fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

壽 初春大歌舞伎 昼の部 芝翫・雀右衛門の『奥州安達原』、播磨屋の『素襖落』

「河内山」以外の昼の部の感想を綴りたい。

 

幕開きは『醍醐の花見』。梅玉の秀吉、福助淀君勘九郎の三成、芝翫智仁親王七之助智仁親王北の方、魁春の北の政所と云う配役。三年前にも観たが、その時とは全くの別物と云っていい位演出・振り付けが違っている。前回は智仁親王と北の方は出ておらず、その代わりに確か松の丸殿の役があった様に記憶している。

 

別にこれと云った筋がある狂言ではなく、ひたすら役者の風情を見せるもの。梅玉の秀吉は流石に悠揚迫らざる大きさがあり、魁春の北の政所に気品と風格がある。そして七之助智仁親王北の方は今が盛りの美しさ。何より福助淀君が嬉しい。右半身はどうにもならない様だが、とにかく無理せずまたその舞台姿を見せて欲しい。

 

続いて『奥州安達原』から「袖萩祭文」。芝翫の貞任、勘九郎の宗任、七之助の義家、笑三郎の浜夕、東蔵の直方、雀右衛門の袖萩と云う配役。こちらも三年程前に播磨屋の貞任で観ている。その時と袖萩は同じ雀右衛門だが、他は全て違う配役だった。播磨屋義太夫味と大きさを兼ね備えた見事な貞任だったが、今回の芝翫も負けていない。

 

初役らしいが、桂中納言からぶっ返って貞任になった時の柄を生かした大きさ、立派さは、歌舞伎座の大舞台に大いに映える。そして義太夫味もしっかりあり、時代物役者としての芝翫の豊かな天分は疑い様がないものだ。科白回し特に甲の声に独特の癖がある優で、それが役によっては障りになる事もあるが、丸本では見事な効果を発揮する。何故か去年の歌舞伎座での芝翫は舞踊ばかり踊っていた印象があるが、今年は違うぞとばかり、素晴らしい丸本を見せてくれた。

 

雀右衛門の袖萩も見事。こう云う哀れな役柄は、ニンに合う。福助の様にエモーショナルにならず、非常に古格な袖萩。二度目との事だが、三味線を弾きながら両親に不孝を詫びる祭文は哀切を極め、心に沁みる。そして笑三郎の浜夕が初役とは思えぬ見事な出来。夫直方を気にしながらの「何故歌わぬぞ」の芝居が上手い。どこか先代吉之丞を想起させる風情があり、義太夫味もある素晴らしい浜夕だった。

 

東蔵の直方は本来女形であるこの優のニンではないが、芸で見せる。勘九郎の宗任は義太夫味は薄いが、手強い出来。七之助の義家は女形故の線の細さが目立ったが、全体としてはしっとりとしたいい「袖萩祭文」だった。

 

「河内山」の前に、『素襖落』。播磨屋の太郎冠者、又五郎の大名某、種之助の鈍太郎、鷹之資の次郎冠者、吉之丞の三郎吾、雀右衛門の姫御寮と云う配役。この狂言歌舞伎座でかかるのは、これで三年連続だ。松緑海老蔵で観ているが、やはり播磨屋は一頭地抜いている。

 

きっちりした舞踊の上手さでは松緑が一番で、播磨屋は決して舞踊の名手ではない。しかし何とも云えないふくよかな風情で見せる太郎冠者。こう云う味は、播磨屋くらいの熟練の役者にして初めて出せるものだろう。そして那須与一の扇の的の仕方噺で見せるその語りの上手さは、他の追随を許さない。前の狂言が重い丸本だったので、いかにも正月らしいいい出し物だった。ただ播磨屋がこの一役だけと云うのは、贅沢な注文かもしれないが、喰い足りない思いが残る。播磨屋のじっくりとした芝居も観かったが、それは来月以降のお楽しみと云ったところか。

 

これに加えて打ち出しに絶品の「河内山」があり、大満足の昼の部だった。勘九郎が久々に歌舞伎座に帰還した『鰯賣戀曳網』が出た夜の部は、また別項にて綴る。