fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

二月大歌舞伎 昼の部 松嶋屋の菅丞相

歌舞伎座昼の部を観劇。その感想を綴る。

 

今月の歌舞伎座は、十三世仁左衛門二十七回忌追善興行。中でも生涯三度しか演じていないにも関わらず、「神品」と称された菅丞相を三男の当代松嶋屋が演じる。二十七回忌の興行が行われていると云う事実が、十三世が名優であった事の証左であるが、当代松嶋屋兄弟がその追善興行が打てるだけの役者である事が、十三世にとっては何よりの供養だろう。

 

幕開きは「加茂堤」。勘九郎の桜丸、孝太郎の八重、米吉の斎世親王、千之助の苅屋姫、橘三郎の清行と云う配役。これが実に結構な「加茂堤」だった。何と云っても勘九郎の桜丸が絶品。この役は女形がやる事も多い柔らか味が必要な役。とは云え桜丸はあくまで男。なよなよしてはいけない。その点勘九郎は柔らかいが、所作にしっかり芯がある。加えて前髪若衆の軽さと気品を兼ね備え、まず文句のつけ様のない出来。

 

孝太郎の八重も世話女房の味と色気を醸し出し、勘九郎との芸格も揃って実にいい八重。久々に観る米吉の立役斎世親王と千之助の苅屋姫が揃ったところは錦絵から抜け出た様な美しさ。橘三郎の清行も熟練の味で舞台を盛り上げ、長閑な春を先取りした様ないい狂言だった。

 

続いて「筆法伝授」の場。松嶋屋の菅丞相、秀太郎の園生の前、梅玉の源蔵、時蔵の戸浪、橘太郎の左中弁、橋之助の梅王丸、秀調の水無瀬と云う配役。当然の事ながら、こちらも流石の出来。松嶋屋の素晴らしさは云うまでもないが、秀太郎梅玉時蔵と皆本役。加えて橘太郎の左中弁が、もうこう云う役をやらせたらこの優の右に出る者はいないと云う名品。前回の歌舞伎座に続いて二度目の様だが、静かな場面が続く中で、場を賑やかに盛り上げる実に軽妙な芝居だった。

 

松嶋屋の丞相様の素晴らしさは引き続いての「道明寺」でも述べるが、その気品、その佇まい、その科白回し、これぞ丞相様である。師を裏切った左中弁に討ちかかる梅王丸を押しとどめての「七生までも勘当ぞ」のイキ、その調子の見事な事。素晴らしいと云う言葉も陳腐に聞こえる。加えて橋之助初役の梅王丸が、きびきびした所作と、父芝翫を思わせる科白回しで、確実に成長しているところを見せてくれたのも頼もしかった。

 

打ち出しはクライマックス「道明寺」の場。この役を勤める期間中、精進潔斎して臨んでいると云う松嶋屋の菅丞相、大和屋の覚寿、芝翫の輝国、孝太郎の立田の前、歌六の兵衛、彌十郎の太郎、勘九郎の宅内、千之助の苅屋姫と云う配役。中で健闘が光ったのが、女形はほぼ初めてと云う千之助の苅屋姫。父孝太郎に徹底的に仕込まれたのだろう。赤姫らしい所作も良く、科白回しもしっかりしており、「加茂堤」から引き続いて初役らしからぬ立派な苅屋姫だった。まだまだ蕾とは云え、祖父松嶋屋譲りの美貌は紛れもない。父孝太郎同様、女形が向いているのではないかと思う。ご当人は祖父の知盛に憧れていると云う発言をしてはいたが。

 

歌舞伎で一番大事なのは、出と引っ込みとよく云うが、松嶋屋の丞相様は出が全てだと思う。その姿が現れた時、正にそこに丞相様がいる!と思わせられるのだ。これは演技云々と云うレベルの話しではない。松嶋屋も筋書きで「演技と云うものが通じない役」と語っていたが、本当にその通りだろう。とにかく内面から醸し出される物で、それ故にこその精進潔斎であったろうし、事前に天満宮に参拝し、姿を映させて頂く事をお許し願ったと云うのもまた然りなのだ。十三世の丞相様は「神品」と称えられたと云うが、当代松嶋屋もこれぞ令和の「神品」。これほどの丞相様をこの先再び観る事は叶うだろうか。よく大名跡で後進が遠慮して留め名になる事があるが、それこそこの丞相様は留め役になってしまうのではないだろうか。余人をもって代え難しとはこの事だろうと思う。

 

大和屋の珍しい老け役覚寿もまた素晴らしい。義太夫味はそれほどでもないが、甥丞相様没落の原因となった我が子苅屋姫を折檻する凛とした強さ、しかし内心は我が子を愛しており、丞相様に折檻を止められると涙ながらに感謝する母心をしっとりと表現して、正に当代の覚寿。芝翫の輝国もこの優らしい骨太さと義太夫味があり、初役とは思えない見事な出来。松嶋屋と花道で揃ったところも引けを取らない大きさで、立派な輝国だった。孝太郎・歌六彌十郎と役者が揃って、正に絶後ではないかと思わせる「道明寺」だった。

 

泉下の十三世も、この丞相様には舌を巻いただろう。大満足の昼の部だった。来月は高麗屋親子の「沼津」が出る。白鸚の平作は思いもしなかった配役たが、今から楽しみでならない。昼の部は播磨屋松嶋屋が揃う『新薄雪物語』。こちらも大変な舞台になるだろう。