緊急事態宣言が再発令され、三部の時間が繰り上がったり、コロナとは関係なさそうで一安心だが莟玉が12日迄休演と、今年も立ち上がりから不安一杯の出足ではある。しかしとにかく芝居の幕が開いた事は喜ばしい。その二部の感想を綴る。
幕開きは『夕霧名残の正月』。亡き山城屋の追悼狂言。初代藤十郎が初演したものの、原本が現存せず、山城屋が藤十郎を襲名するに当り、新たに作り上げた狂言。鴈治郎の伊左衛門、扇雀の夕霧、又五郎の三郎兵衛、吉弥のおふさ、寿治郎の藤兵衛と云う配役。この狂言の伊左衛門を演じた役者は山城屋と当代鴈治郎しかおらず、夕霧を演じた役者も亡き先代京屋と扇雀しかいない。山城屋も京屋も亡くなった今は、成駒家の専売特許と云っていいだろう。当然の事乍ら素晴らしかった。
新町扇屋では、主人三郎兵衛夫婦が亡き夕霧を偲んでいると、下手から何も知らない伊左衛門が紙衣姿で登場。この衣装は父山城屋から受け継いだ本物の紙衣だそうだ。役者は出が大事とよく云うが、憂いを含んだその所作は、勘当されたとは云えいかにも大店の若旦那と云った雰囲気に溢れ、実に素晴らしい。舞台中央で決まって「憂き世じゃなぁ」と云う科白廻しも実に艶っぽい。常磐津に乗って〽︎通いつめたる新町の~のふっと往時を偲ぶ様に上を見上げたところなぞ、その形の美しさ、その風情、これぞ和事芸である。
伊左衛門の想いが通じたか夕霧が現れる。ここは流石に先代京屋が見せた、夢幻の儚さを湛えた出には及ばないが、美しく、しっとりとしたこれはこれで結構な夕霧。「わしゃわずろうてなぁ」の憂いを含んだ科白廻しが上手い。そして二人の連れ舞いになる。〽︎伏屋の軒に見る月は 寄せる思いも増鏡~の常磐津に乗り、二人の切ない迄の想いが歌舞伎座の大舞台を覆いつくす。
すっぽんに乗って夕霧が姿を消し、夢であったと気づく伊左衛門。夕霧形見の打掛を抱きしめて我に返るところで幕となる。夕霧を亡くした心情がしっとりと客席にも伝わる切なくもいい幕切れ。亡き山城屋の和事芸は、しっかりその息子達に引き継がれている事が見て取れた。
続いて『仮名手本忠臣蔵』より「一力茶屋の場」。播磨屋の由良之助、雀右衛門のおかる、梅玉の平右衛門、橘三郎の九太夫、吉之丞の伴内と云う配役。目ン無い千鳥~力弥の場はなく、「釣灯籠」から。この形の上演は昔からある形だが、これだと由良之助前半のやつしがなく、主役は俄然平右衛門とおかるになってしまう。筆者的には折角播磨屋で「一力」が観れるなら、やはり全て上演して欲しかったと云うのが本音だ。これは去年高麗屋の「大蔵卿」でも感じた事だが。
播磨屋は昨年十月に手術をしたのだと云う。昨年国立での播磨屋の「俊寛」観て苦言を呈した時はその事を知らなかった。術後大きな声を出すと、まだ傷口が痛むと云う。それを知って思い返すと、あの俊寛は今の播磨屋の体力で出来る苦肉の策だったのだと合点がいった。絶賛している劇評もあったが、あれを褒められても、播磨屋は本意ではないのではなかろうか。本来の播磨屋は、あんなものではない。
例えは突飛だが、まだ日本ハム時代のダルビッシュが怪我をしながらも、日本シリーズでジャイアンツを抑えて勝利した事があった。あの時のダルビッシュは怪我で自慢のストレートが投げられず、変化球を多投してかわすピッチングでジャイアンツを封じ込んだ。勿論ダルビッシュの高い技術のなせる業だが、あのピッチングを褒められても、ダルビッシュは心外だと思う。播磨屋の心情も同じと推察する。
そこで今回の由良之助だが、俊寛の時よりは回復して来ている。しかしまだ万全には程遠いと云う印象だ。やはり呂の声が出ない。「九太はもう、いなれたそうな」の「九太はもう」は由良之助の本来の大きさを一瞬垣間見せるところなので、もっときっぱりしていなければならない。しかし今の播磨屋の体力では無理なのだ。幕切れの「鴨川で水雑炊を」もしかり。無理をせずとも、今の播磨屋に出来る狂言は他にもあるのでは?と思ってしまう。しかし繰り返すが俊寛よりは、出が短いせいもあるだろうが、まだしっかりしている。筆者は見た訳ではないが、舞台で転んだ日もあったと聞く。くれぐれも無理はしないで貰いたいものだ。
対して梅玉・雀右衛門の平右衛門・おかるは絶好調。松嶋屋・大和屋のコンビだと艶っぽすぎて恋人同士にも見えてしまうが、この二人は芸風が派手ではないので、実に程が良い。程が良いなどと云うとあまり誉め言葉ではない様に聞こえるかもしれないが、そうではない。平右衛門は足軽だし、おかるも遊女とはなっても元は百姓の娘。その出自を二人は忘れていない事が、この二人の役者のやり取りだと実に良く判る。
「妹」「兄さん」と呼び合う二人が、実に兄妹らしく素朴で、観ていて実に気持ちが良く微笑ましい。おかるはまだなり立ての遊女なので、本心からの廓慣れはしていない。平右衛門に奇麗になったと云われ、立って姿を見せる場でも無邪気な妹そのままで、可愛らしい遊女であるのが、雀右衛門の芸風に合っている。梅玉も義太夫味と云うよりリアルさを優先させた芝居で、実直な平右衛門像を構築していて、これまた見事。
総じて播磨屋は万全ではなかったが、「釣灯籠」からの上演であったので、梅玉・雀右衛門の好演がクローズアップされた形で、かえって良かったのかもしれない。四部制よりも、流石に芝居を観た手応えのある正月公演第二部だった。
残りの部の感想は、また改めて綴る事にする。