芝翫が俊寛と清盛の二役を演じた『平家女護島』を観劇。その感想を綴る。
結論から云うと素晴らしかった。筆者としては今年3度目の俊寛観劇だが、先月観た播磨屋を凌駕し、松嶋屋におさおさ劣らない凄い俊寛だった。
まず何より素晴らしいのはその濃厚な義太夫味だ。元々芝翫は義太夫味のある優だったが、ここまでたっぷりした義太夫味を表出した芝翫を、筆者はかつて観た事がない。杖をついた出からよろけるところ、リアルに流れず丸本らしい所作で、早くもこれはいい俊寛だと思わせる。作りも当時三十代であった俊寛に合っていて、必要以上に老けさせていないのもいい。
少将、康頼、千鳥を迎えての「肴つかまつる」で立ち上がって踊るも、力なくよろけて転ぶ。ここで見せる俊寛の自嘲気味の笑いが義太夫味たっぷりで素晴らしい。赦免船が来て、赦免状に自分の名前がないと知り「ない、ない」も丸本らしいさびが効いている。東屋が死んだと聞いての嘆きの表現、瀬尾との糸に乗った立ち回り、いずれも見事でこれぞ義太夫狂言と云う醍醐味が味わえた。
最後の「思い切っても凡夫心」も、俊寛の妻を失った絶望と、独り島に残る孤独が舞台一杯を覆いつくし、凄絶な幕切れとなった。手を振りながら「おぉーい」と船に呼びかける場面では、エモーション溢れまくりで、ここまでパッショネイトな俊寛は、観た事がない。勘三郎の俊寛がこれに近いが、感情の奔流は勘三郎のそれよりもう一段大きく、流石にここまでやると丸本の本文からは逸脱気味ではあるのだが、その熱演にはただただ圧倒された。
岩山に登っての見送りは、松嶋屋の様に微かにほほ笑む事はせず、オーソドックな行き方。ただ最後は他の役者の様に背筋を立てての見送りではなく、岩に手をかけて身を乗り出す様にして決まる。
脇では亀鶴の瀬尾が手堅く、橋吾の判官康頼が抜擢によく応えて好感が持てた。新悟の千鳥はこの場では未だしの感。橋之助の丹左衛門は初役としては健闘と云っていいだろう。
芝翫もう一役の清盛も、流石の出来。その大きさ、その義太夫味、申し分ない。東屋の美貌に心を奪われる所も好色な感じが良く出ており、ただの悪党ではない「巨悪」の風格たっぷり。この優で『金閣寺』の大膳が観たいと思わせる。最後は東屋と千鳥の怨霊に取り憑かれ、熱病で死んだ相国入道清盛の最期を暗示するかの様に、炎につつまれての決まりで幕。
序幕と三幕目のみで鬼界ヶ島には出てこない東屋は孝太郎。清盛に向かい、入道の慰み者になっている常盤御前とは違うときっぱり言い放つ。権柄づくには屈しない強さと、品格とを併せもつ凛としたいい東屋。新悟の千鳥も三幕目「御座船の場」では、清盛に「親同然の俊寛、東屋の仇」と言い放つところ、手強さが出て良かった。普段『俊寛』を出す時でも、序幕「六波羅清盛館の場」における東屋の、俊寛に操を立てての自害から出した方が良い。その方が鬼界ヶ島における俊寛の絶望と、それに続く千鳥を船に乗せるくだりの動機付けが明確になり、より芝居が分りやすく立体的になるだろう。時間の関係があるとは思うが。
総じて芝翫の時代物役者としての本領が遺憾なく発揮された、素晴らしい狂言だった。筆者が今まで観た芝翫の出し物の中でも、最高だったと断言出来る。芝翫は甲の声に独特の癖があり、それが耳障りになる事もままあるのだが、今回はそれがなかった。またこの人の丸本が観てみたい。しかし客入りはお寒い限りだった。先月播磨屋の『俊寛』が歌舞伎座でかかっていた影響もあるとは思うが・・・いくら採算度外視の国立劇場とは云え、出し物のタイミングは考えた方がいいだろうと思うのだが。