fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

團菊祭五月大歌舞伎 昼の部 高島屋・松也・右近の「対面」、團十郎の『若き日の信長』、尾上眞秀初舞台

團菊祭五月大歌舞伎の昼の部を観劇。GWに観劇したのだが、期待に反して二階席に空席があった。松也・團十郎が出て尾上眞秀の初舞台となれば超満員と思ったのだが。まぁしかし、たまたまかもしれない。筆者が目にした評では超満員と云う記述もあった。いずれにしろ團菊祭に於いて、音羽屋の孫であり、公式的には歌舞伎界初のハーフ役者眞秀の初舞台と云うのは、振り返った時に歴史的な意味を持つかもしれない。今月の昼の部の見物衆は、歴史の証言者になる可能性があるのだ。

 

公式的にはと記述したのは、大正から昭和初期にかけて活躍し、「花の橘屋」と謳われた一代の二枚目役者十五世市村羽左衛門の出生に諸説あり、現在ではフランス系アメリカ人・ルジャンドルと幕末に幕府の政事総裁職まで務めた越前藩主松平春嶽の娘との間に出来た子供であると云うのが定説化しつつある。ただ公式のプロフィールには記載されていない様なので、あくまで非公式と云う事なのだろう。遺された橘屋の写真を見ると、眞秀より余程ハーフに見えるが。まぁそれはともかく、眞秀初舞台、おめでたい限りである。

 

幕開きは『寿曽我対面』。長年歌舞伎を鑑賞していると、多分この狂言を一番多く観る事になるのではないだろうか。高砂屋の祐経、松也の五郎、右近の十郎、巳之助の朝比奈、新吾の少将、莟玉の三郎、亀鶴の小藤太、吉之丞の景高、桂三の景時、友右衛門の新左衛門、魁春の虎と云う配役。歌舞伎の典型的な役どころが揃った、極めて祝祭性の高い狂言。何度も勤めている役者が多い中で、右近の十郎は初役の様だ。松也の五郎も歌舞伎座では初となる。

 

その二人の曽我兄弟だが、松也の五郎はニンでない事もあるが力みが見えて今一つの出来。する事に間違いはないが、声も上ずっており、所作も力感はあるがこの役に必要な、いかにも前髪らしい青々といきり立った若さが出せていない。やはり歌舞伎座での初役とあって、緊張もあるのだろうか。楽日にかけてこなれて行けば良いのだか。その一方右近の十郎は気品ある所作、松也より若い右近だが兄としての位取り共初役とは思えない見事さ。ニンである事も預かって大きいが、先月の興世王と打って変わって柔らか味の必要なこの役をきっちり演じていたのは見事。これは持ち役になるのではないか。

 

高砂屋の祐経は流石にこの座組にあっては大きい。本来この役はニンではないとは思うが、そこは名人役者。まず手堅い出来と云ったところ。魁春の虎は完全な持ち役、文句のつけ様のない出来。新吾の少将も目の覚める様な美しさ。巳之助の朝比奈も一度勤めているだけあって手強いところを見せてくれていた。少々注文は付けたが、松也ならもっと出来ると云う思いもある。筆者的には久々に歌舞伎座で松也が見れた事だけでも収穫ではあった。

 

続いて『若き日の信長』。大佛次郎が先々代の團十郎に当て書した狂言。初演以来成田屋以外の役者は演じておらず、その意味では歌舞伎十八番以上に成田屋家の芸。当代も新之助時代から度々演じており、團十郎を襲名して満を持しての上演と云ったところか。配役は團十郎の信長、右團次の藤吉郎、児太郎の弥生、男女蔵の五郎右衛門、廣松の甚左衛門、九團次の監物、市蔵の美作守、齊入の覚円、家橘の佐渡守、高砂屋の正秀。團十郎と市蔵以外は初役の様だ。

 

