fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

大阪松竹座 七月大歌舞伎 昼の部 幸四郎の『伊勢音頭恋寝刃』、松嶋屋三代の『お祭り』

東京に四度目の緊急事態宣言が発出される直前に、大阪に遠征。去年無念の中止に追い込まれた「関西歌舞伎を愛する会」の大阪松竹座七月公演が、今年は無事開催された。歌舞伎座同様入場制限されてはいたが、ほぼ満員の盛況。関西系の松嶋屋成駒家が揃う中に、東京から幸四郎・隼人が乗り込んだ形。実に見ごたえのある狂言が並んだ。

 

幕開きは『伊勢音頭恋寝刀』。幸四郎の貢、壱太郎のお紺、隼人の喜助、虎之介のお岸、孝太郎の万次郎、扇雀の万野、鴈治郎休演で千壽のお鹿と云う配役。万次郎は本来なら秀太郎が演じる予定だったのだが、急逝により甥の孝太郎となったものだ。

 

幸四郎の貢は四年ぶり二度目。初演も見事なものだったが、今回も素晴らしい。当然の様にこの役を十八番にしている松嶋屋からの直伝。来月初演する「義賢最期」も松嶋屋から教わっている。父、叔父からだけでなく松嶋屋からも教えを受けている幸四郎。当代最高の名人の薫陶を受け、襲名以降その芸容をどんどん大きくして行っている。その見事な成果の一つが今回の貢だ。

 

筋書(関西では番附だが)によると松嶋屋が貢について、「どこを写真に撮られても、美しくなければならない」と云っていたと云う。正にその通りの貢。とにかく錦絵から抜け出た様な美しさだ。幸四郎生来の美貌に預かるところも勿論大だが、形の美しさが抜きんでて素晴らしい。これは踊りが身体にあるのが大きいのだろう。万座の中でお紺に愛想尽かしをされた貢が、いたたまれず油屋を後にする。その花道の引っ込みで、羽織を肩に掛け、身体をそらして決まったところの美しさなどは、筆舌に尽くし難い。

 

加えて今回は科白廻しも見事。「伊勢乞食」と罵られ、「身不肖なれども福岡貢」に始まる長科白、これが実に聴かせる。貢が幸四郎のニンである事もあり、万野の奸計に嵌ってしまった無念さが観ているこちらにも切ない迄に迫って来る。またこの場の扇雀演じる万野が真に憎々しく、科白廻しも実に手強い抜群の出来。この万野がいいと、この場は素晴らしく盛り上がる。初役らしいが、扇雀が見事な腕を見せてくれた。

 

最後は妖刀「青江下坂」に操られる様に次々人を殺めていく貢。ここはリアルに流れてはダメで、あくまで歌舞伎的様式美が全面に出なければならない。しかしその一方で刃に手を曳かれる様に殺戮を繰り返す貢の狂気も、しっかり出す必要がある。その点でも幸四郎は実に見事。一種催眠状態にある貢の腕が斬るのではなく、刃が自然と人を斬る。震える剣先と虚ろな瞳に妖刀の魂が憑依した貢の狂気を象徴的に表現し、血糊まみれのその立ち姿は悲愴美に溢れ、凄絶な歌舞伎美に満ちている。

 

壱太郎のお紺は二度目らしいが、心ならずも愛想尽かしするところ、きっぱりとしていて技巧的にも申し分ない出来。万野に加えてこのお紺も良いので、貢の絶望感が一層際立つ。東の若女形児太郎同様、西の若女形壱太郎も進境著しいものがある。鴈治郎の代演千壽も手一杯の力演、各役揃って素晴らしい狂言となった。ただコロナ禍で人数を絞る必要があるせいか、「奥庭」の芸者衆揃っての総踊りはナシ。背景も通常の提灯が飾られた渡り廊下ではなく、普通の庭の作りで、舞台面としては地味な印象の大詰だった。

 

打ち出しは『お祭り』。仁左衛門・孝太郎・千之助と松嶋屋三代が揃った。正月の高麗屋三代が揃った「車引」に続く年代記ものの狂言。両家共、お祖父さんが元気なればこそ成立する座組。仁左衛門は云う迄もなく上方出身の役者だが、江戸の鳶頭と云う鯔背なところも何の違和感もなく出せるのが本当に凄い。踊りで鍛え上げた身体のシルエットは、八十近い老人のそれではない。千之助は昨年二月の「道明寺」における苅屋姫に続く女形で、時分の花らしい美しさ。孝太郎は年増の仇な雰囲気で鳶頭を口説く。

 

お祖父さんを息子と孫が取り合うと云う歌舞伎らしい座組で、実に微笑ましく、観ているこちらも浮き浮きした気分にさせられる。ただこの出し物お約束の「待ってました!」「待っていたとはありがてぇ」のやり取りが、大向うの禁止によりナシ。このやり取りがないのは肩透かしの感があり、声を出せないなら無理に『お祭り』を出す必要もなかったのではないかと思ってしまう。三代で出来る狂言は、探せば他にもあっただろうに。まぁ子と孫に囲まれてご機嫌な松嶋屋が観れたので、それはそれで良かったのだが。

 

大看板から花形、若手花形とそれぞれに充実していた素晴らしい昼の部。続いて観劇した夜の部の感想は、また別項にて改めて綴りたい。