fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

大阪松竹座開場100周年記念 七月大歌舞伎 夜の部 松嶋屋の「俊寛」、幸四郎・米吉の『吉原狐』

二年ぶりに大阪遠征。まぁとにかく人出が凄い。何かで読んだが、外国人に一番人気のある日本の観光地は大坂だぞうだ。本当に外国人が多い。いかにも大阪的でごちゃごちゃしており、東京の人混みとは少し違う感じがある。松竹座も満員御礼の札が下がっており、一杯の入り。役者の方でもさぞやり甲斐のある事だろう。まず夜の部の感想を綴りたい。

 

幕開きは『平家女護島』から「俊寛」。松嶋屋俊寛幸四郎の少将、橘三郎の康頼、千之助の千鳥、菊之助の基康、彌十郎の兼康と云う配役。中では当然の様に千之助は初役、そして意外な事に橘三郎も初役の様だ。よくかかる狂言だが、松嶋屋俊寛は五年前の高麗屋三代襲名公演の博多座で観て以来。その時も絶品であったが、今回も相変わらず素晴らしい出来であった。

 

松嶋屋俊寛は、前回観劇した時と大きくは印象は変わらない。長身瘦躯が役にぴたりと嵌まっている。今回はよろめき乍ら出て来た時に、落ちている海藻を拾うあたりに、孤島での生活感がリアルに漂う。よろめいて杖に縋る仕草もリアル。ここは例えば高麗屋だと糸に乗る感じでよろめき、いかにも義太夫狂言の仕草らしいところを見せるが、松嶋屋はよりリアルな往き方。最近の松嶋屋は、丸本でも義太夫味は協調せず、今の見物衆に寄り添う様なリアル感を出している。勿論丸本を極めつくした松嶋屋なので、ぐっと義太夫味を出そうとすれば出来るであろう。事実以前はもっとたっぷり義太夫味を出していた。しかし思うところがあるのだろう。近年はよりリアルな表現を心がけている様に見える。

 

と云ってもその基調には義太夫がある。少将と千鳥の祝言を寿ぎ、「俊寛な、肴仕ろう」と云う科白などには、義太夫味が漂い、リアル感と義太夫味の程良いミックスが形成されている。一つには周りの共演者に、義太夫味を出せる人が少なくなっていると云う事もあるのかもしれない。例えば前回博多座で観た時の丹左衛門は高砂屋であったが、今回は菊之助。歌舞伎は一人で出来るものではない。周りの共演者と協同で作り上げるものだ。一人勝手に芝居をしてもバランスが崩れる。今の松嶋屋は、相手によって自在に往き方を変えられる融通無碍の境地に立ち入っているのだろう。

 

従来と少し変わっていたのは、赦免船が来たのを見た四人が浜辺へ急ぐ為に一度引っ込む。普通は舞台下手に下がるが、今回は俊寛が出て来た岩の裏に引っこむ形。これは舞台の小ささが影響しているのかもしれない。普通は遠見で小道具の船が出るが、今回はそれもなし。そして瀬尾が赦免状を読み上げるも、その中に自分の名前がないのを見た俊寛は慟哭するが、丹左衛門が出てきて結局自分も赦される事を知り、一転喜びの声をあげる。ここらあたりも実にリアル。

 

しかし瀬尾から妻東屋が相国入道清盛に殺されたのを聞かされ、愕然とする。ここの嘆きの深さは肺腑を捩る様な悲しみを感じさせ、この後の俊寛の行動原理に厚みを持たせる実に見事な芝居。千鳥の乗船は許されない事になり、一度三人が無理やり乗船させられるが、千鳥の一人芝居の後、船から俊寛が現れ、自分は残るので船に乗る様に諭す。瀬尾が下船して来てそれを遮るが、今まで只管耐えてきた俊寛の怒りが爆発し、瀬尾の刀を奪って切りつける。この瞬間のキッとなった松嶋屋俊寛の眼光が、はっ息をのむばかりに鋭い。

 

