fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十一月 京都四條南座 吉例顔見世興行 夜の部 高麗屋の『勧進帳』

南座新開場高麗屋襲名披露を観劇。まず夜の部から。

 

幕開きは『寿曽我対面』。松嶋屋の工藤、愛之助の五郎、孝太郎の十郎、秀太郎舞鶴、吉弥の大磯の虎、壱太郎の化粧坂少将と役者が揃った実に結構な「対面」。松嶋屋は流石に貫禄たっぷり。やはり工藤は座頭の役なのだ。技術だけではしおおせない何かが工藤にはある。

 

愛之助と孝太郎は芸格が揃い、観ていて実に気持ちのいい曽我兄弟。そして特筆したいのは吉弥の大磯の虎。その美しさ、その品格、正に当代の虎。還暦過ぎていても、その美貌には些かの陰りもない。若い壱太郎を圧倒していた。大向うから盛んにかかる「美吉屋!」の掛け声にも後押しされて、素晴らしい大磯の虎だった。

 

『口上』は高麗屋三人を山城屋と松嶋屋が挟む格好で、僅か五人での披露。大一座の口上が続いていたので、こう云う行き方もいいものだ。松嶋屋が、大怪我を克服して今日に至った幸四郎を「奇跡」と表現していたのが印象的だった。

 

続いてお目当て『勧進帳』。七月に大阪で観た幸四郎の弁慶が素晴らしく、このブログで、ここまで出来るなら滝流しが観たいと書いたのだが、やってくれました滝流し付きの弁慶!幸四郎がこのブログを目にする事は100%ないだろうが、リクエストに応えてくれた気分で最高だった。

 

今回も「延年の舞」の素晴らしさは筆舌に尽くし難い。大阪の時よりも一段大きくなっており、滝流しも力強く実に見事。そして今回は富樫の白鸚が何とも凄い。実にエモーショナルな富樫。最初山伏は一人たりとも通すまじと云っていたものが、「問答」を聞くにつれ、これは義経一行ではないと思い始める。そこの具合がはっきりと見て取れる。この行き方は松羽目物の矩を超えると云う批判もあるだろうが、常日頃から「古典を現代に」と云っている白鸚ならではの富樫。筆者は全面的に支持したい。

 

そして呼び止めから打擲。ここでの白鸚がまた凄い。「判官殿にもなき人を、疑えばこそ」での表情がたまらなくいいのだ。ここで富樫ははっきりと義経一行だと確信する。しかし主人を打擲する弁慶の必死の思いに打たれ、通行を許す。する事は誰がやっても同じなのだが、ここでの白鸚の表情は、感動とも、哀感とも、諦念とも、何とも表現出来ないものなのだ。そして全てを自らが被る覚悟の思い入れ。本当に凄い富樫だった。

 

こんな富樫を前にしては、弁慶が冷静でいられる訳がない。二人のやり取りは緊迫感溢れ、大きな感情のうねりの様なものが横溢する凄い迫力で、筆者はひたすら圧倒され続けた。四月の御園座で今回とは逆の配役での『勧進帳』を観たが、二人の芸のぶつかり合いとしては、今回の方が相性はいい様に思う。

 

染五郎義経は勿論まだまだ未熟。科白もまだ役者のそれではない。しかし「判官御手を」ではその未熟故にいい場になっているのだ。義経は苦労人とは云え、生まれながらの貴種である。貴種と云うものは、感情を表に顕す事を恥とするものだ。染五郎義経は、未熟な科白術故に余分な情緒が入っておらず、いかにも貴人の科白といった趣があり、源家の若大将の風情が感じられるのだ。しかも染五郎には生来の気品がある。これを食い足りないと見る向きは多いだろうが、今はこれでいいのだと思う。技術は後から付いて来るものだ。四天王も、友右衛門、高麗蔵、宗之助、錦吾と揃って素晴らしい『勧進帳』になった。

 

最後は『雁のたより』。いかにも上方和事の典型といった狂言鴈治郎秀太郎が上方の風情をしっかりと出している。幸四郎の金之助は、これがさっきまで弁慶をやっていた人と同じ人間かと、疑うばかりの白塗り二枚目ぶり。そして市蔵の高木治郎太夫がお家を思う家老らしい大きさと折り目正しい芝居で、しっかり脇を締めていた。観客にも極度の緊張を強いた凄い『勧進帳』の後なので、こう云う狂言が幕引きにはぴったりだと思う。

 

狂言いずれも素晴らしく、南座の新開場を飾るに相応しい、手応えのある舞台だった。昼の部はまた別項で綴る。