な富樫だった。

 

幸四郎は弁慶を演じる為に役者になった様なものだと常日頃発言している。しかし初役で演じたのは不惑を過ぎてから。父白鸚の初役が十六歳だと云うから、随分遅い。ニンでないと云う事もあったろうし、白鸚が千回以上勤めているので、中々回ってこなかったと云う事情もあったのだろう。しかしそれから襲名興行で立て続けに演じて、四度目の南座から滝流しを付ける様になった。近年では、筆者の知る限り白鸚以外では観た事がない滝流し付き弁慶。父の弁慶を継いでいきたいと云う、幸四郎の思い入れの表れだと思う。記者会見で白鸚が、「今の私がやったら死んでしまいます。」と発言していた。あながち冗談とも思えない。それくらいただでさえ苦しい弁慶に滝流しを付けると云うのは大変な事だ。しかし今回もまた素晴らしい出来であった。

 

今回の幸四郎は、弁慶の科白廻しをかなり研究してきた跡が見受けられる。襲名以降その芸容がどんどん大きくなり、向かう所敵なしの感がある近年の幸四郎だが、その最大の弱点はやはり声にある。ことに高音が厳しい。これは甲の声とも少し違う。甲の声自体は幸四郎も使えはするのだ。所謂ニュアンスとしては歌手で云うところの高音と云うのに近い。科白で張り上げる高音が割れてしまう。今までの弁慶も、その熱量の凄さと所作の美しさで見事なモノではあったのだが、勧進帳の読み上げなどではやはり高音が割れてしまい、若干の聞き苦しさを感じさせてはいた。しかし今回その辺りをかなり練って来たと思われる。

 

例えば勧進帳読み上げの冒頭「大恩教主の秋の月は、涅槃の雲に隠れ、生死長夜の長き夢、驚かすべき人もなし。」の人も~の音楽用語で云うところの所謂スラーの部分で高音を使わず、低音を使った太い調子に変えていた。ここをこの調子で処理した人を、筆者は他に知らない。しかし聴いていて違和感がないどころか、むしろ堂々たる調子に聴こえる。これなぞは大袈裟な表現をすると、幸四郎にとってはコペルニクス的な発見だったのではないだろうか。そう、ここで別に無理して高音を張る必要はないのだ。白鸚は超一流のミュージカル俳優でもあるので、歌舞伎界きっての声を持っている。その声で読み上げる勧進帳は無類のものだが、父の様な声を持っていない幸四郎がその調子をなぞる必要はない。

歌手の力量は、高音の出る出ないだけで評価されるべきものではないだろう。唐突な例えだが、岩崎宏美中島みゆきがどちらが優れた歌手であるかは、好みでは分かれても、高音の出る出ないで評価するべきではないのと同様、声の高低の出せる出せないで役者の価値が決まる訳ではない。今回の幸四郎は自分の声を把握した上で、見事な解決法を見出したと筆者は感じた。

 

この科白廻しを今回の様に処理出来れば、後は幸四郎の独壇場である。かどかどの見得の立派さ、そして父譲りの身体から立ち上る義経に対する溢れ出る様な思い、そして最早父には出来ないであろう若々しい動きと所作。それらが渾然一体となって、終盤に向けてもの凄い盛り上がりを見せる。滝流し付きの延年の舞から飛び六法に至る怒涛の如き劇的展開は、今日では(この今日と云うのは、播磨屋にも、そして漸う々々白鸚にも老いが感じられる今日と云った意味だが)、他に比するものが見当たらない程の素晴らしさだ。

 

対する初役の松也富樫も立派だった。独特の語尾が上がる癖はあるもののの、元々声のいい優。科白廻しも古格な調子を遵守しており、かなり聴かせてくれているし、関守としての位取りもまた見事なもの。そして幸四郎の弁慶と対峙したところは、背の釣り合いも良く、舞台面として実に美しく錦絵の様だ。殊に今回素晴らしかったのは「山伏問答」だ。

 

これは勿論松也だけではなく幸四郎との共同作業だが、テンポとしては最初かなりゆっくりと始まる。このテンポ感は、多分松嶋屋からの影響と思われる。しかし松嶋屋は独自の考えがあったのだろう、このゆっくりなテンポをほぼ問答の最後迄維持し続ける。ただこれはかなり特異な行き方で、松嶋屋以外にこの演じ方をする人を筆者は知らない。

 

今回の幸四郎と松也はそこから徐々にテンポを上げて行く。音楽用語で云うところのアッチェレランドして行くのだが、それと共に音声もクレッシェンドして行き、間を摘んだ科白廻しと相まって独特の緊張感を醸成する。そして最後に至ってクライマックスを形成するのだが、この時の劇的な盛り上がりは凄い。行き方としては他の役者と同様特異なものではないが、そこに内包されている熱量、ここがギリギリの切所を迎えていると云う二人の血の滾りの様な物が歌舞伎座の大舞台を覆いつくし、素晴らしい盛り上がりを見せてくれる。ここの花形二人の全力投球の芝居が、実に見ごたえがあった。

 

加えてAプロ評の時は触れなかったが、八百回以上演じていると云う友右衛門の亀井六郎がその見事な科白廻しと所作で、改めてこの優の確かな実力を見せつけてくれた。雀右衛門義経は、花道での科白廻しが若干女形の地金が滲んでしまってはいたが、その気品、位取り、「判官御手を」で見せる情味、まず申し分のない義経太刀持ちの幸一郎に至る迄、役者が揃って今日の、とも評すべき素晴らしい『勧進帳』であった。

 

今日に至って、三度目の緊急事態宣言が発出される様だ。劇場への休業要請も含まれると云う話しも聞く。何とか無事来月も芝居の幕が上がって欲しいと願うしかない。コロナ続きで暗い日常、せめて芝居でも観ないとやっていられないではないか。