最後は独り島に残り、三人が乗った赦免船を見送るのだが、ここの松嶋屋の芝居がまた泣かせる。「お~いっ」と船に呼びかけ、船からも「お~い」と呼び返す。それを耳を抑えて聞こうとするも遠ざかって行く船からの声はだんだん小さくなる。それを必死に聞こうとする俊寛。遠ざかる船は当然舞台には出てこないのだが、その遠ざかって行く様が、松嶋屋の芝居からはっきり感じ取れる。ここは他の追随を許さない素晴らしさだ。そして松嶋屋俊寛の独特の型になっているのは、花道を海辺に見立てて、すつぽんの中に半身を入れる。船を追いかけて海に入っていく俊寛を視覚的に見せる実に上手い工夫。岩によじ登って船を見送り、嘆きの表情から最後は穏やかな慈父の様な表情になって幕となる。ここの表情も万感交々と云った見事さで、名品揃いの松嶋屋の芝居の中でも、さながら一頭地抜けた傑作「俊寛」であったと思う。

 

脇では幸四郎の少将が切って嵌めた様なニンで、これまた傑作。彌十郎の瀬尾は義太夫味は薄いが、柄の大きさを生かした手強い出来。菊之助もまだ二度目の丹左衛門乍ら、きりっと引き締まった見事な芝居。ただ初役の千之助千鳥は科白も所作も段取りめいて、まだ役が肚に入っていない。千鳥は年齢的には若女形に向いてはいるのだが、狂言の肝となる大役で、立女形が演じる事が多い難役。数年前に観劇した国立劇場での新吾も今一つの出来であったのを見ても、その難しさが判る。千之助千鳥は義太夫味も薄く、この役は流石に手に余った印象。いつかこの役をしおおせる役者になって貰いたい。

 

打ち出しは『吉原狐』。村上元三が、初代白鸚と先代勘三郎に当てて書いた人情喜劇。配役は幸四郎の三五郎、米吉のおきち、隼人の孫之助、虎之介のお杉、染五郎采女、吉弥のおつる、孝太郎のおえん、扇雀のお筆、鴈治郎の半蔵。十七年ぶりの上演なので、当然の様に全員初役。しかし幸四郎扇雀、孝太郎は、役は違うが前回上演時にこの芝居に出ている。

 

何でも一人合点して吞み込んでしまい、周りを引っ掻き回す癖がある芸者のおきち。このおきちは、落剝した二枚目を見ると狐が憑いた様に惚れてしまうところから、「吉原狐」と仇名されている。おきちの父三五郎は妻に先立たれた後は独り身で、芸者屋を営んでいる。そこで仲働きをしているお杉と三五郎は出来ているのだが、それをおきちに言い出せないでいる。しかし花魁の誰袖がおきちに「年か明けたらお前のお父さんのところへ伺う」と云うのを、父と誰袖が出来ていると早合点したおきちがひと騒動巻き起こすと云うのが大筋。

 

名前のトップは格からし幸四郎となってはいるものの、実質の主役は米吉のおきち。前回の上演時は福助が演じていて、実に見事なものであったが、今回の米吉も負けず劣らずの大奮闘。相手に皆迄しゃべらせず、一人でまくし立てて物事を進めてしまうおきちを、実に愛嬌たっぷりに演じている。その可愛らしい容貌から、以前は町娘がニンであった米吉だが、芸者役が嵌まる女形になってきたのを感じられたのは大収穫。喜劇なので科白には現代調が混じりはするが、時折見せる仇な科白廻しが実に艶っぽい。

 

落剝した二枚目(今回は染五郎と隼人)が、ほつれ髪を撫で上げる仕草を見ると、周りが暗くなっておきちと染五郎や隼人だけに照明が当り、効果音が響く。この演出が面白く、東京の芝居なのだが大阪の見物衆にも大受けだった。そして染五郎と隼人がおきちが惚れるのも頷ける二枚目ぶりで、水も滴るとはこの二人を云うのだろうと思わせるほど。米吉の美しさと相まって、実に見栄えのする舞台となっていた。

 

幸四郎の三五郎は特に為所のある役ではない。前回は亡き三津五郎が演じていて、実直さが全面に出ていたが、それに加えて今回の幸四郎は若いお杉が惚れる位の色気もある。娘おきちへの深い愛情もしっかりと感じさせ、実に結構な三五郎であったと思う。最後はおきちの勘違いと判り、三五郎はめでたくお杉を後添えに貰う事が決まる。親子揃って朝風呂に行く習慣のある三五郎とおきちが、連れ立って湯に行く為に花道を入って幕となった。笑いの中に下町の人情を感じさせる芝居で、前の狂言が重い「俊寛」であったので、爽やかな気分で劇場を後に出来るいい狂言立てであった。

 

大阪遠征、もう一つの昼の部はまた改めて綴りたい。