歌舞伎座昼の部を観劇。素晴らしかった白鸚の「大蔵卿」の感想をまず綴る。
去年の襲名公演で「七段目」の由良之助と云う超名演を披露した白鸚が、またやってくれました。由良之助がセンターバックスクリーン直撃弾なら、今回はレフト場外弾です(笑)
去年二月の歌舞伎座で、幸四郎が襲名狂言で取り上げた大蔵卿。今回何と白鸚が47年ぶりに演じると云う。ほぼ初役に近い感じだろう。たたブログでも書いたトークショウで、白鸚自身、稽古していると昔教わった事を思い出してくると云う。
今回まず見事だったのが「檜垣」だ。所謂やつしの場面だが、作り阿呆の大蔵卿を演じる白鸚が、必要以上には顔で演技をしていないところがいい。ここは他の誰と比較しても、ずば抜けて素晴らしい。阿呆を顔で見せず、仕草や科白まわしで表現している。幸四郎はこの場でかなり苦労しているのが見て取れた。播磨屋もかなり作り込んだ阿呆ぶりを見せるが、今回の白鸚は行き方としてはやや松嶋屋のそれに近い。
お京が行列に割り込んで来たのを見た時も、他の役者がする様に逃げ腰にはならず、立ち止まって、しっかり跪くお京を見下ろす。要するに印象としては、数多ある大蔵卿の中でも阿呆具合が薄いと云える。この行き方は性根を顕した時との落差を強調しないので、印象としては地味に見える損な演じ方だと思う。それを充分承知の上、芸で観客を満足させる自信が白鸚にはあったのだろう。事実見事な「桧垣」になっている。花道で鬼次郎と目が合いとっさに扇で顔を隠す場面では、他の役者は大概この場で本性を垣間見せる表情をするのだが、白鸚はあえて表情を消して、自己を韜晦させている。筆者の席からはこの表情が観れたので、この場は特に印象深い。
続く「奥殿」で勘解由を切りつけて本性を顕したもどりの場面は、もはや独壇場。長袖の身ではあるのだが、白鸚は源氏の末裔である事をより意識した大蔵卿。「やぁれ方々驚くな」に始まる凛とした科白まわしは天下無敵。〽︎源氏の勇士はみな散り散り~の竹本とシンクロする濃厚な義太夫味、これぞ丸本狂言だ。
やつしともどりを行き来する「奥殿」だが、理屈としては一度本性を顕している以上、この場でやつしを強調するのは筋が通らないと、白鸚は思っているのだろう。この大蔵卿は二度と「檜垣」の大蔵卿迄は戻らない。他の役者の様に、やつしともどりの凹凸を大きくはつけず、ナチュラルなのだ。この行き方も印象としては地味で客受けしない演じ方だと思うが、常に「現代における歌舞伎」を意識している白鸚らしい大蔵卿で、劇としてはこれが正解だと思う。筆者は他に類のない今回の大蔵卿を断然支持したい。
ぶっかえりの見得もその大きさ、立派さは比類ない。最後の「ただ楽しみは狂言舞」で見せる深い哀愁は、これから元の阿呆に戻って自己韜晦の人生を生きる哀しみを、余す事なく表現している。これ程の大蔵卿、またと出で難しと、観ていて筆者はひたすら唸るしかなかった。正に当代の大蔵卿と云えるだろう。
脇では魁春の常盤御前が見事な位取りを見せ、梅玉の鬼次郎は正に本役。雀右衛門のお京も情味のあるところを見せ、役者の芸格が揃った素晴らしい『一條大蔵譚』になった。余談だが、揚幕脇で幸四郎夫人とご令嬢、そして染五郎が観劇していた。染五郎にはこのお祖父さんの凄い芸を、目に焼き付けておいて欲しいと思う。そしていつの日か、素晴らしい大蔵卿をものにして欲しい。その日迄筆者が生きていられるかは判らないが(苦笑)
白鸚は今年の巡業で「車引」の松王丸を演じると云う。今回の大蔵卿といい、去年の襲名披露で幸四郎が演じた役々だ。まるで父が倅に「本物はこうなのだ」と手本を示さんとしているかの様ではないか。襲名以降の幸四郎の進境は著しいが、芸の道はかくも深く、且つ厳しいものなのだと、改めて父の偉大さを感じている幸四郎ではないかと思う。白鸚としては30年ぶりで演じると云う三月の「吃又」が今から楽しみだ。
長くなったので、昼の部他の演目は、また別項にて綴りたい。