fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

六月博多座大歌舞伎 夜の部 高麗屋父子の至芸

続いて残る二演目。

 

口上の後、白鸚による『魚屋宗五郎』。近年の白鸚は世話物に力を入れているが、その一つの回答とも云うべき素晴らしい出来。

 

筆者は今まで『魚屋宗五郎』は役者の酔態を見せるだけの芝居と思っていて、黙阿弥 作品の中ではあまり好きではなかった。しかしどうしてどうして、それは私の浅はかな見方だった。確かに先代桂文楽の芸を参考にしたと云う、白鸚の酔態は見事なものだった。だが私がこの作品の真の意味を理解出来たのは、酒が入る前の場面なのだ。

 

妹のお蔦が姦通の罪で手討になったと聞き、一家は悲嘆にくれている。周りはヒートアップしていて、父親の太兵衛ですら、「これを黙っているのか」と宗五郎をけしかける。ここで周りをたしなめ乍らの宗五郎の我慢がいいのだ。今回私がこの狂言の真の意味を理解出来たのは、ここの我慢が効いているからだ。

 

かつて三島由紀夫が『総長賭博』の鶴田浩二(尾上右近の祖父だ)の演技を、「鶴田の我慢」と呼んで絶賛し、返す刀で高倉健を木偶の棒と云ったが、今回の白鸚の我慢は、鶴田の我慢を想起させる。その分魚屋としては貫禄があり過ぎるのだが、まぁそれは良しとしよう(笑)。

 

鶴田は、我慢に我慢を重ねた挙句に怒りを爆発させて、叔父貴分の金子信雄を惨殺する。侠客の鶴田と違い、酒の勢いで切れるのが魚屋らしいところなのだが、この妹の死を耐え忍んでいる姿が、今まで筆者が観てきた『魚屋宗五郎』の中でも、ずば抜けていいのだ。

 

この我慢と酔った後の対比が鮮やかで、狂言が立体的なものになった。庭先での大詰めでも、友右衛門の主計之助がわざわざ座布団を外して手をつく細かな芝居を見せ、それ故に宗五郎の「赦し」が素直に腹に落ちる、後味のいい幕切れだった。今後の白鸚の世話物が増々楽しみだ。

 

最後は幸四郎の『春興鏡獅子』。先の『伊達の十役』での正岡も見事だったが、『鏡獅子』も前半の弥生がことに良かった。幸四郎がまだ十代の時の『鏡獅子』を見た先々代松緑が「高麗屋にも弥生を踊れる役者が出てきたな」と云ったそうだが、見事な弥生だった。

 

川崎音頭から花見の情景に移る流れも艶やかで、これほどの弥生はそうそうないだろうと思わせる。後半の毛ぶりも勿論素晴らしかったが、ここは他に人もあろう。しかしこと弥生に関しては故十八代目勘三郎以上であったと思う。

 

女形を思わせる艶やかさと、立役らしい豪快さを両立させなければならない至難の大作舞踊『春興鏡獅子』の、当代最高の踊り手は幸四郎であると云っていいだろう。

 

以上二演目に松嶋屋の『俊寛』も併せて、素晴らしい襲名狂言だった。

 

今後も可能な限り高麗屋の襲名公演を観てみたいと思っている。