fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

国立劇場 十二月歌舞伎公演 第二部 高麗屋の「河内山」、成駒屋の『鶴亀』、染五郎の『雪の石橋』

国立劇場第二部を観劇。その感想を綴る。

 

幕開きは『天衣紛上野初花』。所謂「河内山」だ。高麗屋の河内山、梅玉の松江侯、彌十郎の小左衛門、錦吾の大膳、高麗蔵の数馬、友右衛門の清兵衛、莟玉の浪路と云う配役。今年正月の歌舞伎座でも高麗屋が演じていたが、今回は筆者念願だった「質見世」が付いている。他の役者では観ているが、高麗屋では初めて。この場がまた素晴らしい。

 

こい云う云い方は語弊があるかもしれないが、高麗屋は悪人をやらせたら天下一品である(笑)。「加賀鳶」の道玄、「髪結新三」の新三、「金閣寺」の大膳、そして極め付きは『不知火検校』の富の市。そしてその系列に連なる今回の河内山。上州屋に入って来た時から只者でない雰囲気を漂わせ、ものこの場だけでも魅了されてしまう。

 

持参の木刀を差し出して金を無心する。幾ら欲しいかと問われての「たんともいらねぇ、五十両貸してくだせぇ」の江戸っ子口調が、絶妙なイキでたまらなくいい。見世が娘の事で立て込んでいると知り、金を貰えれば娘を取り返して進ぜると云う。その金二百両。高いと云われ「それで高けぇと思うなら、たってとは申さぬが、三間間口の居付地主、家蔵から地面、有金まで残らず譲る娘の命、二百両じゃあ安いものだ」と凄む調子の良さ。無類の科白廻しだ。そして金を懐に「こりゃ大きにおやかましゅうござりまし、た」と戸口を出て行く姿も悪が効いていて、素晴らしい。初めて観た高麗屋の「質見世」、期待に違わぬ出色の出来だ。

 

舞台が変わって「松江邸広間の場」。正月は芝翫の松江侯だったが、今回は梅玉芝翫はいかにも癇性の強い我儘な殿様だったが、梅玉が演じるともっと穏やか。この優のニンで、どこか名君的な風情も漂ってしまうのだが、芝居は勿論しっかりしている。莟玉の浪路の可憐さが、正に手討ちに合わんとする境遇の哀れさを一入感じさせていい。彌十郎の小左衛門は押し出しの立派さが如何にも大藩の家老職を思わせる。

 

そして河内山扮する北谷の道海が花道から出て来る。高麗屋がインタビューで、「歌舞伎は品がなければいけない」と語っていたが、宮の使僧としての品格と、座頭役者が演じるところの役どころらしい貫禄が自然と備わっている見事な出。「質見世」があった事で、前幕との変り身がはっきり判り、やはり「河内山」を出すなら「質見世」は付けた方がいいと思わせる。

 

その後は正月と特に変わってはいない。必要以上に愛嬌を売る事もせず、大仰な芝居もない抑えた芝居。正月の時にも書いたが、後の「玄関先の場」を際立たせる為の演出だろう。そしてその目論見通り、大膳に見顕されての啖呵が胸をすく素晴らしさ。「悪に強きは善にもと」の始まりのところはややゆっくり目で出る。そして「神の御末の一品親王」辺りから徐々にテンポアップ、音楽で云うところのアッチェレランドして来る。そして「若年寄へ差し出すか、但しは騙りを押し隠し、お使え僧で俺を帰すか」と畳み込むイキの素晴らしさ。黙阿弥調を知り尽くした高麗屋。緩急自在の科白廻しだ。

 

そして花道の引っ込みでの「ばぁかめぇ」で大団円。高麗屋が「嫌な事を忘れて、河内山の小気味のいい啖呵を楽しんで貰えれば」と語っていた通り、その名調子を存分に堪能させて貰えた素晴らしい「河内山」だった。

 

打ち出しは福助の女帝、福之助の鶴、歌之助の亀と成駒屋が揃った『鶴亀』と染五郎の『雪の石橋』。福助はやはり右手が不自由そうだったが、舞台上の存在感は正に辺りを払うと云った体で、女帝としての貫禄十分。福之助・歌之助は腰高が若干気にはなったが、若々しい舞踊で福助を支える。最後立ち上がる福助に福之助がさり気なく手を貸していて、いい甥っ子ぶり(笑)。染五郎の『雪の石橋』は、得意の気振りを眼目とした舞踊。まだ所作には段取りっぽさが残るが、この年齢ならではの中性的な雰囲気も漂わせて、只管凛々しく、そして何より美しい。最後雪降る舞台で決まったところは天性の千両役者を思わせ、成長著しいところを見せてくれた。

 

年の初めと終わりに高麗屋の「河内山」を観れて、コロナで散々な年ではあったが、少し救われた気持ちになれた。今年はこの後歌舞伎座一部~三部と国立劇場一部・南座一部を観劇予定。文楽にもコロナが出て公演が中止になったり、秀太郎・竹三郎が病気休演になったりしているが、無事公演が行われる事を願ってやまない。