fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

国立劇場 十二月歌舞伎公演 第一部 時蔵・松緑・芝翫の『三人吉三巴白浪』

国立劇場第二部を千秋楽に観劇。その感想を綴る。

 

先月も国立は千秋楽観劇予定で、二部が公演中止になってましったので今月もハラハラしていたのだが、無事公演が行われた。まずは一安心。通し狂言で「三人吉三」が出た。「大川端」から「火の見櫓」迄。時蔵のお嬢、松緑のお坊、芝翫の和尚、新悟のおとせ、萬太郎の十三郎、坂東亀蔵の源次坊と云う配役。去年歌舞伎座で観た公演とは、亀蔵以外は全て代っている。その時のお嬢は梅枝だったので、親子で2年続けてお嬢を演じた事になる。

 

幕開きは当然「大川端」。おとせに続いてお嬢の時蔵が花道を出て来る。このお嬢と云う役は、音羽屋の様に兼ねる役者が勤めるのと、真女形が勤める場合と二通りある。時蔵は当然の事ながら後者。この場合の最大の利点は、女でいる時の美しさ。時蔵は還暦をとうに過ぎているが、倅に劣らぬ目の覚める様なお嬢様ぶり。新悟のおとくと揃ったところは実に美しく、この役を女形が勤める際の良さを存分に味わわせてくれる。

 

そして例の「厄落とし」。ここはもう近年は皆そうだが、陶酔的に謳う事はしない。いや現代の役者には出来ないのかもしれない。謳わない代わりに、一語一語しっかり語られるので、科白の意味は良く判る。その点では続いて出て来る松緑のお坊も同様。ここはもう黙阿弥調の謳い上げは期待してはいけないのかもしれないと思い、帰宅後杮落し公演の音羽屋・松嶋屋高麗屋のバージョンを見直したのだが、これが実に見事に謳い上げているのだ。しかしもうこの三人の名人以外には無理なのかもしれない。

 

芝翫の和尚の登場。喧嘩の仲裁に入るのだが、これが実に堂々たる貫禄で、座頭の風格が備わって来ている。今の大幹部の後の歌舞伎座は、この優のものだろう。科白廻しも筆者が期待する純然たる黙阿弥調ではないが、和尚はお嬢やお坊と違ってそこまで謳い上げる必要のない役。芝翫は自分流に崩しながら違和感のない和尚像を築き上げている。

 

続く「吉祥院の場」と「裏手墓地の場」は、もう芝翫の独壇場。妹おとせが連れて来た夫十三郎が自らの弟と気づき、義兄弟の為畜生道に堕ちた実の弟妹を刺し殺す。末期の水を二人に汲んでやり、これが別れの水杯の心持ちで自らも飲み干す。ここら辺りの泣いて馬謖を斬るが如き心境が真実に迫って舞台を覆う。時代物にとどまらない実事師としての芝翫の力量の見事な発露だ。

 

そして大詰め「火の見櫓の場」。ここは時蔵のお嬢と、松緑のお坊の同士愛を超えた同性愛的な心情が、雪降る舞台にともる灯の様な温かくもせつない場となって、実に素晴らしい。踊りの名手松緑の立ち回りは間然とする所のない出来であるし、時蔵のお嬢も、櫓に登ろうとして雪に足を取られ、それでも登り続けて鐘を打ち鳴らす一連の所作が儚くも美しい。

 

最後、雪積もる櫓をバックに三人決まったところは一幅の絵の様で実に見事。こう云う美しさが歌舞伎観劇の一つの醍醐味。脇では新悟のおとせがひと際目につく出来。この優は近年めきめき腕を上げている。今後が実に楽しみな若手花形だ。

 

コロナに翻弄され続けた令和2年の芝居見物もこれで終了。新年からは歌舞伎座も三部制になる様だ。来年こそ、心穏やかに歌舞伎を観たいものだが、現状では中々厳しそうではある。武漢ウイルスの一日も早い終息を、願わずにはいられない。