fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

国立劇場九月歌舞伎公演 時蔵・松緑の『妹背山婦女庭訓』(第一部)

国立劇場が建物の老朽化によって立て直しとなり、今月と来月の二ケ月に渡ってさよなら公演が開かれる事となった。筆者は七月の鑑賞教室が最後の歌舞伎公演と勘違いしていた。国立の事だから、最後は文楽で〆るのかと思っていたが、「妹背山」の通し狂言を持って来た。う~ん、素晴らしい。入りは六分と云ったところだったが、歌舞伎座より大向うが盛んにかかって通はこっちに来ているのかな、とも思った。尤も今の歌舞伎座は「大向うは三階所定の場所から」とアナウンスしているので、掛けにくいと云う部分もある。係の人に確認すると、三階以外でもマスクをしていれば問題ないとの回答があったが。なら余計なアナウンスをしなければ良いのにとは思う。本当に大向う解禁後も、最近の歌舞伎座は大向うが少ない。あれでは役者も寂しいと思うのだが・・・。

 

通し狂言なので、「妹背山」の一狂言のみ。今月は「小松原の場」から「吉野川の場」迄。時蔵の定高、松緑の大判事、梅枝の雛鳥、萬太郎の久我之助、坂東亀蔵の入鹿、新吾の采女の局、橘太郎の小菊と云う配役。何と全員初役との事。中々に大胆だが、現役の役者で定高を演じた事があるのは大和屋のみ。同じく大判事は播磨屋亡き後、高麗屋しかいないと云う現状だそうだ。この名作狂言が絶滅の危機にあったと云っても過言ではないのだ。その意味で今回の上演の意義は極めて大きい。当然の様に時蔵は大和屋に、松緑高麗屋に指導を仰いだと云う。

 

まず「春日野小松原の場」。歌舞伎座で「妹背山」が出る時はみどりなので通常この場は出ない。通し狂言での上演を行っている国立ならではの事だ。この場は後の「吉野川」の悲劇の発端となる場。ここで久我之助と雛鳥が運命的な出会いをする。一目見た時から惹かれあう二人を察して、腰元の小菊が吹き矢を糸電話の様にして二人を取り持つ。この壮大な悲劇の中で、一服の清涼剤とも云うべきチャリ場を、橘太郎が流石の技巧で面白く見せてくれる。梅枝の雛鳥はいかにも義太夫狂言の赤姫となっており、イトにのったその所作は本当に素晴らしい。曾祖父の三代目時蔵を思わせる面長で古風な風貌は丸本に相応しい資質。この優は天性の丸本女形であると思う。一方の萬太郎の久我之助はする事に間違いはないが、色気にやや欠ける。これは今後の熟練が必要かもしれない。

 

続いて「太宰館花渡しの場」。入鹿に言い寄られた采女の局が禁裏を抜け出て行方知れずになっており、入鹿はその詮議を定高の家で行うと告げ、大判事を呼び出す。入鹿は久我之助と雛鳥が愛し合っている事を知っており、普段家同士が不仲であるはずの定高と大判事の子供の仲が良いのは、不仲が実は偽装で、二人が共謀して采女の局を匿っているのだろうと詰め寄る。この場の亀蔵入鹿がまた良い。普段はテナーヴォイスの亀蔵だが、呂の声を上手く使って公家悪の大役入鹿の手強さをしっかり出している。声も増々父楽善に似て来た。まだ若い亀蔵、流石に大きさには欠けるものの、初役としては成功していると云っていいだろう。

 

最後はクライマックス「吉野川の場」。ここは何と云っても七年前の大和屋と播磨屋の超絶名演が忘れられない。あれが強烈な印象として残っているので、どうしても比べてしまうのは避けられない。しかも時蔵は世話の名人音羽屋糟糠の妻であり、基本的には世話物の女形である。対する松緑も近年本格的に丸本に取り組み始めたと云ったところで、まだ義太夫狂言を自家薬籠中の物にしている役者ではない。その意味で大和屋や播磨屋と比べるのは気の毒ではある。しかし二人とも芝居の上手い優なので、ツボは外さない。

 

時蔵にしろ松緑にしろ、義太夫味には欠ける。しかし二人とも役の肝をきっちり掴んでいる。例えば定高は、大判事親子の事を思い、娘雛鳥を手にかける気丈な女。その雛鳥の首を討つ場面の「嬉しかろ。祝言こそせね、心ばかりは久我之助が、宿の妻と思うて死にゃや」の凛とした科白廻しの上手さは流石に時蔵。女乍らに太宰の家の長であると云う気概と、母としての情愛をしっかりと感じさせる実にいい定高。一方大判事の方も、定高親子の事を思って、罪を引き受け切腹した久我之助の介錯をする。この場の松緑は、必要以上に泣き上げる事をせず、ぐっと堪えた中に父としての無念を感じさせるこちらも見事な大判事。雛鳥も死んだ事を知り、「忠臣貞女の操を立て、死したるものと高声に、閻魔の庁を名乗って通れ」の涙交じりの科白廻しは、初役とは思えない立派さ。この場は萬太郎の久我之助もきっぱりしており、長い間切腹刀が腹に入ったままの難役を、しっかりと演じていた。

 

もう一つ蛇足だか付け加えると、松緑は声をやってしまっている様で、甲の声が出し辛そうであった。歌舞伎座との掛け持ちで、疲労もかなり蓄積されているのだろう。若い若いと思っていた松緑も今やアラフィフ。十二月と一月には「忠臣蔵」のスビンオフ作品である『荒川十太夫』と『俵星玄蕃』を演じると云う事で、身体にはくれぐれも留意して貰いたいものだ。

 

しかしこの狂言は名作である。日本版「ロミオとジュリエット」と云う評もあるが、いやいや、あちらが英国版「吉野川」でしょう。両花道を使い、竹本も上手・下手に分かれて川を挟んで両家の様子を見せる演出は絶妙。この二人以外の役者、例えば七之助幸四郎にも挑んで欲しい狂言だ。殊に幸四郎はお父っつあんが元気な内に、何としても大判事を学び取っておいて欲しいと、切に願っている。

 

注文を付けたところはあるものの、この狂言が令和の御代にも受け継がれた事は本当に大きい。来月は第二部として、「三笠山の場」が上演されると云う。大いに期待したい。