fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

南座 坂東玉三郎特別公演 大和屋と愛之助の『怪談 牡丹燈籠』

個人的に、近年恒例となっている夏の京都遠征。カンカン照りではなかったが、やはり京都は暑い。外国人観光客も多く、人出はコロナ前に戻った様な印象を受ける。去年に引き続いての大和屋と愛之助による南座特別公演。客席もほぼ満員の入りで、大和屋と愛之助が組んだだけの事はある。夏には怪談と云う事で、今年は「牡丹燈籠」を持って来た。大和屋が南座でお峰を演じるのは初めてだと云う。

 

この「牡丹燈籠」は、元は落語中興の祖と云われる明治の大名人三遊亭圓朝の作。古今に比類を絶した名人だったと云うが、録音は残っていないのでその至芸を確認する事は出来ない。しかしこの「牡丹燈籠」を始めとして、「真景累ヶ淵」「芝浜」「文七元結」などなど、歌舞伎にもなっている作を沢山残してくれた、歌舞伎界にとっても大恩人である。「牡丹燈籠」は明治にも歌舞伎化されているが、近年上演されているのは、昭和四十九年に大西信行文学座の為に書き下ろした脚本。お峰を杉村春子、伴蔵を北村和夫が演じたらしい。それを孝玉が組んで平成元年に歌舞伎化した。今回は大和屋のお峰、愛之助の伴蔵、玉朗のお露、功一の久蔵、歌之丞のお六、吉弥のお米、そして新派から喜多村緑郎の新三郎、河合雪之丞のお国と云う配役。中では愛之助・玉朗・功一・緑郎が初役の様だ。

 

まず従来と大きく変わっているのは、時間の関係だろうがお露の父飯島平左衛門に絡む話しが一切出てこないと云う点。よって後段に出て来る笹屋の酌婦お国が平左衛門の妻であった背景もなく、愛人の宮野辺源次郎と共謀して平左衛門を殺すエピソードもカットされている。なので第一幕の「大川の船」の場にはお国と源次郎を乗せた船は手でこず、お露とお米の船一艘のみ。次に狂言回し的な役割を担っていた三遊亭圓朝も出ず、代わって幕間に出て来る舞台番の喜多村一郎が、状況を説明する役を担っていた。

 

そして今までの「牡丹燈籠」との最も大きな違いはエンディング。従来は伴蔵が女房お峰を騙して幸手堤に誘い出し、殺してしまう。そして殺した後に我に返り、号泣するところで幕となると云う筋だった。しかし今回は幸手堤には行かず、関口屋の中でお六とお峰が幽霊になったと思い込み、夢中で二人を刺し殺したところで舞台が明るくなり、伴蔵が我に返って愕然とし、よろめき乍ら花道を入って幕となった。これは前回の歌舞伎座での上演から大和屋が演出も担う様になり、変更したものだ。よって従来三時間くらいかかっていた狂言だが、今回は二時間程度にまとめられている。

 

これだけ変更があると印象が大きく変わる様に思われるだろうが、それほど違和感がないのは、大和屋の演出の腕だろう。ただお国がお露の仇であると云う背景はずっぽりカットされているので、因果的な恐ろしさは減退している。大和屋の狙いは(時間の都合もあるだろうが)伴蔵とお峰の夫婦関係にフォーカスする事にある様に思う。お峰を騙すシーンがないので、伴蔵が本質的には実直な人間であると云う印象が強くなっている。その普通の実直な人間が、金を手にした事で変わってしまい、遂には自滅してしまう。大和屋はその恐ろしさを表現したかったのだろうと思う。

 

愛之助はその平凡な、女房の尻に敷かれる亭主像をきっちり表現している。江戸の芝居だが、上方出身の愛之助が違和感なく演じているのは、流石である。お露とお米の幽霊に、恩義のある新三郎が魔除けの為に貼ってあるお札を百両の金と引き換えにはがす様頼まれる。しかし恩ある新三郎が幽霊に殺されてしまうかもしれないと思うと踏ん切りがつかない。その優柔不断で小心な人物像を、ときに可笑しみを交えつつ演じた愛之助。初役とは思えない見事な芝居であった。

 

そしてその亭主をそそのかしてお札をはがさせ、結果的に新三郎を殺す事になるきっかけを作る大和屋のお峰。マクベス夫人の様な役回りなのだが、こちらも実に平凡な人物として作られており、マクベス夫人の様な妖気はない。それどころか、現代語調を交えて速射砲の様に科白をまくし立てる大和屋には何とも云えない愛嬌もあり、これまた実に見事なもの。昔馴染みのお六が江戸から遥々栗橋迄訪ねて来たのを歓迎して、亭主の伴蔵が迷惑がるのも一切構わず、家に住み込ませるくらい厚遇する優しさもある。馬子の久蔵に酒を呑ませて、亭主が笹屋のお国に入れあげている証拠をつかもうとする場のやり取りも実に上手い。亭主の浮気なぞ全然気にしないと云いながら、酔った久蔵からお国への入れあげぶりを聞いた時に、今までの愛嬌ある口調から一転、「悔しいねぇ」の一言でその場の空気まで変えてしまう水際立った技巧の冴えは、全く見事なものだ。

 

一方怪談的な場であるお露・お米と新三郎の絡みは、お露の玉朗が余りにしっかりし過ぎていて、幽霊的な妖気がない。しかしお露に常に付き従っている吉弥のお米が実に上手く、この優の存在がこの世の者ならぬ雰囲気を醸し出しており、流石ベテランの芸。その所作、科白廻し、どれを取ってもこれぞお米。改めて吉弥の腕前には感心させられた。脇ではこの吉弥の存在感が群を抜いていたと思う。緑郎の新三郎は、お露が焦がれ死にするのも頷ける程の抜け出た様な二枚目ぶりで、こちらも結構な出来。そして雪之丞が、伴蔵を骨抜きにする艶な雰囲気を漂わせた見事なお国で、夫婦を破滅に追い込む切っ掛けとなる悪女をきっちり演じていた。

 

総じて所謂「怪談」的に要素は後方に下げられ、平凡な夫婦が金と欲望の為に破滅して行く姿を中心に描き、本当に怖いのは人間の心だと云う、大和屋の考えるこの狂言の主題が実に鮮明に表現されていた。短縮バージョンではあったが、素晴らしい「牡丹燈籠」であったと思う。来年もまた南座で、大和屋公演が開催される事を期待したい。