まず何より團十郎の信長がニンである。以前大河ドラマ「おんな城主直虎」で海老蔵時代の團十郎が信長を演じていた。近年の大河はそれはもう時代劇とは思えない低調な作品ばかりだが、その中ではこの「直虎」は出来が良く、中でも海老蔵の信長は出色だった。激高型の信長ではなく、非常にクールで、背筋が寒くなる様な恐ろしさを秘めており、筆者的に大河史上最高の信長と思っている高橋幸治に迫る出来であった。團十郎自身も事前のインタビューで記憶に残る信長として高橋幸治をあげていたのは、(リアルタイムで観てはいないだろうが)流石だと思った。同タイプの信長であり、おそらく「直虎」で演じるに際し、参考にもしたのだと思う。

 

團十郎も四十路半ばになり、以前の様な若々しく狂気を内包した信長ではなくなってきている。その意味で今後何回も演じる役どころであるかは判らないが、まだ若さもあり、ニンで演じるにはギリギリの頃合いだろう。自らを諫める為に自害した守役平手中務の死を嘆き、最も信頼している人間に本心を理解して貰えなかった怒りと死に至らしめた悔恨とがない交ぜになった心情の吐露。全てを吹っ切り、「敦盛」を舞いながら桶狭間へと出陣して行く凛々しさ、これぞ團十郎で、正に本役であろう。まず当代でこれ以上の信長はあるまい。今後はニンを超えたところで、円熟した芸として如何に信長を演じて行くか、注目したい。

 

脇では高砂屋の平手中務が老練で思慮深い人物像をきっちり表出しており、流石の出来。とても初役とは思えない。老練と云うものは経験則に裏打ちされたもので、間違いのない手堅さがある一方、若々しい新しいものを遂に理解出来ない。この狂言の主題であるその辺りのすれ違いをしっかり演じられるのは高砂屋の力量。こちらも当代の中務と云えるだろう。この二人以外は印象が薄いが、あまり為所のある役がないので、それも致し方ないか。しかし上記二人が素晴らしく、見応えのある狂言となっていた。

 

打ち出しは『音菊眞秀若武者』。今月の目玉である音羽屋の愛孫尾上眞秀の初舞台狂言である。眞秀の重太郎、音羽屋の弓矢八幡、松緑趙範菊之助の藤波御前、團十郎の家茂、彦三郎の監物、坂東亀蔵の鷹造、梅枝の梅野、萬太郎の萬兵衛、巳之助の光作、右近の佑蔵、團蔵の掃部、時蔵の高岡、楽善の将監と云う配役。中では團蔵の舞台姿を久々に拝めたのが嬉しかった。

 

それにてしも大したものである。まだ十歳の子供の初舞台に劇団が総力をあげて協力し、團十郎迄神妙に盛り立て役に回っている。音羽屋の威光は凄いものだ。狂言としては大した内容のあるものではない。眞秀に女形と立役の両方を兼ねさせ、将来的に音羽屋の伝統である兼ねる役者への布石としている。しかし僅か十歳乍ら所作はキビキビとしており、声もよく通る。菊之助團十郎に挟まれての所作も物怖じする事なく堂々としていて、将来の大器を思わせるに十分である。音羽屋もう一人の愛孫丑之助のいい好敵手となるであろう。丑之助は播磨屋の血も引いており、将来的には播磨屋の芸も受け継いで行くものと思うが、眞秀には音羽屋の後継者として、純粋培養したいと云う思いがあるのだろう。当人も演じたい役として弁天小僧をあげていた。彦三郎や梅枝の子息達も役者になっており、劇団の将来は極めて明るいと云える。音羽屋も心強い限りであろう。

 

最後は御大音羽屋が弓矢八幡として現れ、武者修行に行く様告げる。正に厳しい芸道に孫を送り出す自らの心情を表しているかの様だ。見物衆からもこの日一番の拍手を受けていた眞秀。まず順調に役者人生をスタートさせたと云っていいだろう。ロビーで姿を見かけた祖母富司純子と母寺島しのぶも一安心と云ったところか。いつの日か眞秀の弁天が見てみたいと願っている。

 

残る夜の部の感想は、観劇後また改めて綴りたい。