fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十一月 吉例顔見世大歌舞伎 昼の部 菊之助・隼人の『マハーバーラタ戦記』

歌舞伎座昼の部を観劇。筆者が観た日はほぼ満席の入り。丸本の様な古典より、新作の方がウケが良いのだろうか。しかし入りが良いのは、さぞ役者も遣り甲斐のある事だろう。しかしこの『マハーバーラタ戦記』の再演は驚いた。初演も観ているが、その際は確かインドとの国交何周年かの記念上演と謳われていたと思う。余程評判が良かったのだろうか、めでたく再演となった。

 

通し狂言なので、昼はこの一狂言のみ。正味三時間半にも及ぶ大作である。配役は菊之助が迦楼奈(かるな)とシヴァ神の二役、隼人が阿龍樹雷王子(あるじゅらおうじ)と梵天の二役、彌十郎の太陽神、錦之助の仙人久理修那(せんにんくりしゅな)、彦三郎の帝釈天、米吉の汲手姫(くんてぃひめ)、坂東亀蔵の百合守良王子(ゆりしゅらおうじ)、猿弥の道不奢早無王子(どうふしゃさなおうじ)、そして今回の眼目、大抜擢芝のぶが鶴妖朶王女(づるようだおうじょ)とラクシュミーの二役、團蔵休演で荒五郎の多聞天、楽善の大黒天、病癒えた菊五郎那羅延天、そして菊之助の愛息丑之助が我斗風鬼写(がとうきちゃ)とガネーシャの二役。音羽屋三代の共演が実現した。初演で七之助が演じた重要人物の一人鶴妖朶王女に芝のぶを当てたのが、素晴らしい。

 

大作であるが筋をざっくり云うと、争いが絶えない人間界を見て嘆いている那羅延天。側近の太陽神は慈愛で人間界を救う迦楼奈を徳高い汲手姫に産ませて人間界に送り込めば良いと云う。しかし軍神の帝釈天は、愛では争いは止まない。争いを終わらせるのは力だと云い、同じく汲手姫にもう一人無敵の英雄阿龍樹雷を産ませてこの力で争いを終わらせると主張する。両者の意見を入れて二人が人間界に送り込まれる。愛と力、どちらが世を救うのか。異父兄弟の相克の物語と云うのが大筋である。

 

ナウシカ」もそうであったが、どうも菊之助はこの手のストーリーがお好みの様だ。反戦思想に異論はないが、どうもどちらも多少お花畑的で、筆者はあまり好みではない。争いの無常観を感じさせる丸本の「熊谷」や「盛綱」に比べると(比較しては気の毒乍ら)、底の浅さを感じてしまう。よって筆者にとっての興味はこの芝居の中で見せる役者芸と云う事になる。その意味で云えば、主演の菊之助は意外にも芝居としての為所がない役である。目の覚める様な美しさと、凛々しい所作、いずれも流石菊之助と云ったところだが、役としての肚はあまり感じられない。その点では隼人の阿龍樹雷も同様。筆者にとってはこの主役の二人にはあまり魅力が感じられない。

 

その点でこの狂言最高の芝居を見せてくれたのが、鶴妖朶の芝のぶであった。先に記した様に初演では七之助が演じた程の重要人物。しかも肚に一物ありげで、善悪定かならぬ複雑なところのある役だ。普段から脇の女形の中でもひと際目を引く芝のぶ。今回今までの培った芸を思う存分見せてくれている。もう一役のラクシュミーは特にどうと云う事はないが、この鶴妖朶は素晴らしい。かなり芯のある女形声を駆使して、自ら戦陣に立つ様な力強い王女鶴妖朶を構築している。最後は夜襲を進言する道不奢早無王子の言葉を退け、遅参した迦楼奈の到着を待って不利と知りつつ戦いに挑み、討死する悲劇的な人物を時に力強く骨太に、時に儚げに演じて圧巻の出来であった。多分芝のぶ史上、これ程歌舞伎座で科白をしゃべった事はなかったであろう。初演の七之助をも凌駕する見事な鶴妖朶であった。

 

その他の脇では、初演時に時蔵と梅枝が演じた汲手姫を今回米吉が一人で演じている。若い時の梅枝が演じた汲手姫は問題ないが、時蔵が演じた後年の汲手姫(何せ菊之助と隼人の母なのだ)は流石に今の米吉には手に余った。菊五郎那羅延天は最初と最後に少し顔を出すだけだが、その存在感は流石の一言。そして音羽屋の御曹司丑之助が、秀山祭での『連獅子』に続いて、見事な芝居を見せてくれていた。この子の芝居は既に子供芸ではない。舞台では大きく見えるし、声も良く通り何より芝居に肚を感じさせる。成人した後の役者ぶりを何とか生きて観てみたい。丑之助を見ていると、つくづく長生きしたいものだと思わされます(笑)。

 

竹本も入って非常な力作であったが、筆者にとっては一に芝のぶ、次いで丑之助と云う芝居であった。夜の部は一転、新歌舞伎に丸本、そして舞踊と云う歌舞伎らしい狂言立て。感想は観劇後、また別項にて。